風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

My Lucky Star

2009年10月30日 19時36分01秒 | エッセイ、随筆、小説





さて、どのように検索するか・・・・・と考えた。
気候の温暖なハワイ、友人のいるロスアンジェルス、主治医から提案されたニューヨーク、
高次脳機能障害に関するアメリカのリハビリテーションの実態を調査または勉強するには、
どの地域の、どの施設、または医療機関や大学が適切なのか、と。

すると、718からはじまる電話番号が携帯に表示される。
ブルックリンからだ。
久しぶりの声、わざとどなた?などと意地悪を言ってみせる。
いつも通りだ、と擦れた低音でセクシーな声が受話器の向こう側から聴覚を優しく擽ってくる。

何年ぶりかしら?と私。
今年の冬、ニューヨークにいたのよ、と続ける。
あなたの家に電話をしたけれど、現在は使われていませんというメッセージが流れたから
てっきり、出身地であるフロリダに戻ったものだと思っていたわ、もう連絡もできないのだと思って、と。
母親の介護でフロリダからアトランタの病院に数ヶ月滞在していたと、それから経過が説明された。

いいことを思いついた。
うふふと笑った。
いたずらを思いついたときの笑い声だ・・・・と友人は言った。
それが君自身で、なにも昔と変わっちゃいない。
事故からの経緯を心配していたけど、いたずらを思いつくなら良好だね、と声を弾ませる。

彼との出会いはフロリダ発アトランタ経由ニューヨーク行きの機内で、
私の後部座席が彼だったそうだ。
その日は生憎の荒れ模様で、空は怒り狂ったように、泣き叫ぶように、
雷とどしゃぶりの雨が予定時間を大幅に遅らせ、
私は日系企業とのミーティングに間に合うなど、絶望的だった。
しかも、ホテルも予約しておらず、友人の誰とも連絡を取り合ってはいなかった。

甘かったのはアメリカはテロに備え、日本のように荷物の一時預かりやロッカーがないことを
その日に初めて知ったという馬鹿さ加減に、自分で自分が嫌になりかかっていた。

もしマンハッタンへ行くなら、一緒にタクシーに乗りませんか?と声をかけてきたのが彼だった。
私は言った。
これから大事なミーティングがあるので、この荷物を預かってもらえませんか?
後で引き取りに行きますので、と。
彼は不思議そうな顔をして、首を傾げる。
私、宿泊先を用意していないので、まずはミーティングに出席した後、
荷物を受け取り、考えようと思っていますので。

私も私なら、彼も彼だ、と思う。
私を怪しむわけでもなく、さらさらと住所をダイアリーの一ページに書き込むと、
これから向かうレストランの最寄り駅からの地下鉄の乗り換え方法など詳細に綴って、
ではレディー、後ほど・・・・・と言ってタクシーを準備してくれるのだから。
私はその後、無事(とはいっても大遅刻で大目玉を食らったが)ミーティングを終了し、
彼の記したアパートメントのあるブルックリンに向かった。
そこには日本庭園がある閑静な住宅地だった。

僕はこれからガールフレンドの家へ行くから、君は、えっと、名前はまゆみだったね?
まゆみは何日ニューヨークに滞在するのかわからないけれど、
もしよければここにステイして構わないので、自分の家だと思って自由に使えばいい。
ニューヨークのホテルは高いから、ここにいればいい。

1999年の夏のはじまり。
不思議な出会い。
縁。
恩恵。
感謝、そして、たくさんの思い出。

彼は作家を目指しながら・・・が目的なのだそうだが、ルックスがいいので俳優を職業にしている。
あれから10年の歳月が流れ、また連絡を取り合える関係に戻った。
大切な友人の彼。
議論仲間。
今日の国際電話も結局のところ、3時間も話し、ニューヨークが午前3時だということで切ることになった。
もし午前3時でなければ、まだまだ私たちは話をしていたと思う。
それだけ尽きない話がたくさん引き出しに詰まったままだ。

