北原鈴淳 琴古流尺八教室 in八王子

尺八の音色は心を癒してくれます。

演奏すれば「無」の境地になれ、演奏が終われば満足感、充実感が得られます。

今田人形展

2016-12-19 16:47:00 | 芸能
師走である。師走とは、いろいろな説があるが、私が走る訳ではない。

暮れも押し迫った17日(土)に渋谷の「アートギャラリー道玄坂」で、「今田(いまだ)人形浄瑠璃展」を見に行ってきた。

今田人形とは、南信州の伝統芸能で、飯田市の無形文化財になっている。
在京飯田高校同窓会でいただいたチラシに興味を抱き、東京で見られるとはと足を延ばした。

25年くらい前までは仕事で渋谷に頻繁に来ていたから、今の変貌ぶりも見たかった。

結婚式を挙げた東急文化会館は「ヒカリエ」に変わり、東急百貨店東館は解体した。渋谷駅は大工事中である。

会場は午後1時からだから、早めの12時過ぎに着いて井の頭線駅ビルのマークシティ内のレストランで昼食をとった。素敵なレストランが多く大変混んでいたが、運よく「菜な」と言う和食店を見つけ、個室に案内されて掘りごたつ式のテーブルについた。

メイン通路の裏側にあり、隠れ家的な店で、何も隠れる事はないが、対面(といめん)は残念ながら妻である。私は「ぶり照り御膳」をいただいた。これが美味。

1時過ぎに会場に入った。
実演は1時30分からなので、一番前の席を確保した。
私が5月に「宮城記念館」で尺八を演奏した時に、お世話になった高校同窓生もいた。



最初に、係りから説明があり実演が始まった。
演目は「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)政岡忠義(ちゅうぎ)の段」
奥州伊達藩のお家騒動の物語。

写真左が太夫(たゆう)で、右が浄瑠璃三味線(太棹)
後ろの「松」の幕がいい。

今田人形は宝永元年(1704年)に信州今田村で誕生して310年余。
場所は天竜峡の近くで、飯田市龍江に人形座がある。

座員は20名で、20歳代から100歳を越える人もいるそうだ。それぞれ人形操り、太夫、三味線を担当する。(ここから2人がプロになったそうだ)
(Youtubeで見られる)

平成3年にはフランスで公演、平成16年には台湾、平成19年はアメリカのシカゴ・ミズーリ大学で講座。



先ず、「娘」を使って3人で実演。娘の右側の人が、「かしら」と右手、左側の人が左手、後ろの人が足を担当する。

写真の娘は泣く演技もするが、他の娘は口を開くと、鬼みたいな顔になる。



「文七」人形。
かしらと右手を操る人は高歯を履いており、左手担当者は人形がお客に見えるように、身体を開いて操作をしなければならない。

後で人形を持たせてくれたが結構重い。



男の人形は、眉毛が上がったり下がったり出来る。



寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)
今度は本格的に実演なので、人間は顔を出さないで黒子になる。

天下泰平、五穀豊穣を祈願するご祝儀の舞。
四隅と中央の五方を清め、にぎやかに舞う。



場所が狭かったので、演者は大変だった。



私は何しろ一番前の席に座っているので、覆いかぶさってくる感じ。



やがて鈴を持って四方に種をまく。
結構激しく舞うので、ハプニングが起きた。

何しろ、3人の黒子である。狭い所を行ったり来たりで、つい履いていた草履を演者同士が踏みつけたらしく、左手担当の左草履が途中で脱げてしまった。

黒子で下が見えない。仕方ないからそのまま演じていた。

最後の決めのポーズ。
約8分の演技だったが、激しいので汗をかいていた。

ほとんどの人は仕事もあるので、練習が大変だ。3人の呼吸が合わないとバラバラになってしまう。

この後、我々は実際に人形を使って操ってみたのだけれど、とても大変だった。
夢中でやっていたもんで、写真を撮るのを忘れたに。



実演終了して今田人形保存会の吉澤健会長の挨拶。そして右側は木下文子人形座事務局長、演者。

実はここで世間は狭いを実感したのだった。
何より、高校同級生のTA君が今田人形座の座員だったと聞かされたのは初めてであった。

彼は飯田市でフォークソングの有名人だし、私も尺八で一緒のステージに立ったり、同期会後の同級会ではいつものスナックで、彼のギターとオンステージを繰り広げる仲である。

