北原鈴淳 琴古流尺八教室 in八王子

尺八の音色は心を癒してくれます。

演奏すれば「無」の境地になれ、演奏が終われば満足感、充実感が得られます。

三木稔の思い出

2016-04-21 17:27:00 | 音楽・日々是尺八
作曲家、三木稔(1930~2011)は81歳で亡くなられた。

万年青年のような三木稔には、学生時代に何回かお会いし、さらにご自宅に伺った事もあった。

洋楽系の作曲家でありながら邦楽作品を数多く作曲されて、ほとんどが有名な作品であるような、凄い作曲家だった。作品はオペラ、マリンバ、合唱曲、映画など多岐にわたる。

恥ずかしながら、今現在その作品のリストを見て曲名だけは知っている曲が多い。

最初にお会いしたのは、現代邦楽が盛んになっていた頃の大学の3年生の時だった。
三木稔は、日本音楽集団を中心として活躍しており、盛んに定期演奏会では新作を発表していた。

1966年には「古代舞曲によるパラフレーズ」1967年には「四群のための形象」を作曲しており、私は演奏会には良く行っていた。

何しろ、我々尺八吹きは古典曲が中心だから、つまらなさを感じていた。そこに現代邦楽にカッコ良さを見付けだし、定期演奏会に冒険をしたくなっていたので、無謀にも「四群のための形象」の楽譜が欲しかった。
我々の定期演奏会は12月であるから夏休み前のことで、もしかしたら間に合うかも知れないと思ったのである。

そこで、狛江の三木先生宅にM大三曲研究部のK君と共に伺った。面白いことに表札は15㎝位のいびつな輪切りの木で、真ん中に三木稔と書いてあった。

この時にお願いして「四群のための形象」と「グリーンスリーブス」の楽譜をいただいた。
ただし、この「四群のための形象」は我々では技術的に難しく、大太鼓などいくつもの打楽器も無理だと判断して定演ではしなかった。

1969年には二十絃箏の野坂恵子による「天如」(てんにょ)を発表。その演奏を私はNHKFMで聞いて大変感激して三木稔に手紙を出した。
後日、たまたまW大の友人と三木稔にお会いするため、レコード会社のスタジオに伺った。
ちょうど「天如」のレコード化の編集中だったところを見せてくれた。

その時、「天如」の手紙の話が出て「それは私です」と言ったところ「君だったのか」と言われた。

その後、NHK育成会同期のメンバーを中心とした「生韻」(しょういん)と言うグループを作り活動をしたが、「劇団三十人会」の新宿紀伊国屋公演で秋浜悟史作の「おもて切り」(1971年12月17日~23日)の劇伴に出演した。

劇中歌の「南部よされ節」や秋浜悟史作詞、三木稔作曲「我鬼」(1970年)を尺八伴奏した。

我鬼の詞は「父と母と子は何日も歩き続けた。逃亡だ。脱走せねばならぬ。山越えの道は、しつっこく険しく曲がりくねって回帰するが・・・」今でもそのメロディーは覚えている。

その後割とすぐに何の縁かは忘れたが、M大の「さわらびコール」と言う合唱団に頼まれて「我鬼」の尺八伴奏したこともあった。
どこでこの曲を知ったのだろうか。
不思議な縁だった。


トロッコの思い出

2016-04-18 11:09:00 | 随想
地震・雷・火事・親父とは昔から言われる怖いものである。

地震は気象庁の無い頃から、一番に怖いものだったのであろう。何しろ未だに日時の予測が出来なく、突然下からドカーンと来るからである。

熊本は、会社退職時に一人旅行をして、熊本城、水前寺公園など感激したものであるが、熊本城がまさか崩れるとは思わなかった。

火事と言えば、歌舞伎町のゴールデン街火事は以前飲んだ近くだし、3月初旬に見学に行ったばかりである。

親父はもう怖くない。オオカミでは無くなった。やさしい。妻に負ける。これは俺だけであろうか。

今なら、地震・原発・テロ・ミサイルなのか。

さて、本題の「トロッコ」である。
「トロッコ」と言えばもう、芥川龍之介の短編小説「トロッコ」である。

小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平が八つの年だった。・・・で始まる。(明治41年12月に開通)

