北原鈴淳 琴古流尺八教室 in八王子

尺八の音色は心を癒してくれます。

演奏すれば「無」の境地になれ、演奏が終われば満足感、充実感が得られます。

寒中休みでスケート

2021-01-26 12:49:00 | スポーツ・健康
私が小学生や中学生の頃には、今頃寒中休みが1週間ほどあった。
信州の冬は寒い。夏休みが少なく、その代わりに寒中休みがあった。今では無いようだ。

夏休みはお盆が過ぎるともうすぐに2学期が始まるという感覚で、9月1日のNHKニュースで「今日から新学期」を見ると違和感を覚えた。

寒中休みで思い出すのはスケートである。我が家の狭い庭でも、雪が降った時に長靴で雪を踏みしめ固めて水をまき、朝には氷にして滑った。たかが2~3メートルだが、練習にはなったようだ。

小学校の中庭も同じようにスケート場を、先生たちが作ってくれた。
当時は下駄スケートで、足袋に紐をきつく結びつけるのだが、痛いしこの上なく足が冷たい。

中学の頃には皮靴のスピードスケートを買ってくれて、やっとスピードが出るようになり、市内の堤、松川プール、沢城湖、七久保にあった仙人塚、そして電車に乗り、諏訪の諏訪湖、白樺湖、蓼ノ海まで父親に連れられて兄弟も一緒に滑った。

市内の堤には歩いて行けたが、沢城湖はバス、七久保は駅までは電車でそこからは歩いて行った。一度は妹もつれて七久保の親戚に泊まり、いとこも一緒に滑ったが、やはり地元のいとこの方が早くうまかった。

諏訪湖に行くには電車で2時間はかかる。早朝父親と共に諏訪湖に向かったが、広いとは言えスケート場は極一部だ。
しかし、ロケーションは良い。

白樺湖や蓼ノ海へ行くにはさらに40分位かけてバスで登るから大変だ。
蓼ノ海は国体でも使用されたがとにかく氷が良い。分厚い氷でいわゆる油氷と言って、ツルツルでよく滑る。体重のあるプロならいいが素人だと刃が立たないくらいだ。

結局、蓼ノ海には諏訪で一泊して行った。その時は祖父も一緒に行ったのだが、祖父は着物姿で管理小屋から寒そうに見ているだけだった。

長じて大学に入ってからは長野県人の凄さを都会の人に見せつけた。
大学の三曲研究部で読売ランドに行った時に、400メートルを約1分で滑った。この時が私の人生で一番早かっただろう。(ちなみに現在日本男子の500メートル記録は33秒台だ)

会社に入って部内の旅行で「小田急ファミリーランド」に行った時は「賭け」までやると言われたが私が降りてスピードを競ったが、結局私が一番だった。

都心では子供達も連れて渋谷のオリンピックプール、後楽園、読売ランド、向ケ丘遊園、新横浜、二子玉川園、相模原市の「銀河アリーナ」、子供の国などに行き、滑り方を教えても来た。

ただ、都心のスケート場は狭いのでロングのスピード靴は無く、ホッケー用だった。それが私には不満であった。

滑っていると初心者が長いコートをひらひらさせて滑っていると、スピードに乗った私は前が見通せなく、いつもヒヤッとした。
周りのスピードを見ながら滑って行くので、人込みをうまくすり抜けて行くのがうまくなった。

子供の国は何回も行ったが、結構小学生がクラスごとに来ることも度々あり、カッコつけて手を後ろに組んで滑っていると「カッコいい」と聞こえてきた。十分満足した。

子供が小学生の頃だった。二子玉川園にもスケート場があるのを見つけて家族4人で行った時の事、私は例によってスピードを上げてカッコよく滑っているつもりだった。

そして止まる時は制動をかけ斜めに止まるのが普通だったが、そのまま壁に激突した。
その時両手と胸で受けたので、胸と両手にかなりの衝撃を受けた。

結局、胸と両手を打撲して、医者に通う事になった。胸苦しいし手首が痛い。

時々手に重いものを持ったりするときは、その後遺症が出るのかもしれない。手のひらの付け根に痛みが出る。

バカな事をしたもんだ。後悔先に立たず。





緊急事態宣言と営業時間短縮

2021-01-13 14:51:00 | 随想
1月7日に政府から緊急事態宣言がなされ、百貨店、スーパー、飲食店など軒並み営業時間短縮に追い込まれた。

NHKテレビを見ていると、画面の上部に各百貨店などの営業時間が表示され、ほとんどの店が応じている。

振り返れば、私が会社に入社した時のスーパーの営業時間は午前10時から午後6時30分であったから、まさに昔に戻ったようだ。

当時のT百貨店の営業時間は10時から6時で、毎週定休日があった。

私のスーパーはT百貨店の子会社で勤務時間は9時45分から6時45分までで、当然定休日は毎週あった。

事務員だったので、夏ごろには未だ明るいうちに退社出来て、上司も独身だったので週3回くらい近くの居酒屋で飲んでいた。

その後は経済もどんどん発達して、だんだん営業時間は長引き、定休日もほとんど無くなり、社員はシフトで休みを決めていった。

そんな訳でテレビの画面を見て、懐かしさで当時を思い出した。
まさかこういう時代になるとは、予想だにしなかった。

昨年から続くコロナ禍で、飲食店などの閉店が続いている。

おさらい会などの後、門下生をよく連れて行っためじろ台駅前の「バーミアン」が1月11日に閉店した。誠に残念である。

「バーミヤン」や「ガスト」「夢庵」「藍屋」などは「すかいらーくグループ」である。

以前勤めていた会社は、まだ「スカイラーク」という店舗がある時に、テーブルや椅子を納品しており、最盛期は次から次へと出店で売り上げは凄かった。もう40年ほど前の話である。

テレビを見ていたら知っている店が出た。

八王子の高尾から陵南方面、甲州街道沿いにある「魚心亭(うおしんてい)」である。
大将がコロナ禍の中、海鮮丼にこれでもかと丼からはみ出すほどの大盛りの刺身を乗せていた。

私は何回か行っているのだが、最初に入った時の注文が「まかない丼」だった。注文に対して大将が「うまかないけどいいか?」と聞かれてびっくりした。

どうも名物大将らしく、次に行った時は「うまかない丼下さい」と言ってみた。笑われた。イやな客だね私は。

今頃になるといつも思い出すのは、昭和47年1月の浅草国際劇場での「北島三郎ショウ」へ出演した事だ。

調べたところ1月14日から1月23日までの10日間で、平日は1日2回公演、土日は1日3回公演とハードだった。従って49年前の今頃(1月20日現在)は公演中だった訳だ。大入り袋にはハッキリ1月23日千秋楽の印刷がある。全公演満席の大人気だった。

もう開演時間は何時に始まったか思い出せないが、昼休みには仲見世に通って昼食をとった。
ある飲食店に入った時「北島三郎ショウ」を見た観客らしい家族がおり、つい声をかけてしまった。「今の北島三郎ショウの尺八を吹いたのは私です。いかがでしたか?」と。
今考えるとアピール性が強かったなと思う。

その頃の仲見世の混雑状況は凄かった。昼食を終えてかろうじて次の公演に間に合う程だった。
ステージでは紋付き袴の着物姿なので着替えが必要で、支度も忙しい。

今は閑散とした浅草の状況をテレビで見るだけだ。