北原鈴淳 琴古流尺八教室 in八王子

尺八の音色は心を癒してくれます。

演奏すれば「無」の境地になれ、演奏が終われば満足感、充実感が得られます。

能登半島旅行 輪島の思い出

2024-02-08 17:24:50 | 旅行

2024年元日に起きた、能登半島の地震で被災地は大変である。もう1か月以上経つ。
私も自宅でただならぬ地震を感じ、東日本大震災を思い出した。長く揺れたのでこれ以上揺れないでくれと祈っていた。

輪島と言うと必ず輪島塗のおちょこを思い出す。個人旅行で思い切って買ったものだ。
毎年メモ帳を購入して、旅行などこまめにしるしていたはずだ。最近の記憶は段々曖昧になってきて、いつだったか思い出せない。
きちんと整理をして保存しているのを引っ張り出してみた。多分20年程前かと2000年前後から調べたら、もっと前の1987(昭和62)年5月に見つけた。もう37年前である。
こまめに旅行記を書いた旅行もあるのだが、この輪島行きは簡単なメモだった。だから記憶が曖昧なところがある。

 

この時の旅行は金沢、輪島、津幡、富山、飛騨高山のルートである。
メモ帳によると5月26日、当時の自宅の大和市つきみ野から新横浜に行き、新幹線に乗った。米原で乗り換えて金沢には12時23分に着いた。
兼六園、金沢城石川門、中央公園、武家屋敷、香林坊の109、大和百貨店を見学。これらはバス一日乗車券で対応した。

香林坊109には、実は知り合いのMさんが店長をしており、いきなり訪ねてみた。
快く迎えてくれて店長室に伺った。「景気はどうですか?」の質問には「厳しいですね」と答えられた。調べたところ2016年には東急スクエアと名称変更したそうだ。

この時の香林坊の印象が凄く、北島三郎の「加賀の女(ひと)」の歌詞に出て来る、「〽君と出逢った 香林坊の酒場に赤い-ーー」(星野哲郎作詞)を気に入ってカラオケで何回か歌った。点数を出してみたら結構良かった。

能登半島と言えば石川さゆりのズバリ「能登半島」の歌だ。先日ちょうどNHK「うたコン」で彼女が歌った「〽夜明け間近 北の海は波も荒くーーー春から秋への能登半島」(阿久悠作詞)は、さゆりの歌が上手く、曲も良いのでヒットした。最初から高音のサビで始まる。

翌27日は金沢を9時56分に出てから輪島には12時35分に着いた。
漆器会館、輪島屋本店を見学。輪島塗の工程が凄いと感心した。漆器工芸店を3軒見て、どこかで上の写真右側の輪島塗おちょこを4000円で買った。1個ですよ。高かったが何しろ中側の竹(笹)に惚れて、「私を買ってくれ」と叫んでいるように思った。笹には金が点々とちりばめてある。心ときめき買ったのだ。以後気に入って大事にして晩酌を楽しみにしている。

5月28日は8時に朝食後、ホテルからマイクロバスで輪島朝市に9時15分着。
道端にはおばあさんが多く、それなりに活況だった。サザエのつぼ焼きを300円で購入してすぐ食べる。
お土産にフグ一夜干しを1000円で、ムシアワビを3000円で購入。この時のフグ一夜干しがとても旨く、最近の京王百貨店の物産展で探すのだが、同じ物はなかなか見つからない。

その輪島朝市の場所が地震と火事で全滅と知り、唖然とした。

10時27分、輪島を出て、津幡、富山、高山に入った。この時のメモによると津幡駅での乗り換えに10分。富山駅で高山本線に乗り換え時間はたったの4分だった。この乗り換えは一生忘れない。何しろ初めての地で、乗り換えの電車が急には見つけられなかったのだ。降りたホームの先(西3番線)の方にあり、やっと見つけて走りに走ってやっと間に合った。

飛騨高山には15時43分に着いた。あらかじめ打ち合わせをしていた鈴慕会所属のY氏と18時に合流して、箏の先生が待つ集会場に行き合奏練習をした。曲目は「萩の露」「残月」「千鳥の曲」だった。
一緒にY氏と飲めるかなと思ったが都合により、そこで解散した。私1人で居酒屋で一杯やった。

