北原鈴淳 琴古流尺八教室 in八王子

尺八の音色は心を癒してくれます。

演奏すれば「無」の境地になれ、演奏が終われば満足感、充実感が得られます。

小澤征爾が死去

2024-02-19 14:07:56 | 音楽・日々是尺八

2月6日、マエストロ小澤征爾が心不全のため88歳で亡くなった。(1935~2024年)
経歴などは新聞などで詳細に記されているので割愛したい。

小澤征爾は若い頃から有名で世界で活躍していた。
「ボクの音楽武者修行」の発行は昭和56(1981)年となっている。という事は私が43歳以降に購入した本だ。表紙のイラストが本人にそっくりである。

文章は神戸から貨物船に乗って出発で始まり、2カ月かけてフランスのマルセーユに着いた。貨物船に乗った客は小澤征爾1人で、ラビットスクーターと一緒だった。
その後のブザンソン国際指揮者コンクールで優勝してから、活躍が始まる。

「音楽」は作曲家の武満徹との対談だ。
武満徹は尺八と琵琶を使った映画音楽の「怪談」や「エクリプス」で評判を浴び、やがて1967年ニューヨークフィルの創立125周年記念に委嘱されて「ノヴェンバー・ステップス」を作曲した。この曲は尺八を横山勝也が、琵琶は鶴田錦史とニューヨークフィルで邦楽器がオーケストラと対峙した。指揮は小澤征爾だった。

「ノヴェンバー・ステップス」の日本初演は上野の文化会館大ホールで行われた。
この時、私は聞きに行っていたのだ。後にも先にも小澤征爾を見たのはこの時だけだった。この曲が終わって拍手が鳴り終わらない内に小澤征爾は舞台を降り、客席に入って来た。皆、何事かと見守っていたら、たまたま会場にいた「PPMピーターポール&マリー」のマリーの手を取り、たたずんでキスをしていた。これにはびっくりしたものだ。

尺八の横山勝也はその後、世界中で引っ張りだこになり忙しかった。インタビューでは、「この曲を演奏すると一週間身体がガタガタする」と言っていた。それがたたったのか尺八3本会(青木鈴慕、山本邦山、横山勝也)のメンバーの中では早くに亡くなった。

横山先生が世界を飛び回っている頃、尺八3本会の演奏会で、杵屋正邦作曲「第三風動」の初演が近づいており、青木鈴慕先生に言われ、山本邦山宅で私が代わりに「初演」(練習)した。

「ノヴェンバー・ステップス」は中学の鑑賞曲で娘の授業で聞いたらしい。しかし難しいと感じた音楽教師は途中で止めたらしい。

奇しくも亡くなった6日には、サントリーホールで「ノヴェンバー・ステップス」が演奏されていたそうだ。尺八は今を時めく藤原道山。

小澤征爾のレコードやCDが自宅にある。ベートーヴェン交響曲第九は良く聞いた。「インタビュー」のレコードは家内のものだ。

左上は2002年のウィーンフィルの新年演奏会のCDである。もちろん当時はテレビで直接見たのだが、感激してCDを購入したのだ。

恒例のアンコールは「ラデッキーマーチ」で、P(強弱記号のピアノ)はタクト(この時は指揮棒は無い)を小さく振り、f(フォルテ)では大きく振るが、スイングするような指揮者振りが忘れられない。

小澤征爾の死を悼み、ニューヨークフィルでは彼が好んだ「G線上のアリア」を演奏したそうだ。この曲は尺八でも演奏したことがある。早速演奏してみたい。

期せずして2月18日、NHKEテレの「クラシック音楽館」で「追悼・・・マエストロ小澤征爾」があった。2002年、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートの再放送だ。譜面なしで指揮棒も無く、両手と顔で表情たっぷりに指揮をしていた。舞台袖に映っていた観客の着物美人が気になった。


能登半島旅行 輪島の思い出

2024-02-08 17:24:50 | 旅行

2024年元日に起きた、能登半島の地震で被災地は大変である。もう1か月以上経つ。
私も自宅でただならぬ地震を感じ、東日本大震災を思い出した。長く揺れたのでこれ以上揺れないでくれと祈っていた。

輪島と言うと必ず輪島塗のおちょこを思い出す。個人旅行で思い切って買ったものだ。
毎年メモ帳を購入して、旅行などこまめにしるしていたはずだ。最近の記憶は段々曖昧になってきて、いつだったか思い出せない。
きちんと整理をして保存しているのを引っ張り出してみた。多分20年程前かと2000年前後から調べたら、もっと前の1987(昭和62)年5月に見つけた。もう37年前である。
こまめに旅行記を書いた旅行もあるのだが、この輪島行きは簡単なメモだった。だから記憶が曖昧なところがある。

 