さていたずらを思いついたときのような微笑は、
彼に高次脳機能障害の存在を知らせ、
アメリカでの施設や病院・大学に連絡を取ってもらい、詳細を調査してもらうというアイデアだ。
奨学金審査までにはあと一ヶ月の時間しかない。
いつも無理難題だ・・・・と言いながらも、渋々と、でも嬉しそうに、彼は「YES」と言った。

THANK YOU FOR EVERYTHING
YOU ARE MY LUCKY STAR





交通事故事案に関わる偽善者

2009年10月29日 17時42分48秒 | エッセイ、随筆、小説






交通事故事件の根深さを思い知る。
月日が経過するごとに、過去を振り返るたびに、あれはなんだったのだろう・・・・と思う。
そこには偽善という2文字が付き纏うためなのだが。

詳細は書けないが、私は加害者側保険会社とのやりとりの中で、ある約束事を守らせていた。
そして、その管理が自身で行うには莫大になってきたために、行政書士に仕事を任せることにした。

なぜその行政書士でなければならなかったのか・・・・を今思い出すのは非常に困難なのだが、
おそらく、ネットサーフィンしている最中に、交通事故を専門とする・・・・などという誘い文句が
目に飛び込んで、業界を知らない私はすぐに携帯で連絡を取った・・・という経緯だったと思う。

業務内容といえば、私が書いた加害者側保険会社への書類を、行政書士名義で送り、
管理する、という単純なものだったはずだ。
なぜなら弁護士ではないために、行政書士は交通事故処理を専門に、
もし仮に得意分野として謳っていても、弁護士のような交渉権は持たない。

私がなぜ行政書士を必要としたかについては、損保会社の封筒やテレビコマーシャルを見て吐き、
気分が悪くなるのが当然のような日常になっていたために、
どうすればやり取りを続けながら同時にそことの距離を保つには・・・の回答が、行政書士だったわけだ。

でも今思うと本当に無知だったと思う。
記録をみても、文章は誤字脱字だらけだったので結局は私が作成していたし、
示談時期ばかりを提示されて、それが一般的だ・・・と何度も何度も繰り返し言われたに過ぎない。
また、医師でもなく、治療状況も把握していない行政書士が唯一コンタクトが取れたのは加害者側で、
そこからいろいろな情報を聞き出し、私の体調を無視する「示談」にこぎつけようとしていたのだろう。

もし示談をしていたら・・・・と思う。
この行政書士に入った闇の報酬はいくらだったのか、と。
そして、私が解雇してから、というよりも、示談する気持ちがないことが明確になると、
いろいろな理由をつけて、業務を執行できない=契約解除だと訴えはじめた。
が、契約以上のものを要求していたわけではなく、
私はただ、あなたがいうとおりに示談はしないと言ったまでのことだ。

まさか現在においても私が示談せず、不具合の原因であった本当の疾患名に辿り着くなど
思ってもみなかったことだろうと思う。
彼はお気の毒に・・・・と言った。
でも、私はその男の目の奥に同情など潜んではいず、ただ私が金に見えていたはずだ。
しかも、自分の利益にならないとわかると即座に契約金だけを受け取り手を引く悪質業者、
彼は、そうした不条理な輩もたくさんいますから、気をつけてくださいね、と言った。
実際は彼もその輩であったわけだが。

あと数日で交通事故に遭って丸5年が経過する。
あの日の出来事は鮮明に覚えているのにもかかわらず、今日が何月で、何日なのかが
私にはわからない。



がんと高次脳機能障害

2009年10月26日 08時08分45秒 | エッセイ、随筆、小説




聞いたことあるわ、と言った。
幾分痩せてみえ、顔色は日焼けした・・・というよりも土色に近く、エネルギーを振り絞って・・・・・
が表現するに近い。

娘が通学してた私立高校の文化祭に顔を出した。
というのも、体調が悪く、卒業式に出席できず、友人になった娘の同級生や先生たちとも
きちんとした挨拶を交わしていないから・・・・・が学校へ行く最大の理由になった。

担任の女教師は全身に転移したがんの苦痛に耐え、ステージ4にさしかかったところよ、と苦笑する。
そっちは?というので、私は高次脳機能障害の診断がついたばかりだけど、
物忘れがひどく、転ぶわ、感覚が鈍くなるわで、日常生活なんかこんなんじゃ送れないわよ、とぼやいた。
でも、私の方がまだましね・・・・・・とは言えなかった。

