北原鈴淳 琴古流尺八教室 in八王子

尺八の音色は心を癒してくれます。

演奏すれば「無」の境地になれ、演奏が終われば満足感、充実感が得られます。

大関 琴ノ若誕生

2024-02-05 11:54:18 | スポーツ・健康

大相撲初場所が終わり、13勝2敗の琴ノ若と同じ照ノ富士が優勝決定戦になり、照ノ富士が優勝した。
琴ノ若は3場所で33勝となり、大関に昇進した。祖父は琴桜であり、5月場所で名を継ぐ予定らしい。
先場所までは相撲が遅く、逆転で勝っていたので印象は悪かった。身体は大きく、懐は深い。つっぱって良し、組んで良しとなれば良いが、照ノ富士との対戦ではまだまだ相撲が甘い。横綱には負けたが、初場所はスピードが出て来た。「勝」の安定感も出て来た。さらに稽古を積み、立派な大関になってもらいたい。

以前、旅行でバスから横綱「琴桜」の銅像を鳥取県倉吉市で通りすがりにチラッと見た。昔テレビで見た琴桜は猪突猛進の相撲であった。その孫が琴桜と名乗るのは、感慨ひとしおである。

余談だが横綱大鵬の孫、王鵬も期待されるが押してダメらならすぐに引くくせが治らない。

昔話になるが大相撲関連の思い出を書いてみよう。
大相撲には地方巡業がある。夏休みに飯田市に来たことがあった。私が小学生か中学生だったかは思い出せない。調べても出てこなかった。とにかく場所は飯田市営今宮球場で初っ切りなどを見た思い出がある。前頭筆頭が青ノ里だった。
栃錦や若乃花が横綱の頃から、ラジオにかじりついて聞いた。やがて大鵬、柏戸が活躍。解説者は天竜三郎で、中学の同級生があの独特のハスキー声でマネをしていたのを思い出す。

この写真は2003(平成15)年5月に開店した、和食と地酒の店「方屋」のお知らせである。
縁あって開店時に呼ばれたのである。店主は元栃桜で写真右側にある通り、相撲甚句の名手で中にCDが入っている。左側は開店のお知らせと方屋のいわれが書いてある。土俵は前後左右を東西南北で表し、これを方(ほう)と言い、その中で勝負をする家なれば「方屋」と言う。

栃桜は春日野部屋に所属していた。つまり栃錦が親方で、最高位は東十両4枚目だった。横綱になった北の湖を若い頃、随分可愛がったそうだ。可愛がるとはつまり・・・・。

方屋の開店披露にはその北の湖(当時は理事長)、北桜、金親(のちの宮城野親方)も参加していた。栃桜さんから「尺八」を持参するように言われていたので、ある程度食事が終わったところで、演奏する事になった。
残念ながら相撲の歌謡曲は無かったので、関連して柔道の「柔」を演奏した。
そうこうしているうちに、北の湖は帰られた。その直後に綾小路きみまろが現れたのである。若い頃からの付き合いらしい。

私は綾小路きみまろはもう売れて有名になっていたので、ツーショットをお願いした。その後同期会でその写真を見せたが知っている人は少なかった。だがそれから段々売れていったので、その後はかなりテレビで見るようになった。

宴会時に隣にいた元力士は忍山(しのぶやま)で、すっかり意気投合した。調子の良い人で時々私の店に顔を出した。
調べてみると序二段で止めたらしい。

「方屋」ではかなりの友人、知人を連れて行った。ちゃんこ鍋と地酒「田酒」が美味かった。
ランチもちゃんこ鍋定食やサバ定食もあり、良く利用した。カウンターで食事中、当時NHKの葛西アナウンサーが隣り合わせになったことがある。
葛西アナウンサーには私がNHKFM「邦楽のひととき」で「明治松竹梅」に出演の時の解説で私の名前もアナウンスしてくれたのである。そこで意を決して、そんな話をしたのであるが、多くの番組に出演の葛西さんが覚えているはずがない。
又、「沢井忠夫さんが亡くなりなしたね」と話をした。

その後方屋は栃桜さんが病気になり、閉店してしまった。又、何年か前に亡くなった。私より1歳上だった。なかなか厳しい人で、相手の話はまともに聞いてくれなかった。

写真は2014(平成26)年1月場所のカタログである。ちょうど10年前だ。
私が唯一両国国技館に大相撲を見に行った証拠品だ。これは知り合いから升席の切符が入ったと誘われたからである。