あらすじは・・その工事現場で使う土砂運搬用のトロッコに良平は興味を持っており、ある日、トロッコを運搬している土工と一緒にトロッコを押すことになった。
どんどん進んで遠くまで来てしまったが、途中で土工に遅くなったから帰るように言われて、良平は一人暗い坂道を駆け抜けた。家に駆けこんだ時、泣き出してしまう。
その時のことを、大人になった良平が回想するシーンが、最後に出て来る。

この題材はジャーナリスト力石平三の実体験の潤色らしい。

この「トロッコ」を題材に尺八家の堀井小二郎が朗読と邦楽器のコラボレーションの作曲をした。(堀井小二郎は福沢諭吉の孫だった)
言わば交響的物語「ピーターと狼」みたいな作曲だ。

私が大学3年の時だった。ラジオでこの曲を聴いて演奏会でする積りだった。
堀井小二郎宅は大田区池上にあり、一人で出かけた。

7孔尺八演奏家でもあり、尺八曲も何曲か作曲していた。
頼み込んで「トロッコ」と尺八二重奏曲「流転」などの楽譜をいただいた。

この「トロッコ」を2年生にやらせたが、少し難しかったかも知れない。
すっかり忘れていたが、46年振りに楽譜が見つかった。
それによると楽器編成は、尺八4本、箏3面、十七絃、打楽器として、鉄琴、やすり、ギロだった。

鉄琴、やすり、ギロは堀井先生からお借りした。これは土木作業の工事現場の音としての効果音である。
なかなか考えたものである。

先ず、箏のトリルで始まり、尺八がメロディーで加わる。そして尺八のカデンツァもある曲調から、工事を思わせる打楽器が入ってやっと朗読の「小田原熱海間に」と始まる。
トロッコに乗って走るシーンは箏の「シューシュー」の技法で段々早くして行くところは、本当に走って行く感じが上手く表現されていた。

多分、私が指揮者をしたと思う。
朗読は男性のイケメンであり、声も透き通ってきれいだった。
あらかじめ楽譜上に、ここから朗読の目安が書いてあったが、実際にはところどころ鉛筆で書き直してあった。放送のテープを参考にしたのか、あるいは独自に考えたかも知れない。

小説の最後の大人になっての回想シーンの朗読は無かったと思う。

さて、実は、私にこのような実体験があったのだ。
まさしく私も同じ思いだった。それは七つの年だった。

正月に父の小学校同級生の新年会が、生まれ在所の信州時又の割烹「油屋」であった。
時又は当時竜丘村で今は飯田市。「油屋」は今でも存在するらしい。

私の実家は旧飯田市内で、飯田駅から電車で時又駅まで約20分位で着いた。
途中、酒屋に行き父は酒を買い、その時にお年玉として、小さな徳利を貰った。

これを私にくれると言われて、嬉しくてたまらなく自宅に帰っても「僕のだ」と言い張って大事にしていた。それで酒を飲んだ事は無い。
大学生になって帰飯した時にもあり、懐かしかった。

父の実家がある竜丘村長野原までは、時又駅から田んぼや坂道、藪の中を登って20分位かかった。先ず、私を親類に預けるのである。親類には一歳上のいとこがいた。
そこで、かるたなど遊んだと思う。
しかし、帰る時は一人である。その時までは何も考えてもいなかった。

夕方、別れを告げて「時又」の駅に向かったところちょうど、結婚の行列に出くわした。
そのお嫁さんに見とれてしばらく見ていた。時計など持ち合わせてはいない。
おばさんはちょうど良い時間に送り出してくれたはずだ。