又、高校同期のKI君も龍江地域づくりの副会長で来ていた。

さらに、龍江には私のいとこが住んでおり、皆さんいとこのSAさんを十分知っていたし、私の父方の「ことによると親類かも」と言う人も現れたのである。

会場はと言えばこれ又、高校の先輩が脱サラ後、経営しているのである。
その先輩も「宮城記念館」での私の尺八演奏を聴いており、その時に名刺もいただいていた。
もちろん、尺八の演奏のことを良く覚えていらしゃった。

人形浄瑠璃のその他の有名な演目は「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」や「東海道中膝栗毛」などがある。

四国旅行記 そのⅥ

2016-12-05 20:05:00 | 旅行
11月26日(土) 四国・小豆島旅行6日目で、いよいよ最終日である。

5時45分起床。天気は晴れ。
展望浴場は6時からなので、いつもよりゆっくりめに起きた。

浴場には小豆島の写真が展示されており、「小豆島は日本で19番目の大きさである」と書いてあった。

周囲126キロメートル、人口約28,000人、島の形は牛が左を向いている様だ。
「ベイリゾ-トホテル小豆島」は後足の付け根の部分か。

6時50分から朝食。バイキングで、会場は昨夜の隣の大広間だった。



昨夜もバイキングだから、基本的には同じものが並んでいた。
珍しいのは、手作り豆腐くらいで、あとは定番の納豆・しらす・ポテマヨ・だし巻玉子・ソーセージ・じゃこ天・かぼちゃ・お新香など。



7階の部屋から見た、瀬戸内海。
左側の半島の先に、「二十四の瞳 映画村」がある所だろう。



バスは8時10分出発。最初はすぐ近くのオリーブ園の見学だ。
1919年からオリーブ栽培を始めた。朝一番だったので、もちろん我々が見学一番であった。



オリーブ園では、若いお嬢さんが案内してくれた。
産業用として日本で最も古いオリーブ園の原木である。



果実は6月頃から成長し、やがて緑から赤くなり、さらには赤黒くなるのもある。朝日がまぶしい。
これらは以前使用されていた、しぼり機だ。



10月初旬から収穫し、緑の果実は新漬けに、赤黒い果実はオリーブ油や化粧品などに加工される。
あっと言う間に見学は終り、土産物店に案内されるいつものパターンだ。

オリーブ油は千差万別で、ガイドさんも「このオリーブ油に限るとは言えない」と言う。土産物屋によっても取り扱う商品が違うらしい。

小豆島産だけの場合、値段が高い。外国産との混合割合で価格が決まるようだ。
それなりの物をゲットした。

バスに乗る前に、全員に見本の「オリーブハンドクリーム」をくれた。



オリーブ園を8時50分に出発して、9時20分、寒霞渓に到着。

こううん駅からロープウェイに乗る。隣りは若いカップルで、大きく甲高い声で大阪弁が飛び交うさかいに、うるさい。



ロープウェイから奇岩が見える。紅葉の時期を狙って申し込んだが、ほぼ紅葉が終わってしまったかな。
目の前のカエデがロープウェイの陰で暗く、残念だ。



山頂に近づくにつれて、岩肌があらわになる。
小豆島にこんなに高い山があるとは、思わなかった。



上側の第二展望台から見た所だが、左下側の岩の所に鉄の輪が見える。
これは、平べったい石(かわら)を投げて輪くぐりをすると、幸運になると言う。

ツアー客が5個位(200円)投げていたが、一個も届かなかった。トランプを投げるようにすれば良いのに、とつい声を出してしまった。



瀬戸内海を望む。絶景である。

ツアーの男性陣はいいカメラを持っているので、うらやましい。私ももう一ランク上のカメラが欲しいのだが。
そうすればもっときれいに、あざやかに、鮮明に写るだろう。



こちらはやや下側の第一展望台から。
ロープウェイは登りだけで、再びバスに9時50分乗車。
バスは寒霞渓の頂上(612m)まで登り、あとはブルーラインを使って下りである。