知らせを受けた時間が遅く、国技館に駆け付けたのは中入りが始まっていた。星取表を見ると9日目になっている。
お茶屋さんに誘導されて、義母、妻、知り合いと4人はお土産を持ち升席に座った。館内は初めての雰囲気で圧倒された。
嬉しい事にビールは飲み放題で、焼き鳥に弁当が付いた。遠藤など人気力士に声がかかる。
中入りから打ち止めまで約2時間だから、飲む方、食べる方で忙しかった。ビールは飲み放題と聞いてスケベ根性が沸き、何本もお代わりをした。
星取表を見ると横綱は日馬富士(休場)に白鵬。大関は稀勢の里に鶴竜、琴奨菊だった。白鵬がただ一人全勝で来ていた。
今現在も活躍している力士は妙義龍、玉鷲、宝富士、高安、遠藤、などだ。
遠藤は今も同じくらいの番付だが、当時の勢いからすればもう大関になっていても良かったのに。残念。
ちなみにこの時、西十両筆頭は今の横綱、照ノ富士である。

いつもテレビで見ていると力士は大きいが、升席は1階席のちょうど真ん中辺りだったので、ちょっと遠かった。
ビール好きの義母はどうも飲み過ぎたらしく、立ち上がるのがやっとだった。
私も観戦より、食べる方が夢中で、相撲内容のことをほとんど覚えていない。


北京冬季オリンピック

2022-02-16 14:58:00 | スポーツ・健康
2月4日北京冬季オリンピックが始まった。
種目はスキー、スケートを始め、最近ではスノボ、カーリング、ボブスレーなどかなり増えてきた。

スケートが得意だとは以前書いたが、スピードスケート男子500メ―トルの速さは1位が34秒台だ。
私が全盛期の頃の400メートルが約60秒だったので、約2倍のスピードだ。

陸上の男子100メートルが9秒台だとして、私の全盛期の高校3年生時は50メートル6.9秒だった。単純に2倍してもボルトは私の2倍以上ではない。従っていかにスケート選手が速いかが分かる。

スキーについて書こう。

スキーは高校2年生の冬に担任から「長野県出身者だから将来恥ずかしくないように、スキーとスケート教室を行う」と言われた。(我々の高校は修学旅行は無かったので、その代わりでもある。)

私はスキーを選び、親父の木製の重いスキー板を借り、霧ヶ峰スキー場に行った。
なだらかで滑りやすかった。ボーゲンを習い、斜滑降、直滑降でも滑ってみた。

その後、大学生になった時に当時、飯田市大平に小さなスキー場があり滑った事もあった。

就職して会社でバス一台チャーターしてスキーに行く事になり、私が総務だったので幹事を引き受けた。当時は木曜日が定休日だったので、水曜日の仕事が終わってからバスに乗り1泊した。

行先は先輩が知っていた栃木県の現日光市の「鶏頂山スキー場」だった。(2000年に閉鎖)
道案内はもちろん先輩だった。私は先輩のスキー板を借り、初心者コースを滑った。

同僚は奥さんも連れて中級コースを滑っていたので、誘われて滑ったがコブが多く、転んでばかりいた。そのうちに前の人に突っ込んでスキー板の先を壊してしまった。

リフトに乗った時だった。山の途中でリフトが止まってしばらく動かなくなってしまった。何分待っただろうか。不安になってきたところ、アナウンスがあって「これから救助します」と言われた。

私はちょうど柱と柱の間で、しかも山の中腹だったから、救出はほとんど最後に近かった。遠くに別のスキー場が見えた。

救出時にロープに引っ掛けた長い竹ざおは、それも汚れた竹ざおで伝わって降りたが、泥まみれになってしまった。

私はスキーウエアと言うより、親父がスケート場で着ていた黒く薄っぺらい「アノラック」だったので、先輩から「炭焼き小屋の親父見たいなカッコしやがって」と言われて悔しかった。
その後は「ハイカラ」なスキーウエアを購入した。

帰りのバスは疲れもあり、眠かったが目の前に雪が迫る現象が思い出され、それどころではなかった。

その後は1回もスキーはしてない。と言っても結婚して家内と冬休みにスキーに行く予定だったが、ある事情でキャンセルしたのだった。
しかしスキーウエアはスケートでよく着たので無駄ではなかった。


寒中休みでスケート

2021-01-26 12:49:00 | スポーツ・健康
私が小学生や中学生の頃には、今頃寒中休みが1週間ほどあった。
信州の冬は寒い。夏休みが少なく、その代わりに寒中休みがあった。今では無いようだ。