翌日は高山見学で、やはり朝市を見る。輪島の朝市よりこじんまりしていた。サイクリングで飛騨民芸館、高山陣屋などを見学した。

高山を13時26分に出たが、高山本線はまるで飯田線のように曲がりくねって、飛騨川に沿って下って行った。岐阜で乗り換え、名古屋には16時24分着。

そこからは新幹線で新横浜に向った。

時は過ぎ、2016(平成28)年4月、金沢方面のツアー旅行をした。今度は2人である。

ルートは八王子から特急あずさで松本行き。
松本からは観光バス(アルピコ)で高山へ。白川郷を見学。山中温泉のたわらやに泊。翌日は越前大野、七間朝市、白山平泉寺、永平寺を見学。永平寺は平面でなく、階段状になった造りだったのは驚きだった。なんとなく修行僧の感じにもなって来た。ここでは「屋根瓦の修理に寄付をお願い」とあったので、1口寄付をした。お礼としてお経の「修證義」と数珠をくれた。「修證義」の中には「開経偈」や「魔訶般若波羅蜜多心経」などが入っていて、時々YouTubuで聞きながら唱えている。偶然、我が実家は「開経偈」をお爺さんが毎朝、唱えていたので覚えてしまった。

数珠をもらったのがうれしく、実家の法事で使用した。ところがどこかで無くしてしまい見つからない。

門前町から一乗谷朝倉氏の遺跡を見て再び山中温泉のたわらや。この温泉は熱かった。

翌日は自殺の名所東尋坊。松本清張の「ゼロの焦点」を思い出す。この日はあいにくの土砂降り。金沢に入って近江町市場の見学で昼食。旅行会社勤務の友人に聞いていた「市場寿司」に入る。「のどぐろセット」でこれは旨かった。さらに「東出コーヒー」も紹介された店で、雰囲気の良い喫茶店だった。

そして「ひがし茶屋街」の見学。当時は各旅行先でおちょこを買っていた。金沢と言ったら金箔だ。そこで見つけたのが、写真左側のおちょこだ。中は金箔の九谷焼。まぶしいくらいだ。

長町武家屋敷跡から兼六園を見学。有名な琴柱(ことじ)の灯篭まで行ったが、この日は最悪の土砂降りと寒さで見学どころではなかった。足早にバスに戻ったのは残念だった。その後はバスで富山駅まで行き、富山駅からは北陸新幹線で東京まで戻った。

まもなく北陸新幹線は福井県敦賀まで延伸、開業する。


名古屋城と熱田神宮

2023-03-07 13:46:21 | 旅行

3月3日、所用で名古屋に行った。
新横浜から新幹線「のぞみ」に乗ったが、車両に入った途端ちょんまげを結った力士が着物姿で、後ろ向きに大勢座っているのが分かった。皆、大阪場所に向かう途中だったのだ。
車内は「鬢付け油」の良いにおいがした。3人掛けの通路側縦一列で座っていた。ちょんまげの形から十両か幕下だろう。ちらっと見てもマスクをしているから、力士名は分からない。隣の席はほとんど空いていたのでゆったりだ。
曇っていたので残念ながら富士山は裾野だけで頂上は見えなかった。従っていつもある車内放送も無かった。
新横浜で「シュウマイ弁当」は売れ切れだったので、私は幕の内弁当、連れ合いは深川弁当にして名古屋に着く前に食べてしまった。

名古屋には12時前に着き、先ず観光案内所でロッカーや名古屋城行き、夜の食事処を聞き、名古屋市内の地図ももらった。
名古屋城まではバスに乗った。名古屋は大きなビルが立ち並び、道路も広いので東京と変わらないと思った。市役所前で降りる。

 

名古屋城の天守閣は閉館中だった。それでもやはり城内は広く、石垣は大きな石が一杯だ。良く上手く積み上げたものだ。天守閣の左側に見えるのが本丸御殿で、ここには入られた。
本丸御殿は慶長20年、家康の命によって建てられた。空襲にあって焼失したが復元して平成30年に完成公開した。

狩野派の豪華絢爛の襖絵に圧倒される。入り口で注意があったらしいが気が付かずシャッターを押したら、係員から「ストロボは禁止です」と言われ、あわてて解除したが、結構光って写っている。

梅枝も見事である。各部屋は12畳以上もあるような大きな部屋がいくつもあり、その大きさに圧倒される。当時はどのような生活をしていたのだろうか。

名古屋には小学6年生の時に修学旅行で来た。その時は名城公園から名古屋城天守閣を見上げただけだった。松坂屋では生まれて初めてエスカレーターに乗って面白かった。お土産に金の鯱と名古屋城を買い、今でも部屋に飾ってある。