お嫁さんを見終わって、「時又駅」に着いた時はもう電車は出発してしまった。
飯田線は本数が少ない。路頭に迷って、少し引き返してはみたものの、途中まで戻っても仕方がない。
行き場所に困って一人寂しさを覚えた。山の中の夕暮れは早い。

次の電車に乗り、悔しさと反省もしただろう。悲しさを電車の中で窓際に立って、ひたすらこらえていた。

自宅に着き、母の顔を見て一気に泣き出した。まさに良平と同じである。


北海道旅行記Ⅷ・阿寒湖編

2016-04-15 08:58:00 | 旅行
1981(昭和56)年6月25日木曜日、北海道旅行5日目の阿寒湖

阿寒湖に到着した続き。

さて、今晩の宿を探そうとウロチョロしているうち、今朝ウトロで別れたSさん家族と再び偶然に出会った。これからバスで美幌峠に向かうとの事。余りにも偶然なので、お互いの住所を知らせて年賀状の交換を申し出た。そこでSさん家族とは別れた。

さあ宿だ。今まで民宿だったので有終の美を飾るべくホテルにしようと腹に決めていた。
予約してなかったが、ぶっつけでニュー阿寒ホテルなる立派なホテルに行ってみた。残念ながら満室で特別室なら空いているとの事。仕方なく次のホテルへ行ったが、ここも満室。

さて困ったなあ、旅館にでもするかなあと歩いていると、空き室ありという表示があるホテルの前へ出た。「くまやホテル」と言うホテルで見た目は旅館で名ばかりのホテルと思ったが宿泊をあせっていたのでそこにした。

木造で二流旅館と言う感じ。一泊7000円だと言ったが、せっかくの場所だから「阿寒湖の見える部屋を」と言う事で8000円だった。
三階建ての三階、一番端で確かに阿寒湖を望めた。
荷物を降ろし、くつろいでいると私服の女中が来てお茶を入れてくれた。

遊覧船に乗りたかったので聞いてみると、30分毎に出ていて次は5時だと言う。
急いで船着き場へ行く事にした。

もう夕やみせまっていた。半袖で乗り込んだが動き出すと風は涼しく、寒さで震えてしまった。
右側に雄阿寒岳、後ろに雌阿寒岳がそびえ立ち、阿寒湖の遊覧船はまっすぐマリモのある島へと向かった。

マリモ・・・それは不思議な自然の産物だ。直径20㎝位もあるマリモは正直言ってびっくりした。すべて4~5㎝位だと思っていたからである。藻類が湖の波に揺られながら湖底で回転運動をし、徐々に丸くなって成長しているのだ。

水族館では大小様々なマリモが上がったり下がったり回転運動をしていた。阿寒湖のマリモだけでなく、他の山中湖等のマリモと比較していたが、やはり阿寒湖のものが最大である。

船は阿寒川の水門などを経て、夕日が沈む様を映しながら進んだ。
乗船中、スピーカーから「毬藻の唄」(マリモのうた)が盛んに大音量で流れるので、覚えてしまった。
〽 水面をわたる風さみし・・・マリモよマリモ 緑のマリモ

自分への土産として阿寒湖の状差しを買ったので、それにその歌詞が書いてある。

ホテルに着くと部屋に入り、暮れて行く阿寒湖の素晴らしさを眺めていた。
6時50分夕日が完全に山の麓に没した。空の雲に反射した夕焼けが私の心を感傷的にさせたが、辺りが段々暗くなりやがて阿寒湖らしさだけが残ると、私は風呂に入るべく部屋を出た。

大浴場は私以外誰もいなかった。壁などは温泉地特有の汚れで匂いは確かに温泉の匂いであり、温度は適温でゆっくりつかった。

部屋の外にもう食事は届いていた。7時の指定だったからである。
電話を入れ女中を呼び、食事の用意をしてもらった。小さな鍋物とフライであまり美味しいとは言えず、印象は良くなかった。ビールを飲んだが、とにかく急いで食べた。