夏休みはお盆が過ぎるともうすぐに2学期が始まるという感覚で、9月1日のNHKニュースで「今日から新学期」を見ると違和感を覚えた。

寒中休みで思い出すのはスケートである。我が家の狭い庭でも、雪が降った時に長靴で雪を踏みしめ固めて水をまき、朝には氷にして滑った。たかが2~3メートルだが、練習にはなったようだ。

小学校の中庭も同じようにスケート場を、先生たちが作ってくれた。
当時は下駄スケートで、足袋に紐をきつく結びつけるのだが、痛いしこの上なく足が冷たい。

中学の頃には皮靴のスピードスケートを買ってくれて、やっとスピードが出るようになり、市内の堤、松川プール、沢城湖、七久保にあった仙人塚、そして電車に乗り、諏訪の諏訪湖、白樺湖、蓼ノ海まで父親に連れられて兄弟も一緒に滑った。

市内の堤には歩いて行けたが、沢城湖はバス、七久保は駅までは電車でそこからは歩いて行った。一度は妹もつれて七久保の親戚に泊まり、いとこも一緒に滑ったが、やはり地元のいとこの方が早くうまかった。

諏訪湖に行くには電車で2時間はかかる。早朝父親と共に諏訪湖に向かったが、広いとは言えスケート場は極一部だ。
しかし、ロケーションは良い。

白樺湖や蓼ノ海へ行くにはさらに40分位かけてバスで登るから大変だ。
蓼ノ海は国体でも使用されたがとにかく氷が良い。分厚い氷でいわゆる油氷と言って、ツルツルでよく滑る。体重のあるプロならいいが素人だと刃が立たないくらいだ。

結局、蓼ノ海には諏訪で一泊して行った。その時は祖父も一緒に行ったのだが、祖父は着物姿で管理小屋から寒そうに見ているだけだった。

長じて大学に入ってからは長野県人の凄さを都会の人に見せつけた。
大学の三曲研究部で読売ランドに行った時に、400メートルを約1分で滑った。この時が私の人生で一番早かっただろう。(ちなみに現在日本男子の500メートル記録は33秒台だ)

会社に入って部内の旅行で「小田急ファミリーランド」に行った時は「賭け」までやると言われたが私が降りてスピードを競ったが、結局私が一番だった。

都心では子供達も連れて渋谷のオリンピックプール、後楽園、読売ランド、向ケ丘遊園、新横浜、二子玉川園、相模原市の「銀河アリーナ」、子供の国などに行き、滑り方を教えても来た。

ただ、都心のスケート場は狭いのでロングのスピード靴は無く、ホッケー用だった。それが私には不満であった。

滑っていると初心者が長いコートをひらひらさせて滑っていると、スピードに乗った私は前が見通せなく、いつもヒヤッとした。
周りのスピードを見ながら滑って行くので、人込みをうまくすり抜けて行くのがうまくなった。

子供の国は何回も行ったが、結構小学生がクラスごとに来ることも度々あり、カッコつけて手を後ろに組んで滑っていると「カッコいい」と聞こえてきた。十分満足した。

子供が小学生の頃だった。二子玉川園にもスケート場があるのを見つけて家族4人で行った時の事、私は例によってスピードを上げてカッコよく滑っているつもりだった。

そして止まる時は制動をかけ斜めに止まるのが普通だったが、そのまま壁に激突した。
その時両手と胸で受けたので、胸と両手にかなりの衝撃を受けた。

結局、胸と両手を打撲して、医者に通う事になった。胸苦しいし手首が痛い。

時々手に重いものを持ったりするときは、その後遺症が出るのかもしれない。手のひらの付け根に痛みが出る。

バカな事をしたもんだ。後悔先に立たず。





星野仙一氏死去

2018-01-13 18:07:00 | スポーツ・健康
喪中だったが、とにかく新年は開けた。

1月6日いつものように朝7時にNHKラジオをつけると、開口一番に「1月4日に星野仙一氏が70歳で亡くなりました」と告げられ、瞬間的に心にグサッと来て、涙があふれあわてて起きた。

70歳は今現在、私と1歳違いではあるが、大学での学年は2年先輩である。
星野仙一氏がM大学野球部に属していた頃は残念ながら、六大学での優勝の経験は無い。

同時期にライバルだった法政大学の山本浩二・田淵幸一らや、早稲田大学にも荒川など凄いのがいたからである。
野球は一人では勝てない。(彼は在学中にノーヒットノーランを達成している)

しかし、彼には不運と言うか、彼が卒業して中日のプロに入ったその春の六大学(昭和44年)にM大学が優勝したのである。なんと皮肉なことであろうか?