意外なのは、この山が瀬戸内海にしては高い山だから、冬には30センチも雪が積もると言う。

猿もいるようだが、途中「鹿が林の中に消えて行った」とガイドさんが驚いていた。

思ったよりは大きな島だった。やがてバスは世界一狭い海峡だと言う土渕海峡を渡り、土庄(とのしょう)港に着く。10時20分。



最後の見学地、二十四の瞳・平和の群像である。

私はすっかり勘違いしていた。それは壺井栄の「二十四の瞳」の映画の舞台となった所を見学する、とばかり思っていたからだ。そこは随分先の半島だから、今回のツアーでは行けないのだ。

思いが強かっただけに誠に残念だった。



写真では分からないが、おなご(大石)先生の頭から鼻にかけて、鳩のフンが白くかかっていた。

あの映画の高峰秀子や、生徒たちの屈託のない表情を思い出す。



目の前にある公園に、先生と生徒たちの石碑が円を書くように一つづつ置いてある。
まさかお墓ではあるまい。



写し方が悪かったが、こちらは「キッチン」(徳田吉次の愛称)

壺井栄は小豆島生まれで「二十四の瞳」は創作であり、反戦小説である。
舞台となった小豆島と、金比羅さんに今回の旅行に行けて満足である。

土庄港の売店でやっと小豆島の日本酒を買った。島内唯一の森國酒造の「うとうと。純米酒」
アルコールは17度だから、普通の酒より高い度数だ。焼酎のような濃密な味だった。

時間調整してフェリーは11時出発。いよいよ小豆島を離れる。旅も終わりになって来た。



小豆島を後にして、行く先は新岡山港である。新岡山港まで約70分あるので、まだ早いがここで弁当が出た。
「岡山 後楽園の弁当」で、お品書きまで入っていた。

鰆の白醤油焼き・舞茸とさつま芋のかき揚げ・岡山県産焼豚・厚焼き玉子・筑前煮・岡山名物祭ずし・きのこと松茸ご飯と贅沢であった。

新岡山港に12時10分着。そしてフェリーから降りて一路、新幹線の岡山駅へ向かう。

バスガイドさんの、「皆様といよいよお別れの時がやって参りました。今回お世話になったバスは何処のバスですか?」とか「後は岡山駅でしっかり買うのよ」と笑いながら、盛んに岡山をアピールしていた。

出発前には「バスに乗ったら皆さん、家族と考えましょう」と言われていたが、誠に素晴らしいガイドさんであった。

中にはガイドさんに名刺を催促した人がいたが、持ち合わせてはいなかった。
運転手さんは「イギリスのチャールズ皇太子」に似ていると私は思い、つい「チャールズさん、ありがとう」と言ってしまった。