それには理由がある。アイヌ部落で8時からアイヌ踊りが上演される由の宣伝カーが回っていたからである。
急いで浴衣に下駄をつっかけてアイヌ部落へと歩き出した。

あちらこちらからも浴衣姿でアイヌ部落の方へ向かっている。失敗したのは下駄だった。
浴衣に似合うのだけれども、その下駄がやや小さいので、かかとが外に飛び出して足の裏が痛くて仕方ない。しかも暗い夜道を一人カランコロン歩くのは、気持ち良いものでは無かった。

アイヌ部落に入って8時を回っていたが始まる気配が見られない。周りは土産物店がいっぱいあり、ほとんど木彫りの熊とブローチ類だった。

8時30分にスピーカーでの呼びかけで小屋に入った。500円。造りはアイヌ的でかやぶきである。一目散に一番前の席を取った。
このアイヌの踊りは無形文化財に指定されており、小屋は釘一本も使ってないとの事。

やがて、アイヌ語での歓迎の歌があり、踊りが始まった。歌は聞いていてもさっぱり解らないが、踊りは描写的で解り易かった。
特に松の木を人間が演じ、風が吹いて揺れる様は、髪の毛を前後にゆすって上体を大きくゆらす白熱の演技であった。

珍しく竹で作った原始的な楽器「ムックル」を聞かせてもらえた。それは20㎝位のもので、竹を切って真ん中をリードにし、それに紐をつけてひっぱる事によってそのリードが振動し、音がするのである。
そのリード状の所を口にあてがう事により、口の中で共鳴し増幅され音楽として表現される。
極めて原始的にビーンビーンと多少の音程をつけ一曲演奏された。

やがて一時間位の上演を終わると、外の広場でも上演すると言う。ただしこちらは無料。

興味を持ったので再び外で鑑賞、今度は火を燃やして踊りが始まった。先程の踊りと変わらないものをやったが、その他「剣舞」もあった。男と男が刃物で戦うものでその男の裏に女性が一人づつついている。戦いに勝った男と結婚するというものだ。

残念だが「北海道旅行記」はここで終わってしまっていた。

記録に無いともう思い出せない。多分、翌朝阿寒湖からバスで釧路に行き、釧路から空路羽田経由で帰って来たのは確かである。

フィルムの写真がどこかにあるはずで、それには日付けも表示されている事だろう。

北海道には翌年、縁があって「きたみ東急」開店時に旭川まで飛行機に乗りA君と会い、又彼の旭川での結婚式1984(昭和59)年11月にも出席して披露宴で尺八を演奏した。

上記の「北海道旅行記」を見れば解る通り、A君には多大なお世話になり、感謝しきれない程の恩を感じており、上京でもたまに会うが、本当にありがとう。感動はいつまでも忘れない。

北海道旅行記Ⅶ・ウトロ~阿寒湖編

2016-04-14 11:02:00 | 旅行
1981(昭和56)年6月25日木曜日、北海道旅行5日目のウトロ

午前4時頃、あまりの明るさに起きてしまった。しかし間違いなく4時だった。・・・そうだ知床半島はアメリカに近いのだ。とすると朝日はもうすでに昇っているのか?カーテンもない窓からは太陽が差し込みそうだ。しかしあまりに早いので再び寝た。

ところが6時30分頃ガタガタ音がしだしたと思ったら、ご夫婦家族のお出かけだった。たまたまトイレに行きたかったので部屋の外へ出ると、再び会い阿寒湖で又お目にかかれる様、お互い祈った。

男連れ二人は車で羅臼に抜けるのだと言う。ちょうどその日の午後、長い冬の沈黙を破って道路が開通するのだ。

私は8時15分発の知床半島見学の遊覧船に乗るべく港に急いだ。途中には木彫りのアクセサリー等の土産物屋がたくさん並んでおり、時々小熊が鎖につながれいて道路にチョロチョロ出て来るとビックリする。
小さくても猛獣なのだ。