神様がもしいて、ときどき悪戯をする。
その悪戯の標的にされた人たちは、必ずなにかを学ぶ力を持っていると見ていて思うときがある。
もうフネに乗ろうという気力がなくて・・・・・と言ったヨットの先輩の兄も筋ジストロフィーだと聞いた。
発症はどちらも20前後なので遺伝子になんらかの細工がなされたのかという話をしたことがあった。
そう思うしかない、と彼はにこにことした笑顔で言うものだから、私は言葉を失った。

では私が完治できないのは。
もともと生れ落ちた瞬間に、きっと、おそらく、
母の腹の中で細胞分裂がはじまった頃にでも体や精神や神経の設計図ができあがっていて、
ある種の病気には強い細胞を体中に敷き詰めているのに、
ある分野の病気にはめっぽう弱い。
その弱い方を発症した場合、私は命には別状がなく、ただ日常の生活に困窮するだけなので、
時間が過ぎ去るのを待つしか方法はない。

ひとつは老いる=死という選択を待つこと、
もうひとつは、小さな小さな希望の光を遠い場所にみえる錯覚に溺れながら、
どうにか生き抜く手段を考えるということだ。
ここでいう生き抜く手段とは、なにも医療に依存するわけでも、薬の力を借りるわけでもないので、
誤解しないで欲しいと切に願うのだが。

今朝も万能ねぎを切った後に、空になったビニール袋を冷蔵庫に仕舞った。
弟が、ごみを冷蔵庫に入れているのは誰だ?と大声を上げるので、
記憶はないけど、たぶん、私だと思う、ごめん・・・・・と蚊の鳴くような声でもぞもぞと言った。
右手にできた火傷痕、
本当はできた・・・・・ではなく、できていた・・・・・が正解だ。
だって、覚えがなく、気付いたときには火傷を負っていた。
でも、いつ、どこで・・・・がわからない。
料理もした覚えがない。
ただわかるのは、その傷が新しいということくらいだ。
痛むことは普通の人と同じように、私にもよくわかる。

雨の月曜日だ。
仕事を持っていた頃の私は、この雨の月曜日が恋しくてたまらなかった。
理由は定かではないが、おそらく日曜日を引きずったままの出勤なので、
雨が降っていると、ぼんやりしていてもさほど目立たないという不精な言い分だったはずだ。

聞いたことがあるわ、と言った。
先生はすでに余命を聞いているのだろうか。
見せる笑顔とは反比例する痛みが私の胸内をちくちくと針で刺すように繰り返す。

 


 


PERNOと障害の概念

2009年10月24日 08時29分02秒 | エッセイ、随筆、小説






八重洲の喧騒を忘れさせてくれる店、
暖簾をくぐると笑顔の紳士がカウンターの一番奥に。
その紳士は海が、空が、波が、太陽がとてもお似合いの方なので、
陸に、しかもスーツ姿でいらっしゃったことは、
嬉しい驚きでもありました。

なにをお召になってもお似合いなお姿に、
嫉妬を覚えない人はおそらくいないでしょう。
例外なく私も。
また女性であれば恋心を抱かない人はいないのではないかと。
さぞ銀座でもおもてになるだろうことは言うまでもないでしょう。

美味しいお寿司をいただき、楽しい時間の語らいは
時間というもののいたずらを、その速度とは相違する深さや重さを
後味や余韻として残してくれるものでした。

最後はPERNOで乾杯、
障害があろうともそれが人生だ、という激励付きで。
だからヨットに戻るように説得され、降参。
指示出しの、怖いおばさんの演技を要求、本当はやさしいのに・・・と思う。



障害者を、しかもヨットに乗船させるのは、健常者にとって相当なリスクがともなう。
ヨットの世界は生きるか死ぬかしかない。
後遺障害という言葉が存在しないため、
バイク事故で私のように中途半端な障害が残った者などいない世界だという。