そして添乗員さんが6日間をざっと振り返り、一生懸命さが伝わった最後の挨拶があった。



新幹線岡山駅から見た岡山市内。目の前は高島屋だ。
1時間以上の余裕があったので、買い物をして「のぞみ28号 9号車」13時49分発に乗り込んだ。

私はグリーン車は初めてである。成るほど2席づつでゆったりしている。
ところが新横浜で一番最初に降りるからか、車両の一番前の16番C・D席で、目の前は壁だった。

我々以外は大きなキャスター付きをガラガラ引いていたが、宅急便で送った人もいたから帰りは意外と楽だった。

やっと安堵して、岡山駅ビルで買った地ビール「独歩」と簡単に「サンドイッチ」を食べだした。この「独歩」ビールは味わい深かった。

そして、再び「四国連絡特急殺人事件」を読みだした。50頁位は読めた頃、左側に大きな富士山がしっかり見えた。未だ明るかったのだ。

新横浜駅には予定通り、16時55分着。
添乗員は反対側の席だったので、私は彼を抱え混んで「大変楽しい旅行でありがとう。ご苦労様」と言った。

3組の夫婦が新横浜駅で降りた。添乗員はじめ皆さんとも手を振って別れた。6日間一緒に行動して、多少会話も出来た。
男性はなかなか無口で、ほとんど話はしなかった。

プラットホームで、「さあ」と思ったら向こうから車いすに引かれた「日野原重明」先生が通り過ぎるところで、私はすぐ分かり、手を振ってお辞儀をしたら、手を振って返してくれた。

「神ってる」が今年の流行語大賞になった。

今回はまさにそうかも知れない。何しろ私が一番心配だったお腹が良く、バスのトイレを一回も使用しなかった事である。又、お天気に恵まれ、日中は一度も傘は必要なかった。

これだけ、お寺や神社を回ってお願いしたから通じたのか、御利益があったかも知れない。

尺八を演奏し、古典本曲も演奏する手前、私もお遍路さんで四国を回る必要があるかも知れない。
要は意志である。

参加した御夫婦は皆仲良く、80歳の高齢夫婦もおり、金比羅さんではご主人が奥様の手を引いていたし、金婚式記念のご夫婦は最後のバスの中で発表され、皆で拍手した。

帰って早速「釣りバカ日誌14」を見たが、これは「釣りバカ」の中でも一番面白かったと思う。
見るだけでも「金剛福寺」「四万十川」「足摺岬」等が分かる。

又、「バルトの薬園」はベートーベン作曲「交響曲第9 歓喜の歌」の演奏がエンディングに出て来るが、映像としてベルリン・フィルのカラヤン指揮や軽井沢大賀ホールでの大賀典雄の指揮、三越百貨店での演奏などで、大変聞かせる。いい映画だった。

今回は大変勉強になった旅だった。
日本の各地を旅行してきたが、あと行ってないのは和歌山県・鳥取県くらいだろうか。


四国旅行記 そのⅤ

2016-12-03 10:51:00 | 旅行
11月25日(金) 晴れ 5日目である。

5時半起床で、すぐ大浴場に行く。

朝食は7時からバイキングである。場所は大広間で結婚式場みたいな、シャンデリア付きの凄く高い天井だった。
中国系の家族が多く、異国語が飛び交っていた。

今度の旅行で初めてパン・バターにしてみた。スクランブルエッグ・ハム・ソーセージ・ノリ・鮭・カマス焼き・ヨーグルト・フルーツにコーヒーだった。洋食でも納豆はいつでも食べる事にしている。



バスに荷物を預けて、8時45分いよいよ金比羅宮参りである。



「二十四の瞳」(1954年)の昔の映画で、浪花千栄子が金比羅さんの飯屋のかみさん役をやっているシーンが思い浮かぶ。

小学校をやめた「マッちゃん」がそこで働いており、修学旅行で来た大石先生と劇的な出会いをするのだ。

生徒らが再び遊覧船に乗って小豆島に向かって出発する時に、マッちゃんが走って見送る場面には泣けた。



「にしきや」さんで全員、竹の杖を借りた。ガイドは「にしきや」のおばさんである。
ハンドマイクを片手に、ゆっくりと進みながら面白おかしく説明してくれる。

参道には両側に土産物屋さんがある。



金比羅さんは階段が785段ある。しかし5~6段ですぐ平らになるところもあり、大変では無かった。



旭社は天保8(1837)年、竣工され高さは18メートル。



御前四段坂は最後の石段で652段~785段である。
ところどころで休んで説明してくれるので楽だ。



御本宮は海抜251メートル。正面からの撮影は禁止だそうだ。
健康のお願いをした。


下界が眺められて目の前は讃岐富士。全国に富士と名付ける例は多いが、やはり単体ですくっと立っているのは美しい。

金比羅さんは「象頭山(ぞうずさん)金毘羅大権現」と呼ばれた。
「金毘羅船々」の歌の意味がここへ来てやっと分かった。
「まわれば四国讃州那珂の郡 象頭山大権現ーーー」と歌われる。

