江州国友に行った後、北国街道を南下して関ケ原に向かった。
十数年前だと思うがワゴン車にトライアルバイクを積んで関ケ原に来て、バイクを使って戦跡や諸大名の陣跡を回ったことがある。自分はそれ以来の関ケ原だが同行のY氏は初めてなので、今回も出来る範囲で回ってみることにした。
関ケ原で勝者になったのは東軍だが、物語や映画などで興味を惹かれる話は負けた西軍の方が多い。大谷刑部少輔吉継とか、島左近とか、敵中突破の島津軍とか、裏切り者や傍観者の多かった西軍の中だけに余計に光って伝わるのだろう。
大谷刑部の墓はバイクで回った十数年前にも行ったが、綺麗な花が手向けてあり、感動した記憶がある。今回も外せない目的地で少し不便な場所にあるが、国道21号線から旧中山道に入ると大谷刑部の墓にアプローチできる駐車場があった。最近になって整備された感じで、10台くらいの駐車スペースがある。

駐車場の真向かいにある石段を登ると東海道線の踏切があり、渡った先に若宮八幡宮がある。その右手に山道があり、そこを登ると大谷軍の陣跡と、小早川金吾中納言の陣があった松尾山を眺望できる見張り台、そして大谷刑部の墓に至る。




バイクで来た時は松尾山の陣跡まで登り、大谷刑部の墓へも東海自然歩道側から登った。但し歩いている観光客も結構いたので、迷惑にならないように途中からはバイクを置いて歩いた。
年甲斐もなくふざけてみた。

駐車場から墓までは15分くらいかかって着いた。

関ケ原が史跡として認定された昭和初期に建てられた石碑があり、名前が吉継ではなく吉隆になっている。関ケ原の戦いの直前に吉隆に改名したと言う説が当時あったためにそうなったらしい。
敵軍であった東軍の藤堂高虎がこの墓を建てたことは有名だが、400年もの歳月を経た後まで大切に供養されているとは思わなかっただろう。左隣りに眠る家臣の湯浅五助の墓と共に誰の手によるものか、綺麗な花が手向けてあるが、一年中絶えることがないらしい。大谷刑部の人気の度合いがよくわかる。

それにしても墓石には特徴的な石が使われている。
十数年前だと思うがワゴン車にトライアルバイクを積んで関ケ原に来て、バイクを使って戦跡や諸大名の陣跡を回ったことがある。自分はそれ以来の関ケ原だが同行のY氏は初めてなので、今回も出来る範囲で回ってみることにした。
関ケ原で勝者になったのは東軍だが、物語や映画などで興味を惹かれる話は負けた西軍の方が多い。大谷刑部少輔吉継とか、島左近とか、敵中突破の島津軍とか、裏切り者や傍観者の多かった西軍の中だけに余計に光って伝わるのだろう。
大谷刑部の墓はバイクで回った十数年前にも行ったが、綺麗な花が手向けてあり、感動した記憶がある。今回も外せない目的地で少し不便な場所にあるが、国道21号線から旧中山道に入ると大谷刑部の墓にアプローチできる駐車場があった。最近になって整備された感じで、10台くらいの駐車スペースがある。

駐車場の真向かいにある石段を登ると東海道線の踏切があり、渡った先に若宮八幡宮がある。その右手に山道があり、そこを登ると大谷軍の陣跡と、小早川金吾中納言の陣があった松尾山を眺望できる見張り台、そして大谷刑部の墓に至る。




バイクで来た時は松尾山の陣跡まで登り、大谷刑部の墓へも東海自然歩道側から登った。但し歩いている観光客も結構いたので、迷惑にならないように途中からはバイクを置いて歩いた。
年甲斐もなくふざけてみた。

駐車場から墓までは15分くらいかかって着いた。

関ケ原が史跡として認定された昭和初期に建てられた石碑があり、名前が吉継ではなく吉隆になっている。関ケ原の戦いの直前に吉隆に改名したと言う説が当時あったためにそうなったらしい。
敵軍であった東軍の藤堂高虎がこの墓を建てたことは有名だが、400年もの歳月を経た後まで大切に供養されているとは思わなかっただろう。左隣りに眠る家臣の湯浅五助の墓と共に誰の手によるものか、綺麗な花が手向けてあるが、一年中絶えることがないらしい。大谷刑部の人気の度合いがよくわかる。

それにしても墓石には特徴的な石が使われている。