我々はその時、学園祭の「和泉祭」で尺八を校外の舞台で演奏する予定だった。
同僚のK君と私がアレンジした、尺八二重奏「子象の行進」を必死で練習していた時に、「優勝したぞ」の一報が入り、「和泉祭」をほったらかしにして、提灯行列に向かった。

ところが、もう終わっていたと思う。(今みたいに携帯やスマホがあったら、情報は早いのに)
結局「京王百貨店」の屋上に向かい、もう「ビアガーデン」は、オープンしていたのでそこへ乗り込んだ。

気勢を上げ、バンド演奏を乗っ取り、「校歌」を歌い出した。
バンドマンも仕方なく、適当に合わせてくれた。

星野仙一氏は岡山県倉敷市出身である。
母子家庭で育てられ、苦労した事だろう。その上奥様に先を越され、可哀そうであった。
「闘将」と呼ばれるが、反骨精神で良く頑張った。

NHKで「ファミリーヒストリー」を見たが、涙ものだった。

その岡山県倉敷出身者が、我が門下生にいるのである。若いE君だ。
長野県と岡山県は不思議な縁?で、年末に高校生同士の戦いがあったのだ。

まず、12月24日の全国高校駅伝競走大会で長野県代表と、岡山県代表が優勝争いをしたのである。

優勝したのは「佐久長聖高校」で、9年振り2回目である。
その模様をテレビで見ていたのだが、途中岡山県代表「倉敷」に追い抜かれて一時二位になった。その後挽回して最後は、トップだった。

12月28日には、全国高校ラグビー大会の一回戦が大阪花園であり、何と我が母校の飯田高校が長野県代表で出場したのである。
しかも相手は、岡山県代表の「倉敷工業」で飯田高校が26対5で勝った。

飯田高校は県立の進学高校ではあるが、毎年のように県大会は岡谷工業と決勝戦を戦っている。
たいしたものである。

しかし、2回戦は神奈川代表の桐蔭学園で120対0で負けた。圧倒的な差であった。
長野県代表になった時に同窓会から、寄付のお知らせが来て、わずかばかりの寄付をした。

「倉敷工業」に勝った時にE君に早速メールをしたところ、誠に残念がっていた。

私は岡山県には最近良く行っている、と言うか通過拠点として行っていると言うべきか。

一昨年11月には、四国旅行の帰りは岡山駅で新幹線に乗ったし、昨年11月の出雲旅行は行きも帰りも新幹線の岡山駅だったので、駅構内を知り尽くしているとはオーバーだろうか?

いやいや駅構内のコンビニや、駅ビルの販売店やレストラン名など良く知っていて、「門下生より知っているよ」なんてな話をしている。

倉敷は以前一人で旅行して、倉敷川一帯と大原美術館などを見たことがある。

「星野仙一記念館」があるようだ。いつか行ってみたい。


豪栄道の優勝

2016-10-03 17:20:00 | スポーツ・健康
大相撲9月場所で大関の豪栄道が優勝した。

1986年4月生まれの30歳である。本名が澤井豪太郎で大阪府出身。
埼玉栄高校卒業後、大相撲入りした。「豪栄道」の豪は名前から、栄は高校名から、道は相撲道である。

私が澤井を初めて知ったのは、彼が高校生の時だった。
澤井が出場した全日本相撲選手権大会を、たまたまテレビで見ていたのだ。

トーナメントで勝ち進み、高校生なのに強いのがいるなと思い、その時「澤井」の名をしっかりと頭にきざんだ。
高校生としては史上4人目となる3位入賞を果たし、2005年1月初土俵。

あの時は大きいと思ったが、プロの世界では小さい。
順調に大関までになった時、「ああ、あの時の澤井がついに大関になったのか」と感慨無量であった。

だが、大関になってなかなか結果が出なくて、歯がゆかった。押しても両足が揃い簡単に振られて負ける。押してダメならすぐ引く悪い癖で、押し替えされる。
白鵬が良く使う、張り手もたまに使う。私は余り「張り手」は好きでない。

それが、どうしたことか9月場所で全勝優勝を成し遂げた。もちろん白鵬がいなかったから、評価は完璧ではない。しかし、懸念した「引き」「張り手」がなく、窮余の「首投げ」はあったものの、総じて満足できる勝負であった。

これが持続出来るか、来場所が見ものである。

ついでに「御嶽海」。ついに上がって来た。私が十両の時に予想した通り順調だ。
私が言った通り、取り口に組んで良しとなってきたからだ。技を身につけたな。

稀勢の里は腰高を修正出来なけば、横綱には成れない。