この時の旅行は金沢、輪島、津幡、富山、飛騨高山のルートである。
メモ帳によると5月26日、当時の自宅の大和市つきみ野から新横浜に行き、新幹線に乗った。米原で乗り換えて金沢には12時23分に着いた。
兼六園、金沢城石川門、中央公園、武家屋敷、香林坊の109、大和百貨店を見学。これらはバス一日乗車券で対応した。

香林坊109には、実は知り合いのMさんが店長をしており、いきなり訪ねてみた。
快く迎えてくれて店長室に伺った。「景気はどうですか?」の質問には「厳しいですね」と答えられた。調べたところ2016年には東急スクエアと名称変更したそうだ。

この時の香林坊の印象が凄く、北島三郎の「加賀の女(ひと)」の歌詞に出て来る、「〽君と出逢った 香林坊の酒場に赤い-ーー」(星野哲郎作詞)を気に入ってカラオケで何回か歌った。点数を出してみたら結構良かった。

能登半島と言えば石川さゆりのズバリ「能登半島」の歌だ。先日ちょうどNHK「うたコン」で彼女が歌った「〽夜明け間近 北の海は波も荒くーーー春から秋への能登半島」(阿久悠作詞)は、さゆりの歌が上手く、曲も良いのでヒットした。最初から高音のサビで始まる。

翌27日は金沢を9時56分に出てから輪島には12時35分に着いた。
漆器会館、輪島屋本店を見学。輪島塗の工程が凄いと感心した。漆器工芸店を3軒見て、どこかで上の写真右側の輪島塗おちょこを4000円で買った。1個ですよ。高かったが何しろ中側の竹(笹)に惚れて、「私を買ってくれ」と叫んでいるように思った。笹には金が点々とちりばめてある。心ときめき買ったのだ。以後気に入って大事にして晩酌を楽しみにしている。

5月28日は8時に朝食後、ホテルからマイクロバスで輪島朝市に9時15分着。
道端にはおばあさんが多く、それなりに活況だった。サザエのつぼ焼きを300円で購入してすぐ食べる。
お土産にフグ一夜干しを1000円で、ムシアワビを3000円で購入。この時のフグ一夜干しがとても旨く、最近の京王百貨店の物産展で探すのだが、同じ物はなかなか見つからない。

その輪島朝市の場所が地震と火事で全滅と知り、唖然とした。

10時27分、輪島を出て、津幡、富山、高山に入った。この時のメモによると津幡駅での乗り換えに10分。富山駅で高山本線に乗り換え時間はたったの4分だった。この乗り換えは一生忘れない。何しろ初めての地で、乗り換えの電車が急には見つけられなかったのだ。降りたホームの先(西3番線)の方にあり、やっと見つけて走りに走ってやっと間に合った。

飛騨高山には15時43分に着いた。あらかじめ打ち合わせをしていた鈴慕会所属のY氏と18時に合流して、箏の先生が待つ集会場に行き合奏練習をした。曲目は「萩の露」「残月」「千鳥の曲」だった。
一緒にY氏と飲めるかなと思ったが都合により、そこで解散した。私1人で居酒屋で一杯やった。

翌日は高山見学で、やはり朝市を見る。輪島の朝市よりこじんまりしていた。サイクリングで飛騨民芸館、高山陣屋などを見学した。

高山を13時26分に出たが、高山本線はまるで飯田線のように曲がりくねって、飛騨川に沿って下って行った。岐阜で乗り換え、名古屋には16時24分着。

そこからは新幹線で新横浜に向った。

時は過ぎ、2016(平成28)年4月、金沢方面のツアー旅行をした。今度は2人である。

ルートは八王子から特急あずさで松本行き。
松本からは観光バス(アルピコ)で高山へ。白川郷を見学。山中温泉のたわらやに泊。翌日は越前大野、七間朝市、白山平泉寺、永平寺を見学。永平寺は平面でなく、階段状になった造りだったのは驚きだった。なんとなく修行僧の感じにもなって来た。ここでは「屋根瓦の修理に寄付をお願い」とあったので、1口寄付をした。お礼としてお経の「修證義」と数珠をくれた。「修證義」の中には「開経偈」や「魔訶般若波羅蜜多心経」などが入っていて、時々YouTubuで聞きながら唱えている。偶然、我が実家は「開経偈」をお爺さんが毎朝、唱えていたので覚えてしまった。

数珠をもらったのがうれしく、実家の法事で使用した。ところがどこかで無くしてしまい見つからない。

門前町から一乗谷朝倉氏の遺跡を見て再び山中温泉のたわらや。この温泉は熱かった。

翌日は自殺の名所東尋坊。松本清張の「ゼロの焦点」を思い出す。この日はあいにくの土砂降り。金沢に入って近江町市場の見学で昼食。旅行会社勤務の友人に聞いていた「市場寿司」に入る。「のどぐろセット」でこれは旨かった。さらに「東出コーヒー」も紹介された店で、雰囲気の良い喫茶店だった。