にもかかわらず、ヨットに戻るように諭された。
何年ぶりだろうか、オーナーとふたり、さしで飲み歩き、あっという間に自分の誕生日を迎えていたのは。
40歳という節目に、この紳士と時間を共有できたことは私にとってこの上ない光栄だと伝えた。
また、障害など負い目に感じることなく、自分ができなくなってしまったことは先輩後輩関係なく、
他人を使いこなせばいいだけだ、と言ってくれるのは、私の知る限り彼だけだろうと思う。

情熱という言葉が浮かんだ。
そこいら辺に転がっているような安っぽいやさしさとは違う、どこか海や空に似た広大さや深さがある。
それに包まれている安心感が私は好きだ。

元気になったら、健康になったら連絡を。
それまでは連絡をしないで欲しい・・・・・・と言ったきり、連絡の一切には応じない友人もいる。
たぶん、その人は友人との呼称に値しない。
私もひねくれているものだから、あなたが元気ではなくなったとき、健康を損なったとき、
私の今の状況を理解できるのは皮肉ね、
どれだけ残酷なことを言っていたのかを体力のない状況下で考えさせられるのだもの、と笑ってやった。
それが最後の会話となり、携帯電話からもその人の履歴も連絡先のすべても削除するに至った。

元気にならない、健康になれないのは私たち障害を持った者たちの責任ではない。
おそらく医療の進化をいくら遂げても、治せないもの、治らないものはいつまでも存在し得るもので
言い換えるならば、それが人間という生身であるがゆえの運命を背負っているとはいえないか。
それは平等だ。
誰に、いつ、どのような病気や障害が降りかかってくるかは、誰にも、まして本人にもわからない。
だから健康になったら・・・・という言葉を聞いたとき、人間を知らない人の発言ね、と付け加えてやった。
相手からの返答はない。
人間を知る術など、誰が教えてやるものか、と心の中で舌を出して、一発殴ってやった。
ざまーみろ。

根津の夜は風情のかたまりのようで居心地がよい。
数えれば、15年前くらいに一時根津に住んでいた時期があったが、
この独自の空気感を知らないまま実家に戻ってしまったことを今更ながらに悔いた。

ノルマンディ出身の、フランス人のソムリエが加わり、PERNOという酒をロックで。
誰の会話も噛み合っているわけではないのに、ジャズセッションのように、
なぜか最終的には心地よいリズムを、メロディを奏でていた。

誰が言えるだろう、と思う。
障害なんか負い目に感じることなく、風を感じにおいで。
そこにいてくれればいいのだから、と。




106項目の質問

2009年10月21日 06時39分08秒 | エッセイ、随筆、小説





はい、もちろんです・・・・・と答えた後、でもいつになるのか・・・・と加えた自分が悔しい。
質問の趣旨は「今後、仕事をしたいと思っていますか?」というものだったのだが、
即答する自分に驚いたのと同時に、それはいつになるのでしょうか?と質問を返す自分がいた。

自分ひとりでの闘病に限界を感じたのは、自殺の恐れがあったためだろう。
自分の意思でなく、なにか突発的な事故のような自殺をしてしまうかもしれないと危機感を募らせたため、
役所に相談へ行った。
ヘルパーが必要だと感じた理由は、週に1日でも誰かが来るという予定があれば
突発”は起こさないんじゃないか・・・という淡い、根拠はないが期待が込められていたように今は思う。

あれから3ヶ月半経過、
ようやく行政から連絡がきた。
訪問したい旨、と同時に106項目の質問をさせていただきますが体調は持ちますか?と尋ねられた。
最悪、寝かせていただく場合もございますがご了承を・・・で話はまとまった。

私が危機感を募らせていたのは3ヶ月前のことで、実際に「今」同じ状況ではないため、困惑した。
そして、今頃自宅を訪問して、なにをみて、なにを話して、なにを決めるのかと疑問の津波にさらわれた。