名古屋での半日コースを調べたところ、名古屋城と熱田神宮が表示されたので、次は熱田神宮に向かった。東京と同じ「スイカ」が使用出来たので良かった。

市役所前駅から地下鉄で神宮西駅まで行く。乗って20分ほどだ。

神宮西駅を出て、何となく目の前の歩道を歩いて行くと、大きな鳥居があった。
毎年ある全日本大学駅伝対校選手権は、熱田神宮西門前から伊勢神宮内宮宇治橋まで8区間、106.8キロを走る。昨年11月6日は駒沢大学が優勝した。3連覇である。

熱田神宮は三種の神器の草薙神剣をご神体としてお祀りし、由緒ある神宮として年間700万人が訪れるらしい。境内は大楠や肌がきれいになるという「清水」もあった。
時間はたっぷりあったので、休憩所でコーヒーを飲んだ。

帰りは、名鉄名古屋本線の神宮前駅から名古屋駅まで12分だった。

ロッカーは最初に「スイカ」で精算する方法は初めてで苦労したが、取り出し時もやっとこさっとこ取り出せた。

夕食予定の「うまいもん通り」や高島屋レストランなどを見学して、泊まる予定の「アパホテル」に向かった。途中「エスカ」にも飲食店が相当数あった。
東京でも有名な「コメダ珈琲」のはす向かいに「ダフネ珈琲」があり、レンガ作りの外観がそっくりでびっくりした。調べると別会社で創業も同じ年。メニューも似ているらしい。

5時にチェックインして、身軽にして6時に知人と待ち合わせの蕎麦・酒処「みやび」に行って、日本酒と「天ざる蕎麦」を注文した。

宿泊したアパホテルは開業して未だ3年以内だったので、最新式。2階の大浴場も気持ちよかった。朝食はバイキング式で台湾大皿から好きなものを選ぶ。私はサラダ、シュウマイ、小籠包、焼きそば、小さい鯖焼き、玉子スクランブル、ソーセージ、漬物、ヨーグルト、ご飯、味噌汁だった。食後にコーヒーを飲んだら又、クロワッサンも欲しくなり、半分に切られたのをいただいた。


夏休みの思い出

2022-07-11 16:40:54 | 旅行

夏が来れば思い出す。はるかな尾瀬遠い空。なんてな曲があるが、夏休みについてについて書こうと思う。

6月27日、関東地方は梅雨明けだった。平年は7月中旬だからかなり早い。梅雨明けと聞くと夏休みを思い出す。
20代の会社員だった頃、上司はいつも7月下旬に夏休みを取ったので、私は8月の上旬だった。
これは私には都合が良かった。飯田の実家は父母が元気で存命の頃、別荘代わりでそこを拠点として旅行が出来た。

毎年のように飯田に帰省したが、私の誕生日があるし、ちょうど「飯田りんごん踊り」や「いいだ人形フェスタ」があるからだ。
「いいだ人形フェスタ」は以前「人形劇カーニバル飯田」と言っていた。
飯田には「今田人形座」「黒田人形座」など、歴史のある人形劇が盛んだ。
子供が小さい頃に連れて行って、何か所も人形劇を見たが結構面白かった。

いつかは飯田高校のブラバンの定期演奏会を聞けた時もあった。我々の時は25人が精いっぱいだったが、50人くらいの大編成ですごく上手かった。

夏休みの旅行は考えてみると飯田を拠点によく行ったものだ。いくつか思い出してみよう。

飯田の実家から兄の車で阿智村の「青木屋」でヤマメ釣りに行ってもらった。
魚釣りは面白い。子供も連れて皆で釣り、それを焼いて食べた。

天竜下りは時又から唐笠まで下り、富士見は「エバーグリーン」、原村ペンションは「はーぷしこーど」の名前につられて予約した。八ヶ岳山麓ではパターゴルフ。
自信があったのだが、思うようにはいかなかった。

清里の清泉寮ではソフトクリームがおいしかった。早朝のバードウォッチングを申し込み散策にも行った。

行った時期は前後するが、白馬東急山荘に泊まった時は長女が未だおむつであった。栂池(つがいけ)高原からロープウェイに乗り、栂池自然園(1900m)も見学した。

子供達が小学生になって立山室堂の、みくりが池温泉(日本一高所2410mの天然温泉)に泊まり、黒四ダムからロープウェイやトロッコ列車に乗り富山にも行った。
黒四ダムは壮観だったな。
しかし富山からの帰りは未だ北陸新幹線が無く、特急は自由席だったので混雑して座れなかったのが残念だった。