そして「ひがし茶屋街」の見学。当時は各旅行先でおちょこを買っていた。金沢と言ったら金箔だ。そこで見つけたのが、写真左側のおちょこだ。中は金箔の九谷焼。まぶしいくらいだ。

長町武家屋敷跡から兼六園を見学。有名な琴柱(ことじ)の灯篭まで行ったが、この日は最悪の土砂降りと寒さで見学どころではなかった。足早にバスに戻ったのは残念だった。その後はバスで富山駅まで行き、富山駅からは北陸新幹線で東京まで戻った。

まもなく北陸新幹線は福井県敦賀まで延伸、開業する。


大関 琴ノ若誕生

2024-02-05 11:54:18 | スポーツ・健康

大相撲初場所が終わり、13勝2敗の琴ノ若と同じ照ノ富士が優勝決定戦になり、照ノ富士が優勝した。
琴ノ若は3場所で33勝となり、大関に昇進した。祖父は琴桜であり、5月場所で名を継ぐ予定らしい。
先場所までは相撲が遅く、逆転で勝っていたので印象は悪かった。身体は大きく、懐は深い。つっぱって良し、組んで良しとなれば良いが、照ノ富士との対戦ではまだまだ相撲が甘い。横綱には負けたが、初場所はスピードが出て来た。「勝」の安定感も出て来た。さらに稽古を積み、立派な大関になってもらいたい。

以前、旅行でバスから横綱「琴桜」の銅像を鳥取県倉吉市で通りすがりにチラッと見た。昔テレビで見た琴桜は猪突猛進の相撲であった。その孫が琴桜と名乗るのは、感慨ひとしおである。

余談だが横綱大鵬の孫、王鵬も期待されるが押してダメらならすぐに引くくせが治らない。

昔話になるが大相撲関連の思い出を書いてみよう。
大相撲には地方巡業がある。夏休みに飯田市に来たことがあった。私が小学生か中学生だったかは思い出せない。調べても出てこなかった。とにかく場所は飯田市営今宮球場で初っ切りなどを見た思い出がある。前頭筆頭が青ノ里だった。
栃錦や若乃花が横綱の頃から、ラジオにかじりついて聞いた。やがて大鵬、柏戸が活躍。解説者は天竜三郎で、中学の同級生があの独特のハスキー声でマネをしていたのを思い出す。

この写真は2003(平成15)年5月に開店した、和食と地酒の店「方屋」のお知らせである。
縁あって開店時に呼ばれたのである。店主は元栃桜で写真右側にある通り、相撲甚句の名手で中にCDが入っている。左側は開店のお知らせと方屋のいわれが書いてある。土俵は前後左右を東西南北で表し、これを方(ほう)と言い、その中で勝負をする家なれば「方屋」と言う。

栃桜は春日野部屋に所属していた。つまり栃錦が親方で、最高位は東十両4枚目だった。横綱になった北の湖を若い頃、随分可愛がったそうだ。可愛がるとはつまり・・・・。

方屋の開店披露にはその北の湖(当時は理事長)、北桜、金親(のちの宮城野親方)も参加していた。栃桜さんから「尺八」を持参するように言われていたので、ある程度食事が終わったところで、演奏する事になった。
残念ながら相撲の歌謡曲は無かったので、関連して柔道の「柔」を演奏した。
そうこうしているうちに、北の湖は帰られた。その直後に綾小路きみまろが現れたのである。若い頃からの付き合いらしい。

私は綾小路きみまろはもう売れて有名になっていたので、ツーショットをお願いした。その後同期会でその写真を見せたが知っている人は少なかった。だがそれから段々売れていったので、その後はかなりテレビで見るようになった。

宴会時に隣にいた元力士は忍山(しのぶやま)で、すっかり意気投合した。調子の良い人で時々私の店に顔を出した。
調べてみると序二段で止めたらしい。

「方屋」ではかなりの友人、知人を連れて行った。ちゃんこ鍋と地酒「田酒」が美味かった。
ランチもちゃんこ鍋定食やサバ定食もあり、良く利用した。カウンターで食事中、当時NHKの葛西アナウンサーが隣り合わせになったことがある。
葛西アナウンサーには私がNHKFM「邦楽のひととき」で「明治松竹梅」に出演の時の解説で私の名前もアナウンスしてくれたのである。そこで意を決して、そんな話をしたのであるが、多くの番組に出演の葛西さんが覚えているはずがない。
又、「沢井忠夫さんが亡くなりなしたね」と話をした。