確かにホテルから象頭山を見れば、象の頭や鼻、尻の形に見えた。



帰り道は混雑するので、裏参道で帰る。カエデの見どころ。
再び「にしきや」に案内されて、トイレとお土産を買いたい人は買う。
上手い具合に案内される。

バスは再び「にしきや」に横付けされて、10時30分、今度は秘境の大歩危峡(おおぼけきょう)に向かう。



75分乗って、昼食は大歩危峡のレストラン「まんなか」で「祖谷(いや)のそば」(そばは撮影後に出てきた)
又、アユも出たが郷土料理の豆腐は大きくやや硬かった。



大歩危峡は見た感じが、先頃、天皇陛下が訪問された信州天竜峡に似ている。



木曽の「寝覚めの床」にも似ているかな。川が透き通ってキレイだ。



さらに山の中に入り13時、いよいよ有名な「かずら橋」である。



あらかじめガイドさんから、渡り方と携帯電話・スマホ・デジカメや貴重品は絶対落とさないように注意があった。

皆、恐る恐る渡っている。足下は10センチ間隔の木で、踏み外すことは無いが、挟まれる事はありそう。それでも皆さん「かずら」に、しがみついて、ゆっくり渡っている。

横幅はあるので、普通は両手は届かない。少しづつ進む。
ところどころ、かずらが踏みつぶされて、切れているところもあった。

私なんぞは真ん中を走り通って行けそうだと思ったが、自信は無かった。



「かずら」は「つる草」の総称で安全の為と後継者育成の為、3年ごとに張り替えているそうだ。
手すりにはワイヤが入っており、安全である。

バスは13時45分出発し、来た道を戻り井川池田ICで高速道路(徳島自動車道)に入る。

池田と言ったら甲子園を沸かせた「池田高校」である。ここで蔦文也監督の説明をしていた。

そして、高松自動車で高松に向かった。高松では栗林公園や高松城・屋島の説明があった。



高松港に16時30分着。
これで四国の4県を制覇して、ほぼ一周した事になる。(新居浜を除く)四国の大きさが分かった。いよいよ四国とお別れである。過ぎてしまえば早いものだ。

時間調整して16時49分フェリーにて小豆島に向かう。
辺りは段々暗くなって来た。屋島が見る角度でどんどん変わるというのが分かった。

乗船は約1時間、もう暗いので甲板に出たが小豆島は写せなかった。皆さんは景色が見えないから、テレビの相撲に夢中であった。

17時50分に池田港に着き、18時15分には「ベイリゾートホテル小豆島」に着いた。もうすっかり暗くなっていた。

C社のサービスで大きな荷物は一人一個、宅急便で自宅まで運んでくれる制度があった。
これが助かる。早速、申し込んで手続きをした。

浴衣は好きな色・デザインのを選べた。最上階の12階にある展望風呂に入る。今回の旅行で最上階に風呂があるのは初めてであった。
目の前にうっすらとした海と、遠くにチラチラと灯りがともる半島が見えた。

シンガポールのマリーナ・ベイ・サンズの屋上プールを思い出す。



19時30分からの夕食はバイキング。夕食のバイキングは今回の旅行では初めてであった。
従業員はじめ、お客さんも異国の人が多かった。

どうも夜のバイキングは好かない。落ち着かない。
中生を頼み、相変わらずの刺身・コロッケ・ミニトマト・フルーツ。目新しいところで、タコつるしのぶつ切り・ハマチしゃぶ。