団体客と一緒に遊覧船に乗り込んだ。1時間30分の硫黄山折り返しだ。
流石、オホーツク海の風は冷たく、薄い長袖を必要とした。

船は左をオホーツク海、知床半島の絶壁を右にして進んで行った。スピーカーからは名調子の解説が流れる。知床半島はなだらかな山々を想像していたが、全く違った荒々しい岩々であった。
下側が流氷に削られて上の方が海に飛び出している様は、ぶきみだ。

あまりにも見事なので船室から甲板に飛び出したが、すでに若い人で満員だった。果てしなく続く岩々は間違いなく巨大なもので、層雲峡と共に北海道のすごさを見せつけてくれた。

知床岬行きの遊覧船は3時間以上かかるので、この硫黄山折り返しで私には十分だった。
スピーカーからは戸川幸夫の秘境知床の名文が流れたり、最後には知床旅情の歌が出たりで郷愁を誘った。9時40分港に着く。

今度は最終目的地の阿寒湖に向かうのだ。
10時15分発のバスに乗り、ウトロをあとにした。斜里駅には1時間で着いた。
斜里駅発の急行は12時47分なので、1時間半の待ち時間がある。そこでどうするか考えるべく駅前の「ちるちるみちる」なる喫茶店へ行って「アイスコーヒー」を注文した。

斜里町はこじんまりとしており、田舎的なたたずまいを見せていたがウエイトレスは中々の可愛子ちゃんであった。この近くで見るべきところはないか、聞いてみたが「判りません」とつれなかった。

ここでしばらく休憩すると12時を回ったので、昼食をとるべく外に出た。
駅に戻る途中に大衆的な店があり、そこで「カニラーメン」を注文した。塩味でラーメンの上にはたっぷりサービス良く、タラバガニが乗っていて美味かった。750円支払い駅に向かった。

急行しれとこ3号で弟子屈(てしかが)に向かう。13時55分に弟子屈着。ここから定期観光バスに乗るのだが、そのバス停に行く為に違うバスに乗って行った。

出発は3時なので1時間のロスがある。やはり一人旅はつらい。車ならロスがないのに。
近くにパチンコ店があったので入ったが、あっと言う間にすってしまい、面白くないので止めた。

阿寒湖まで定観光バスで1時間ちょっと。だんだんと山の中に入って行った。
途中運転手さんが、エゾマツ、トドマツの見分け方をなまり言葉で言い、その見分け方が解らない人はオソマツとシャレが出た。
雄阿寒岳が徐々に大きくなり、双湖台でペンケト-、パンケトーの湖を眺めた。

このペンケトー、パンケトーは元々阿寒湖と続いていたが、雄阿寒岳の噴火により分断されたとの事。静かに山と山との間に横たわっている湖を見て、バスは一路阿寒湖へ向かった。
女性のアナウンステープで阿寒湖を紹介してくれる。

16時10分、阿寒湖のバス停に到着。

続く


北海道旅行記Ⅵ・摩周湖~ウトロ編

2016-04-13 10:00:00 | 旅行
1981(昭和56)年6月24日水曜日の北海道旅行4日目、摩周湖

摩周湖には12時20分到着。霧の摩周湖とは言うが幸い良い天気なので、その湖が真っ青。
静かで神秘そのものだ。透明度が世界第二位とのこと。吸い込まれそうな濃い青だ。

湖の周りはすべて山で、人工的な不純物は入っていない。ただ自然の雨だけが溜まったものであろう。

(布施明が1966年にヒットさせた「霧の摩周湖」で有名になった。私は当時上手く歌えなかったが、35年経った今はカラオケで必ず歌う程好きな曲だ)

展望台は第一と第三があり、個人客が次から次へと来ていた。
記念撮影に余念が無く我々も摩周湖が良く写る場所では、どうしても他人が入ってしまい、仕方なく他人も一緒に撮ったりした。摩周湖だけの方がかえって素晴らしい。