その後方屋は栃桜さんが病気になり、閉店してしまった。又、何年か前に亡くなった。私より1歳上だった。なかなか厳しい人で、相手の話はまともに聞いてくれなかった。

写真は2014(平成26)年1月場所のカタログである。ちょうど10年前だ。
私が唯一両国国技館に大相撲を見に行った証拠品だ。これは知り合いから升席の切符が入ったと誘われたからである。

知らせを受けた時間が遅く、国技館に駆け付けたのは中入りが始まっていた。星取表を見ると9日目になっている。
お茶屋さんに誘導されて、義母、妻、知り合いと4人はお土産を持ち升席に座った。館内は初めての雰囲気で圧倒された。
嬉しい事にビールは飲み放題で、焼き鳥に弁当が付いた。遠藤など人気力士に声がかかる。
中入りから打ち止めまで約2時間だから、飲む方、食べる方で忙しかった。ビールは飲み放題と聞いてスケベ根性が沸き、何本もお代わりをした。
星取表を見ると横綱は日馬富士(休場)に白鵬。大関は稀勢の里に鶴竜、琴奨菊だった。白鵬がただ一人全勝で来ていた。
今現在も活躍している力士は妙義龍、玉鷲、宝富士、高安、遠藤、などだ。
遠藤は今も同じくらいの番付だが、当時の勢いからすればもう大関になっていても良かったのに。残念。
ちなみにこの時、西十両筆頭は今の横綱、照ノ富士である。

いつもテレビで見ていると力士は大きいが、升席は1階席のちょうど真ん中辺りだったので、ちょっと遠かった。
ビール好きの義母はどうも飲み過ぎたらしく、立ち上がるのがやっとだった。
私も観戦より、食べる方が夢中で、相撲内容のことをほとんど覚えていない。


映画 誰が為に花は咲く

2024-02-01 15:41:05 | 映画

1月28日は映画を見に吉祥寺まで出掛けた。映画館は初めて行くパルコ地下2階にある「アップリンク」だ。

有名な洋画「誰が為に鐘は鳴る」ではなく「誰が為に花は咲く」である。
これは親類の人がエキストラで出演すると言うので見に行ったのだ。100人前後の会場なので事前予約しておいた。結果的に満席だったので良かった。

午後1時45分からなので早めに行って昼食をと考えた。12時前だったがパルコ8階の「スシロー」は50分待ちの表示で諦めて、日曜日だからどこも混んでいると判断して、東急百貨店に向った。

やはり寿司が食べたいと8階の「旭寿司」に入った。結構な値段だった。
映画の開演まで充分時間があったので吉祥寺を見学する事にした。
家内が昔住んでいた場所の見学をしたいと言い出し、南口から10分程度歩いた。現地は建物は無かったが場所は確定出来た。家内は約50年振りに訪れたと言う。

私は吉祥寺には何回か来たことがある。
飯田市のミュージカル「鬼っていったいなんだろう」が演目で、和楽器を使ったミュージカルだった。
二十絃箏を知り合いの先生が演奏すると言うので出かけた。皆さんいい声で「鬼っていったいなんだろう」と何回も歌うのでしっかり歌を覚えてしまった。

ある時は、大学時代の三曲研究部の同僚が吉祥寺でラーメン屋を営んでいると情報を得て、訪れた。
新宿寄りのガード下にその店はあり、旨かった。本人はいなかったが、その後別の場所に移転したと聞いたが、どこだかは分からない。

私が50年程前に尺八を教えたYさんが歌曲を習っている先生が吉祥寺におり、音楽仲間たちが集まると言うので誘われた。
国立音大出のMさん宅に10人以上集まっていた。皆さん持ち寄りの酒やつまみも出ていた。
部屋にはグランドピアノが2台もあり、「オペラ」「バイオリン」「歌曲」の出し物があった。
私はYさんに促されて尺八を演奏した。多分、北島三郎の「仁義」だったと思う。尺八の難しさも話した。

さて本論の「誰が為に花は咲く」は監督・脚本は藤原知之、主演は女優湯川ひなである。

四年前に小学生を殺害し逃亡する佐久間秀明を父に持つ椿(湯川)。椿には常に殺人犯の娘という事実がつきまとう。
事件があったその日からお爺さん(渡辺裕之)に預けられ、中学・高校ではいじめに会う。

椿役の湯川は実に上手かった。泣きながらセリフを話すシーンでは同情する。
奇しくもお爺さん役の渡辺裕之はその出演後に亡くなってしまった。

親類のエキストラは看護師役で、車いすを引いて病院に入るシーンで、ほんの一瞬だった。
終演後、親類とお茶を飲もうと、近くの「コメダ珈琲店」に行くと日曜日の午後とあって行列、「星乃珈琲店」も行列、「ドトールコーヒー」も2階も満席で諦めて解散した。