小豆島と言ったらオリーブである。ガイドさんが言った何種類ものオリーブ入りそうめんや、オリーブ漬けをいただいた。

何かを食べ忘れたと後で思ったら、納豆だった。

良く歩いたのだろう10,000歩だった。

部屋は、リゾートと名が付いているが、以前畳だったところに板を貼って洋風にしてあった。
だから部屋は衣裳入れなど和風でありながら、ベッドで不思議な感じ。

ただ珍しく、風呂とトイレは別だった。
今回の旅行は全部本物の温泉で大浴場に行った為、部屋の浴槽は使用しなかった。

実は四国旅行が決まってから、西村京太郎の本を探していたら「四国連絡特急殺人事件」がブックオフにあったので、買って持って来た。
毎日が忙しく、読む暇がなかなか無かったが、ここでやっと時間が取れて読みだした。

いきなり香川県、予讃本線の本山駅にある四国第70番札所の本山寺の近くで、お遍路さんが殺されている場面が出てきた。

ところが読み始めて10頁位で眠くなってしまった。

四国旅行記 そのⅣ

2016-12-01 12:00:00 | 旅行
11月24日(木) 4日目の朝を迎えた。

5時に起床して5時30分から風呂に入る為、遠い所だがひたすら歩いて行く。
6時頃、ロビーで新聞を読んで、相撲の結果を見る。

高知は晴れで暖かい。前日の天気予報で知ってはいたが、テレビニュースで東京は雪でびっくり。しかも積雪で、雪かきもしたと言う。

八王子駅も映され、あれーー。自宅庭の菊が雪で倒れたと聞いた。
しかも6時23分には福島で震度4の地震もあった。



6時30分からの朝食はバイキングでおかゆ。いつも旅に出るとおかゆだが、今回は初めてであった。

湯豆腐・納豆・目玉焼き・ソーセージ・しらす・メカジキ焼き・フルーツ・ヨーグルトなど。
いろいろあっても私の食べる物は大体決まっている。

バスは7時50分発と早い。
高知市を出てバスは国道55号で土佐湾を右に見て、海岸沿いを走る。座席は3日目が前から3番目で、4日目は4番目だった。
空いているので、中には後ろの座席に行く夫婦もいるので、私はゆったり反対側の席に一人で移動した。

途中、安芸市を通った時、阪神がキャンプする「安芸ドーム」が見えた。
今年、新人賞を取った高山が、ここで練習しているのを帰宅してニュースで見た。

次は室戸岬だが長いので、ガイドさんは「弘田龍太郎」作曲の「浜千鳥」を歌ってくれた。

弘田龍太郎(1892~1952)は安芸郡土居村(安芸市)で生まれ、大正9年に作曲した。ガイドさんは上手く歌ってくれた。何しろ説明も情がこもって、抑揚があり聴きやすい。

途中休憩は「キラメッセ」までバスで110分。室戸岬にはトイレが無いのでここで済ます。みかんを試食して、またしてもみかんを購入。

実は室戸にも来たかったのには理由がある。

M大学三曲研究部に入った時に、同級生のMA君が室戸の出身だったから、一度は訪ねて見たかった。彼は一年で尺八を止めてしまったが、夏の合宿で私に「ミスター三曲だ」と言ってくれた。

色白のいい男で、目が切れ長でカッコ良かった。とにかく酒が強かった。
「あいつ今何してる?」という番組が人気だが、彼は卒業後、大阪に就職したと風のうわさで聞いた。会ってみたい一人だ。

彼の生まれた室戸市(人口14,000人しかいない)の街なかを通り、室戸岬に10時20分着いた。



室戸岬海岸は地殻変動で隆起した奇岩が、あちらこちらにある。
普通は横の層だが、縦になっているのが分かる。



いくつもの見所はある。



小高い丘に室戸岬灯台があり、そこまでは行けない。



昔、ラジオの気象予報で「室戸岬では、南南西の風、風力3、○○ミリバール(今はヘクトパスカル)」と言うのを良く聞いた。昭和9年の室戸台風は風速60メートルと凄かったらしい。