摩周湖の清さを目に焼き付け、そこを離れた。これから下り坂で曲がりくねり、徐々に下界に降りて行った。
1時10分、川湯駅着。近くの食堂で昼食。(何を食べたか記録が無いし、記憶も無い)

北海道へ来て4日目。4日間世話になったA君と別れる時が来た。
私はこれから知床へ、彼は車で旭川まで引き返すのだ。

今まで世話になった礼を言い、彼と別れた。別れた途端、言い知れぬ寂しさに襲われた。

無理も無い。今まで北海道へ来てからずっと二人だったが、ここで北海道の原野に放り出されたようなものだったから。

しかし、地図と鉄道の時刻表を片手に持っていれば必ず、道は開けると確信していた。
川湯駅2時16分発、急行で斜里方面行きに乗る。

急行とは言ってもまるで鈍行みたいな走り方だ。たった2両で時速40㌔位。
山の中に入ったと思うと30㌔位のノロノロ運転。後で聞くと1000分のなにがしかの急勾配だそうで、それにしても遅い。

やがて平野が開けて来て、3時7分斜里駅に着く。川湯から斜里まで急行券込みで1040円だった。
駅前からウトロ行きのバスがすぐ出発するところ。時間はあらかじめ見ていたのでスムーズにいった。ウトロまで1050円。

路線バス風の定期観光バスといった感じで、各停留所に止まりながらも音声による景色の解説をしてくれた。
網走から眺めた知床半島の山々が目の前にそびえ立っており、右から斜里岳、海別岳、遠音別岳、羅臼岳へと連なっている。

やがて知床半島に入って行く。すぐ左はオホーツク海。真冬は寒いだろう。冬この道は閉鎖される。途中オシンコシンの滝等を眺めさせてくれて、バスはさらに知床半島の中へと進む。

4時10分ウトロに着くとすぐ宿探しだ。民宿と腹は決まっている。
運よく近くに案内所があり、斡旋してもらったのはバス停近くの「うみべ荘」だった。

ひとまず宿へ行き荷物を降ろし、散歩に出かけた。そこは「うみべ」と名が付いていたが残念ながら海は見えなかった。

歩いて10分位で海に出られた。オホーツク海である。幸い天気に恵まれ半袖シャツで十分間に合った。
海岸には高さ30mもある岩がボロボロで、今にも崩れそうにちょっとした山を形作っていた。
周りは網で囲ってある。珍しいので写真に収める。
そこには森繁久弥の「知床旅情」の碑があった。

〽知床の岬にハマナスの咲く頃・・・という歌が彫ってある。
その小高い山をぐるっと回ると目の前はオホーツク海で、真冬を想像してみた。一面雪と氷であろう。鳥肌が立つ寸前だった。

30分程海岸で気を休めて宿に戻る。旭川で買った絵葉書に友人らに、とにかく北海道の素晴らしさを文にしたためる。
明朝、ウトロのバス停前のポストに投函すれば9時に集配にくるはずだ。

入浴後夕食。魚はホッケと鮭でいかにも民宿らしい料理であった。
食堂では他に男連れ二人と夫婦子供一人の家族がいた。
夫婦ペアは明日は阿寒湖に行くと言う。私とコースが同じなので話を始めたら、笛をやっているとかで、話がすっかり合ってしまった。

彼はN市で「蕎麦屋」をやっており、縁なもので来てくださいと言う。
又、3泊4日位の北海道旅行で先ずここに来たのだと言い、「知床最高!」と絶賛していた。

午後8時30分、大和市の自宅と信州の実家に、赤電話に10円玉を投入しながら話をした。
(未だテレフォンカードも携帯電話が無い時代である)
とにかく遠いからポトリポトリと10円玉が落ちて行くので落ち着いて話せない。
結局400円と200円かかった。

実家は父が出たが、もう北海道から帰ったものと錯覚していた。
今、北の最果てに来ているのだと強調して電話を切った。

9時、明日のコースを検討して持参した本を読もうと思ったが、疲れているので早く寝る事にした。
9時30分、就寝。