いい人たちだったので、行政の、私を担当する福祉課の人も保健婦さんも、すごくいい人だと思った。
でも、ふとした瞬間に「娘さんが深夜にでも帰宅した後に介助ができる可能性もありますよね?」と。
自分の耳を疑いながら「大学へ行き、その後、自分の通学のための交通費捻出のためにバイトをし、
深夜近くになって帰宅する娘に、私の部屋の掃除をさせるのですか?」と聞いた。
私が寝るのは通常9時ごろだ。
掃除機の音が苦手なのは置いておいたとしても、フローリングの床を深夜に・・・・・・・
「確実に娘は潰れますね」と気付くと口にしていた。
それがわかっているから他人である、どこの誰だかわからない人でも、抵抗があっても、
ヘルパーを必要とした方が生き延びるためだと思ったのに・・・・・と心の中で思った。
なにかが違う・・・・・とも。

米国で高次脳機能障害についての専門知識をつけるには、NY大学がいいのでは・・・と主治医は言う。
が、ワンクールの学費が2千万もするので、そこではなく、どこか探してみますね、と電子カルテに記入、
学費、2千万か・・・・と私はため息を漏らす。
通常の家庭でも無理だ。
しかも、私は今職業を持っておらず、学費の捻出には奨学金しか頭には浮かばないが、
2千万もの大金を奨学金に・・・・・・は聞いたことがない。

私の調査が間違っていなければ、高次脳機能障害の支援センターが東京都に設立されたのは平成18年、
まだ最近だとの現状が浮き彫りになる。
他、全国には何箇所かの支援センターが存在するが、専門医がいるわけではないので、
医師の力量というか、その医師の価値観や見解が鍵となる部分はばくちに近い。

先に伝えたとおり、専門医という概念はこの国にはなく、
脳外科や精神科、リハビリ科などの医師の中で個人的に知識を身につけ、
患者の対応にあたっているのが現実なのだが、
東京にあるK大学付属病院などは支援病院になっているにもかかわらず、私は門前払い状態だった。

なぜこんな話をするのかというと、行政の方々の中にもいまだに高次脳機能障害を理解しないまま、
調査に来ているために、これでいいのか?と思ったのがきっかけになった。

私は買ったはずの切符を失くす。
しかも、介助者がいても、よく。
話をしていないと思っている内容を何度も楽しそうに語る。
時間の感覚がまったくない。
耳から入る情報を理解する間もなく、次々情報が入力された場合、なにを答えるべきなのかが
最初に話をしていた言葉を探し出すことは不可能に近い。
通院やなにか用事がある場合は3人の他者の脳を借りて記憶してもらい、カウントダウン的に、
私が理解しやすいように、なぜ、この日時に、この場所へ行くのか・・・・を何度もメールで送ってもらう。
だから、通院日時を間違えずに行くことができるのだと、
医師も臨床心理士も妙に納得した姿が印象に残り、目に焼きついている。

仕事はしたいですよ、もちろん。
人とも関わりたいですよ。
それができるようになると信じて闘病にあたっているので、ぜひその辺も、私を会議にかけるときに
補足として、障害者がどのような気持ちで生活しているのかを伝えてみてください。

障害者・・・・・・か。
でも、私は恵まれた人生を送っているのだとつくづく思う。
さて、どのようにして、専門知識を身につけるか・・・・・・が今後の焦点になりそうだが。

 




 


haru haru (day by day)

2009年10月17日 09時36分22秒 | エッセイ、随筆、小説






今日は、今夜は特別な時間、無礼講でいこう。
だって、今まで、ひとりぼっちで、頑張ってきたのだもの。

相手はそれを職業とするプロばかりの中で、右も左もわからないのは私ひとりだけ。
そうした構成である交通事故処理という厄介な試練の、
どこだかわからない自分の立ち位置、不安定感、浴びる罵声、差別的な発言、屈辱や人格への攻撃、
それに加え、心細さ、痛みとの格闘、幾度となく経験する医療放棄との遭遇、
見えない障害という新たなテーマとの出合い、私の現実を受容できない家族との確執、主に母との軋轢、
説明書のない自分という存在の取り扱い方法、過去の自分との決別、ただし思い出は含まず。

との、もろもろの理由を楯にして、今夜は飲みます。
遊ぶ、くだをまく、暴れる、泣く、騒ぐ、ごねる、語りまくる。
でも、私はもともと酒が飲めない性質なので、一滴だけアルコールを忍ばせたなんちゃってカクテルで
飲んだ風”を楽しむことにします。