国定公園になっている。



ここの奇岩を見納めて引き返す。



これは「アコウの木」で大変珍しい。岩を根が抱え込む様に成長している。

この木は前日早朝に見た白山洞門の遊歩道にもあった。

白山のは他の木を包み込んで、締めつけてしまっており、まるでニシキヘビみたいだった。
実は成るが、他の木の股に落ちたのだけが芽が出る(寄生する)。地面に落ちたのは成長しないようである。



御厨人窟(みくろど)は弘法大師が悟りを開いた洞窟。
洞窟内は落石があって、公開していなかった。

弘法大師が洞窟内から海を見たところ、空と海が一体となっているので「空海」と名付けたと言う。



バスは高知県をほぼ走り切り、四国の約三分の二を制覇した。
大体の四国の大きさが分かって来た。約55分走って、徳島に入って「ホテルリビエラ」11時55分着。

ここで「ハヤシライス」の昼食。本当に「あわおどり」入りのカレーである。
まさか「阿波踊り」ではあるまい。「阿波尾鳥」である。美味であった。



ここは薬王寺の仁王門。第23霊場で厄除けの寺である。

石段に1円玉を置いて行くと厄除けになると言われ、あるオジサンは各段に置いていたが、私は1枚だけ置いてみた。



薬王寺を13時40分に出て、阿南市を通る。
阿南市には日亜化学工業がある。そこで中村修二(1954年~)は青色発光ダイオードを発明・開発。青色LED製品化に貢献し、2014年ノーベル物理学賞を受賞した。

やがて鳴門市に15時10分着く。

鳴門市には第一次世界大戦中に板東俘虜(ふりょ)収容所があり、捕虜となったドイツ兵を松江豊寿は、人道的な扱いをしたとガイドの説明があり、収容所の場所も示された。

それを題材とした映画「バルトの楽園」で松江豊寿を松平健が演じ、捕虜による楽団がベートーベン作曲「交響曲第9番 歓喜の歌」を日本で初めて演奏した事は有名である。
(旅行後にDVDを借りて来た)大変勉強になった旅だった。

ここは「鳴門の渦潮」が見える場所。展望の公園までは大型バスでは行けない為、マイクロバスに乗り換えた。「若山商店」専用で、着くと名物おばちゃんの大きな声で、渦潮の説明があり、「今は渦潮見えないから、後はしっかり籠を持ってお土産を買ってくれ」と大笑い。

大鳴門橋を上に見て、向こうは淡路島である。

徳島県は作曲家、三木稔を生んだ。NHK大河ドラマ「鳴門秘帖」の音楽担当は三木稔で、テーマ曲は「阿波踊り」を使用していた。

その記念碑が道路脇にあった。



バスは高速道路に乗り香川県に入る。これで四国全県制覇である。

善通寺で高速を降り、「こんぴら温泉郷」に入る。
ホテルは「琴参閣」で、目の前が象頭山「金刀比羅宮」の近くである。17時10分着。

温泉はスーパー銭湯みたいに、ジャグジー・薬草湯・どくだみ湯・露天風呂があった。

夕食は18時30分からで、全日ほとんどは食前酒が出た。



ここは親切にメニューが印刷されていた。
先ずは中生で。メインは牛しゃぶで茶碗蒸しも良い。鯛釜飯が出た上に讃岐うどんが出てもう腹が一杯で、何を残すか考えたところ、讃岐うどんだった。ああもったいない。

温泉が良かっただけに残念だったのは、宿泊した部屋である。
とにかく狭く、その上机の上に照明器具が無いので暗く、メモを書くにも不便であった。

テレビも高さ10センチ位の小さな箱の上にあって不安定だったし、向きを変えるのに持ち上げたり、トイレも目の前のドアがぶつかる位だった。