松本城から上高地の思い出。梓川の水の冷たさにはびっくり。上高地は相当混んでいて、途中からタクシーで行ったのだが、タクシーの運転手に「帰りは予約した方が良い」と言われ、これが大正解であった。長蛇の列を横目に、名前を呼び出されてすぐにタクシーに乗れた。帰りを急いだのは松本駅発特急に乗る予約をしていたからだった。滑り込みセーフ。

諏訪湖や諏訪大社見学、泊まった温泉の浜ノ湯の若女将がすごく良かった。

駒ケ根千畳敷カールは何回か行ったが、混雑で相当待ってロープウェイに乗ったものだ。

そのうち一回は宝剣岳(2931m)に登ったのは自慢できる。私が登った最高峰である。子供も全員登ったが、尾根では寒くカメラが作動しなかった。
途中危ない箇所もあり、その後遭難者も出たと新聞で見た。

木曽妻籠宿、馬籠宿には父の車や、兄の車で何回か行ったし、娘の運転でも開田高原で木曽馬を見て、ソフトクリームがおいしかった。

遠山郷では「島畑」に泊まったが、ジビエの鹿肉やサルの肉までテレビでよく見るご主人に提供された。日本のチロルこと「下栗の里」は絶景。そこからの「しらびそ高原」は南アルプスを望む。白樺の木が何とも高原らしくうれしい。

市田の御大(おんたい)の館は明治大学野球部名物島岡監督を記念したスーパー銭湯である。プロになった星野仙一や広沢克実らの写真が貼ってある。
松川町の信州まつかわ温泉「清流苑」は町営である。法事の時に寄ったのであるが、まさか高校同級生S君と温泉で会うとは思わなかった。

NHKでたまたま幻の中津川線を見た。これは飯田から岐阜の中津川まで国鉄を通す予定で工事が始まった。だが、これからは高速道路だという見通しで、工事はストップ。その工事で温泉が噴き出たのが昼神温泉である。昼神温泉のホテル「伊那華」は中日ドラゴンズが落合監督の頃は納会などで使用していた。ちなみに信子夫人は飯田の高校出身である。

これらの旅行はもちろん何年にもわたっての事である。

南アルプスを望む飯田は改めて風光明媚な土地柄だと痛感した。山梨県が南アルプス市を名乗った時は残念だった。飯田市こそ南アルプス市だと思っている。


路線バスの旅

2021-04-24 17:09:00 | 旅行
コロナ禍で、人混みを避けるため電車で遠出が出来ない。
毎日、草取りも疲れる。やはり気晴らしに出かけたい。仕方がないから近場で過ごす。

幸い「シルバーパス」を手にして、西八王子駅や八王子駅に無料で行ける。
西八王子には携帯電話会社、八王子にはヨドバシカメラに買い物に行く。

路線バスである。旅ではないが、めじろ台から私が望んだ路線が充実してきた。

新宿まで電車で通って勤務していた頃は、ほとんどバスには乗らなかった。しかし今はバスが頼りで便利である。

テレビでは盛んに路線バスの旅が放送されている。

テレビ東京の「ローカル線バス乗り継ぎの旅」は太川陽介と蛭子能収とマドンナで面白かった。

蛭子さんが番組を引退してからは「ローカル路線バスVS鉄道乗り継ぎ対決旅」は太川陽介がバスチームリーダーで、鉄道の村井美樹が鉄道チームリーダーだった。

村井は某新聞に鉄道に関するコラムを掲載するほどの博識で、その対決は感動さえした。私はひそかに村井を応援していた。
勝った負けたで涙もあり、ハラハラドキドキしながら見ていた。

日曜日の午後4時15分に放送される、テレビ朝日の「路線バスで寄り道&お買い物の旅」は徳光和夫と田中律子にゲストである。
最近は人混みを避けるためか、路線バスを使わず、貸し切りバスのようだ。

まあ見ていると徳さんはいい年をして、昼間からよく食べ、よく飲むものだ。それにバスの中ではほとんど寝ている。

路線バスではなかったが、以前NHKで「キッチンが走る!」の番組があった。(2010年~2017年)