明日になれば日常の、ベッドの上で大人しく横になって、
毛布に包まれて、窓からすこしだけ覗く空を眺める生活に戻りますので。
だから今夜だけは見なかった、なかったことにしてください。
お願いします。

そういえば今思い出したから書き留めることにする。
私、寝たきりになるか、いずれ近い将来に自殺をする運命になるでしょう、と言われたんだった。
加害者側の損保会社顧問弁護士に。

あの日は雨が激しく降って、夜がはじまる時間帯、カフェのBGMと合わさって聞き取れなかったんだ。
で、何ですか?と尋ねた。
体調が悪かったので、壁にもたれかっかった状態でしか椅子に座れないので、
失礼しますって私は誠意ある態度をしたつもりだった。
でも、あなたはよくて寝たきりか自殺をする運命にあるのですよ、と言い直されたとき、
人間の悲しさを見たような気分になったんだ。
こんな状態の私を目前にしてでも、死を意味する言葉を言える人種がいるんだって驚かされたんだ。
人間の残酷さってたぶんこういうことなんじゃないかとも考えさせられたりして。

彼らが希望した状態、寝たきりになるか自殺を・・・・・
あれから2年半が経過した現在においても、残念ながら私は生き抜いている。
いまのところ、自殺も考えてはいない。
生き抜くことこそが彼らへの打撃に結びつくなら、静かに、強かに、生き抜いてやるとある夜、
雨の洗礼を受け、私は決心したんだった。

だから今夜は無礼講でもいい。
1日、1日を、ただひたすら、生き抜いて今日が、今夜があるのだもの。




 


もしあなたが”交通事故被害者”になったなら

2009年10月16日 13時56分28秒 | エッセイ、随筆、小説





国土交通省から所管の財団法人へ。
次に紹介先にあげられたのは、東京都のある部門だった。

しかし、明確な回答は得られなかったので、私の質問趣旨を説明したところ、
即答ができない理由を「統括部門である某部長への許可が必要になるため」と告げられた。
また5分後に連絡をして欲しい、そのときに回答できるものなのかどうなのかがわかると言うので、
私の質問趣旨は交通事故被害者実態に大きく関与するものなので、直接お伺いしてお聞きします、
もし回答ができない場合はその理由に加え、ではなぜ交通事故被害相談などという問題を扱っているのか、
その意義を問いたいと思ったが、やはり一時間経過しても折り返しの電話連絡はこない。
電話番号と氏名を告げておいたが、時間のかかった理由をさてなんと弁明するのだろうか。

面談をするつもりがないのか、面倒だと思われているのか、どのように対処すれば妥当か、
私の取り扱いを議論しているのだろうか。
交通事故被害に遭わない限り、交通事故という実態はわからないのが正直なところだと思う。
実際に国として被害の究明にあたっているところはなく、国や行政へ問い合わせをしたところで、
ここではない、と付き返されるのが現実だ。
事実、交通事故被害者が負う被害を把握している、または把握しようと努力している機関はない。
利害が絡むためだろうが。

警視庁の見解では、交通事故の重軽度を表示(交番に掲げられている数字)する場合、
死亡は交通事故事件から24時間以内に死亡した場合のみ「死亡」と記す。
重傷者は最初に運ばれた病院の医師の見立て(ほとんどが傷害の専門医ではない)によって決定され、
診断書に書かれた全治が「31日以上であれば重傷」「30日未満であれば軽症」との判断がなされる。

私には全治30日と31日との差異がなんであるのかがいまもって理解できないのだが、
交通事故はそうした実態からもわかるように、
他者の尺度や力量によって人生を左右しかねない事件である。
ここでいう数字というものはなにも浮き彫りにはしていない。
ただ事件があった数だけが正確であるというだけに過ぎない。

もしあなたが交通事故に遭ったらどうしますか?
もちろん、これはまもとな交通事故被害という意味においてです。
損害保険会社側からすれば詐欺などの被害も当然想定されているでしょうから、まともな、と書きました。
これだけの車社会の日本において、
交通事故被害の実態が究明されていないのは異常だとは感じませんか?
それとも解明できないなにか力が働いているとでも解釈した方がよいのでしょうか。