杉浦太陽君とシェフが一緒にキッチンカーに乗り、全国を回って、地元の食材でその場で料理する番組だった。

ある時は和食、ある時はフレンチ、イタリアンなどのシェフと美味そうな料理を作り、農家の方とも一緒に食べていた。あの番組で太陽君は随分料理が上手くなった事だろう。

私の田舎にもキッチンカーが出向いた時があった。
その時、大横町の麹屋さんの「嶋田屋」が出て「麹商品」を買って行った。

「嶋田屋」さんは本名「井伊」さんで、その頃NHK大河ドラマは柴咲コウ主演の「おんな城主 直虎」を放映していた。

店内には、井伊直虎の末裔の家系図があり、井伊さんは末裔だったのだ。

話は続く。これが言いたい。
実は、嶋田屋さんに入る前に、大横町の街並みが映り、我が実家は嶋田屋さんの目の前だったから、全国に我が家が映ったのである。ほんの瞬間ではある。

テレビの影響・反響は大きく、かなりのお客さんが嶋田屋さんに「麹商品」を買いに来たそうだ。

私が小さい頃、麹屋さんに入って麹を作っているところを見たことがある。蒸気が立ち込め、米にカビが生えていると思った。

さて路線バスの話に戻る。
日曜、夜のテレビ朝日では「帰れマンデー見っけ隊」がある。
タカアンドトシ、サンドウィッチマンらがレギュラーで、ゲストも交えて路線バスに乗り、すごろくでバス停を決めて、飲食店や寿司店を見つけて食べて目的地に行く番組である。

その他にも女子会でバス旅もあるが、とにかく飲んでばかりだ。

本題に入る。
めじろ台から西八王子駅までバスで約15分。
八王子駅南口までのルートは何本もあるが約30分である。



八王子駅南口にはサザンスカイタワーがあり、その4階に以前はオリンパスホールだったが、4月からJ:COMホール八王子に変わった。

立派なホールで、何回か高校生の吹奏楽や木久扇の落語を聞きに行ったことがある。

4月から、山田駅経由八王子駅南口行きの新たな路線バスが出来た。
先日帰りにこのバスにちょうど間に合ったので乗ったら、何と15分で着いた。

これは渋滞が無く、めじろ台駅の一つ前のバス停「めじろ台南」が最寄りとなったので、かなり時間が縮小されたのである。

乗ったバスは、めじろ台南の前のバス停でほとんどの人が降りてしまい、あとは私一人だけ。

シルバーパスの無賃乗車で、その後は空のバスで申し訳なく思った。


「じゅん散歩」で別府温泉

2021-02-02 16:55:00 | 旅行
1月下旬、テレビ朝日で「じゅん散歩」を見たが、大分別府温泉だった。

以前個人旅行で行ったのだが、詳細を思い出せず大変懐かしくなり、メモ帳を探してみたところ詳しくは書いてない。詳細は多分リポート用紙に旅行記を書いたと思うが見つからない。

メモ帳によると時は元禄いや違う、1991(平成3)年の5月であった。
忘れられないのは会社卒業旅行の九州一人旅であった。少しづつ思い出して書こうと思う。

会社は自己都合により5月10日に退職した。その日は送別会を開いてくれて関係者と2次回まで飲んでいた。

当時は大和市つきみ野に住んでおり、翌日朝早く起き東京駅までは遠かったのでつらかっただろう。朝8時4分発の新幹線ひかりで先ず小倉に向かった。そこから急行で別府に15時20分に着いた。

行きの新幹線や、急行列車、宿泊ホテル、帰りの飛行機はあらかじめ、旅行会社に申し込んでいた。
別府についてすぐに定期観光バスで温泉めぐりを申し込んだ。15時30分発。

著名な七つの地獄温泉をめぐるバスだったが、私を含めて4人だけだった。その内一人は京都大学の教授で名刺をいただいた。

コースは、海地獄、鬼石坊主地獄、かまど地獄、鬼山地獄、白池地獄、血の池地獄、龍巻地獄の7地獄を見た。
海地獄のコバルトブルー、血の池地獄の赤、龍巻地獄の間欠泉は凄かった。

ここに来たかったのはOさんに会うためだったが、小さい頃、祖父の龍巻地獄のところの写真を見てどんな所かを見たかったからでもある。祖父は着物姿で山高帽をかぶっていた。

間欠泉は100°Cを越え、30メートルも噴き上げるそうだが、天井がありそこまでだ。
諏訪湖の間欠泉を思い出すが、諏訪湖は天井が無い分もっと高く上がる。

もう夕闇迫り、薄暗くなってきた。

18時バスから降り日伯ホテルで、会う約束をしたOさんに電話をした。その頃は未だ携帯電話は持っていなかった。(1996年頃やっとPHSを買った記録があった)
OさんはTインダストリー光町の店長であった。

OさんはNCR米国流通業視察の際、自由時間をご一緒して同じグループで回っていた仲間である。

特にニューヨークでの「自由の女神サンセットクルーズコース」は私の会社の2人と彼だけだった。その時の沈みゆく夕日、下から見る大きな自由の女神、生バンドによる演奏が忘れられない。ウエストサイド物語の「アメリカ」が耳に残っている。

多分酒も料理も飲み放題、食べ放題だったろう。ローストビーフを何度も取りに席を立った。

別府ではOさんにホテルに迎えに来ていただいて、一度ご自宅に伺ってから、ものすごい付き合いが始まった。

先ず「栄鮨」で酒と寿司、彼行きつけのスナック、それである程度は出来上がっていたのだが、彼の友人が経営していると言うホテルで大きな温泉に入る。(顔パスみたいだった)気持ちが良かった事を覚えている。

温まって出てさらに「お好み焼き」に行ったのだ。ただ温泉は覚えているが、食事は全然覚えていない。

よく付き合ったと感心するが、メモを見て驚いた。午前3時にホテルに着いたのだった。
今ならコロナ騒ぎでとんでもない事だ。

翌日は9時30分のバスで熊本に向かうのだ。

モーニングコールをお願いして翌日は6時30分に起きた。多分眠かった事だろう。

ここで別府とお別れするが、多少旅行について書こうと思う。

別府から「やまなみハイウェイ」のバスに乗り、阿蘇山に向かう。雨で窓の外が余り見えない。

バス内でいただいたパンフレットに掲載されていた三好達治の詩は未だ覚えている。
調べると「大阿蘇」で調子が良い。

 「雨の中に 馬がたつてゐる 一頭二頭仔馬をまじへた 馬の群れが 雨の中にたつてゐる 雨は蕭蕭(しょうしょう)と降っている 馬は草を食べてゐる」以下略

ちょうど外は雨だから、阿蘇カルデラの中でぴったりの風景だった。

ロープウエィで阿蘇山に立ち、火口を上から覗いたり、シェルターの中に入ったり、阿蘇スーパーリングでは火口の噴火の映像と、もの凄く迫力ある噴火の音に圧倒された。
「ドンドンドンドン」と重低音が足から伝わってくる。これは忘れられない。

熊本では居酒屋「五右衛門」で馬刺し、きびなご刺身、カレイの唐揚げ、とり団子など飲んで食べたようだ。

以前に1回熊本に来ており、その時は熊本城や水前寺公園を見ていたし、夜行った「肥後っ子」なる居酒屋は良く覚えている。「肥後っ子」を横目に見て、違う居酒屋を見つけたのだ。

そこの座席はコの字になっており、真ん中で炭焼きをしていた。そして大きなしゃもじで注文した品が客席に届けられた。

鹿児島では錦江湾公園から桜島を望み、その後桜島に渡り、周遊バスに乗って、帰りに火山灰で作った猪口を記念に買ってきた。今でもたまに酒を飲むときに使う。

宮崎でも観光バスに乗り、巨人が春のキャンプ時に行くという青島神社にお参りした。
青島に行く途中は鬼の洗濯板と言われる岩が波状になっており、タモリが好きそうだ。
海がとてもきれいだ。

今年の巨人には桑田投手コーチ(今では息子のMattの方が有名か)が就任して、その指導力が問われる。

バスが通る道路には大きな椰子かシュロの木だと思ったら、フェニックスだとガイドさんが教えてくれた。いつも台風のテレビ画面ではフェニックスが大きく揺れる様を見せてくれる。

宮崎の居酒屋「橘酔」では刺身の他に郷土料理「冷やし汁」を初めて味わった。
冷やしたみそ汁に薄く刻んだきゅうり、唐辛子、ゴマが入っていた。確かに美味だと思った。

自宅への土産は手で持ち、実家へは宮崎の名物の大きな竹輪を宅急便で送った。
ただし、後で母からクレームがあった。余りにも数が少なかったようである。

こうして5月15日5日間の九州一人旅を終え、14時45分宮崎空港を飛び立った。