後遺症という概念

2009年10月15日 06時48分27秒 | エッセイ、随筆、小説





ロスアンジェルスから届いたノート(メッセージ)にはこうある。
“あなたが健康になり、ポジティブで、たくさんの笑顔に溢れるならいつでも会う準備はある”と。

健康か・・・・・・ポジティブか・・・・笑顔か・・・・・・と言葉が内側の、私のどこかのフックにでも触ったのか、
気持ち悪くなってノートを読み返すのをやめた。
ただ私の体調を、健康を誰よりも願っていることだけは有難いことだとは心から思ったのだが。

ときどき思う。
この世の中に、本当に健康である人間など私たちが考える以上に少ないのではないか、と。
交通事故の後遺症に苦しむ過程において、
事故そのものの被害も当然のことながら、その後の二次、三次被害、病気に関する厳しい現実の告知と
忙しく心を傷つけ、消耗していく出来事に遭遇する。
そのためにカウンセリングをいつでも受けられる体勢を整えておくことは重要だと私は痛感している。
しかも、交通事故被害がどのような試練であるかを熟知した医師とセラピストという条件付きでもある。

お気の毒に・・・・・・という言葉をときどき投げられると、お気の毒様はあなたの方よ、と思う人がいる。
健康だと思い込みたいのだろうが、健康ではない自分という存在が許せないのか、
大量の安定剤を飲み、睡眠導入剤を服用、
しかも、私が交通事故に遭う前から世話になっていたはずなので、
その人が健康ではないという意識が私にはついてまわった。
だから会話にも気遣い、彼女が刺激を受けそうな言動や態度はせず、無理に明るく振舞うことも、
元気になればいい、頑張ってね、との言葉も禁忌扱いしてきた過去がある。
いや、現在に至ってもだ。

話はロスアンジェルスに戻すが、後遺症という概念が欠落していると思うのは私だけなのだろうか。
おそらく私が待ち望んでいたものは“今のあなたで十分よ”という類の、現在を受容する表現であって、
完治しない、もしくは後遺症として残存する症状を抱えた者を除外する発言の羅列に、
元気で、ポジティブで、笑顔で・・・・・・が妙に後味の悪さを残す結果になった。

毎日元気で、ポジティブで、笑顔で・・・・・は自然に反しているし、人間という本質を理解していない。
もっといえば、他の病気、あえて病名は出さないが、バランスを崩した状態であると私には思える。
だからか、視覚から入力された言葉が脳内に沈殿していったとき、
どろどろとしたヘドロのような感触の、ニオイのきつい物体だけが後味として残っている。
元気で、ポジティブで、笑顔に満ち溢れた状態でなければ会わないと解釈されがちなノートを削除、
自然でいいじゃない、病気を持っていても、後遺症に苦しんでいても、たとえ歩けず、寝たきりでも、
その人が生きてさえいてくれればいい。
それが温かみのある、人間を知るものにしか書けない言葉だと私は思う。

生滅する記憶、鋭い嗅覚を備えた感性や感情、鈍い身体の感覚や軽度の麻痺、
ときどき襲われる強烈な吐き気や痛み、その他。

その現実を目前にしても逃げ出さない人間だけが私のもとに残る人たちなのだろうと思う。
大丈夫とか、辛そうだねとか、苦しいとか無駄な言葉をかけるのではなく、
ただじっと、その姿を見守ってくれる人が私たちにとって優しい人だ。







Barと恋と高次脳機能障害への誘い

2009年10月13日 22時48分25秒 | エッセイ、随筆、小説






Barというと新宿、特に新宿3丁目が好きです。
摩天楼の足元、飲食店で賑わう通りから路地にふっと曲がったところに、
小さな看板が灯っています。

3階へあがり、革張りのドアを開けると、そこには4席のカウンターとソファ-、
ひとつのテーブル、そして、テラスからなるプライベートBar。

美味しいモルト&ラムを。
お好みに合わせてハーフショットからお楽しみいただけます。

ちょっと他にはない大人の隠れ家で、至福のBarTimeをお過ごしください。
あなたの好きなシガーのご用意もございます。
きっとあなたの感性という琴線に触れることを信じてメールを書いています。


この人に振られるためにはどうすればよいのだろうか。
自宅から歩いていけるBarで、嫌われる思索を、誰もいないカウンター席で考えを巡らせる。

服を新調した。
この日の、この人のためだけに。
憎らしい女を演じて、もう二度とこの女とは逢わないと決心させなければおそらく、
私がこの人の、やさしさに溺れ、離れることができなくなってしまいそうで怖い。

受容できない障害を、その整理がまだついていないことを理由にすれば誰も傷つかずに済む。
でも、この人のことだから、
そんなことは関係ないとでも言うか、僕が君を護るとでも言い出すに決まっている。

大人の恋というやつは厄介だ。
しかも、感情の抑揚が自分でもわからない今、
恋をするべきではないともうひとりの私が私を諭しにやってくる。
でも、恋は次から次に私の目前に現れてはこころを動かし、ときめき、振り回され、疲れ果て、
結局のところ、自身の抱える高次脳機能障害が恋を諦めさせる前にそっと忘れさせてくれる。
誰と恋に落ちていたのかわからないうちに、次の恋が、そして、その次の恋が・・・・・と、
私に恋の楽しさを思い出させてくれはしても、恋を成就する時期ではないと教えにやってくるようだ。

金曜日の決戦。
新宿3丁目にて。
酒でも飲んで、シガーを楽しみ、恋ができないと絡んでみるのも悪くはない。
あなたが優しすぎるとの理由なら、彼は頷いてくれるだろうか。
そうやって、しばらくの間、恋をおあずけにするために、わがままな女を演じてみる。
女優に挑戦だ。





高次脳機能障害という自覚

2009年10月13日 18時45分34秒 | エッセイ、随筆、小説






まゆみちゃん、よっぽどこの曲が好きなんだね、もうこれで3回も歌ったね、と友人は笑顔を浮かべていた。
私は・・・・・といえば、返す言葉がなく、困惑したまま、ひとり身勝手に、その場で途方に暮れた。

同じ楽曲をたかが一時間もしない間に「あっ見つけた。これなら歌えるかもしれない」と同じ台詞を繰り返す。
操作できないリモコンを友人に手渡し、番号だけを読み上げる。
その作業を3回繰り返したらしいが、私には自覚もなければ記憶の欠片すら残存してはいない。

友人の指摘を受けた後、
あぁ、そうなのか私・・・・・・と思うものの、
確かめようもない出来事を自分が過ごしている事実に驚愕しながらも
どれだけの記憶が私の、今の私という輪郭をかたどっているのかと考えたとき、
さすがに気落ちして、頭を抱え、いつの間にか泣いていた。
なぜならば、記憶という機能がどうやら私には作動していないことだけは自覚できているためだ。

私でありながら、私を知る術がない。
でも、私は生きている。
繊細で鋭すぎる感情というものが備わった、一見みれば普通の人間として。

おそらく知能が低下しているわけではない。
が、自分という得体の知れない存在があり、自分でそれを自覚できるだけ、しんどいし苦しい。
もがいたり足掻いたりしながら、やがて疲れ果ててそれが無意味であることを知らされるのだが、
そうした行為ですら記憶には残存しないために、同じことを、もがいたり足掻いたりを繰り返す。
そして、1日が終わる。

黄金色の満月が空に浮かんでいる。
美しいと思い、見蕩れる。
長い長い時間を、黄金色の満月を眺めて費やすのだが、
時間の感覚が私にはないためか、あまりにも夜が静か過ぎるせいか、
私にとっては数十分であるはずの時間が、実は数時間経過していた・・・・・ということも珍しくはなく、
またそれを自覚した後、枕を濡らす羽目になる。

高次脳機能障害の正体が徐々に明らかになると、自覚が容易になると、
知らぬ間に誰かに血液を抜かれているような感覚に似ていると最近になってよく思う。
でも、致死量を抜かれるわけではないので、まず死ぬことは有得ない。
が、一歩間違えたら死ぬかと思うような崖っぷちに立たされている感覚は、いつまでも消えない。
だから、しんどいし苦しい。