高校の同窓生で何人尺八をしているか興味を持っていた。
一学年下の山口五郎門下の宮島源盟は以前から知っていた。
私が大学生の頃であったが、駒瀬竹子という高齢の箏の先生と知り合い、おさらい会に賛助出演した事があった。
その時、尺八の中川青童と宮島氏の父親(浩童)を知った事から、様々な交流があった。
中川氏には、ある時の正月に市田のご自宅に呼ばれた。
市田は市田柿で有名な場所で、当時は天竜下りの乗船場があった。
余談だが、天竜下りの船会社は2社あり、そのうちの一社に我が家の2階を貸していた。
ごく普通の民家だったので、和室のふすまで仕切られたままであった。何人か来られてガイドさんの練習をしており、私達の家族は皆、自然にガイド案内を覚えた。
「天竜の流れが皆さん方をお待ちしていたかのようでございます。これより天竜峡まで1時間30分。船頭は誰々、ガイドは私、誰々でございます。」と言う感じである。次に「伊那節」や「天竜下れば」の歌の練習もしていた。
従業員のおじさんがポマードをたっぷりつけており、座椅子に座ってふすまに寄りかかるので、母は「ふすまが汚れて困る」とぼやいていた。2~3年で出て行ったようだ。
話を戻すと、中川青童は爺さんだったが感心したのは、自分で作成した稽古帳があり、例えば曲目を横に並べて、縦に練習した回数の正マークをつけておられた。「八重衣」等、かなり正マークが並んでいた。
誠に、こまめである。
その時、三絃の井上道子先生と合奏した息子さん(当時30歳前後の中川雄之介)のカセットテープ「残月」をいただいて、何回も聞いた。
その雄之介さん(私より10歳年上だった)本人に私は、約45年後に初めてお会いしたのである。
まるで、幻のような出来事だった。
あれから何年経ったであろうか。我が母校に邦楽班(ほとんど箏)が出来て、長野県大会に毎年のように優勝するほど力をつけた。そして今年まで16年連続で、長野県代表として全国大会に出場。
優秀賞は数多く、2010(平成22)年には文化庁長官賞、そして2013(平成25)年には文部科学大臣賞を受賞した。実質の全国大会優勝である。
後日、東京国立劇場大ホールで披露演奏会があり、聞きに行った。肥後一郎作曲「絃歌」は一糸乱れぬ、素晴らしい演奏だった。
終了して楽屋に、指導者で知り合いの大平睦先生を訪ねたところ、同じ同窓生の尺八竹友会所属の石川優輔氏を偶然知った。
話を聞けば、石川氏は中川雄之介氏と同期であると分かり、さらに我が母校に貴重な箏5面を寄贈した竹村孝生氏の存在も地元紙で知り、これで首都圏に私も入れて4人いる事が分かった。
そこで示し合わせて4人で、新宿の居酒屋で飲んだのである。
点と点が結ばれて、線で結ばれた瞬間である。線も丸くなり円となり、それよりも縁を感じたひと時だった。
その時、中川氏に父親の青童氏からいただいた、くだんのカセットテープ「残月」のいわれを説明してお返し(?)した。
竹村孝生氏は柳内調風の弟子で86歳でありながらお元気で、年賀状には「無聊(ぶりょう)をかこっている」と書かれていた。
辞書で知らべてみたところ「退屈で不平・不満がある」と言う意味だった。
そこで竹村氏とお付き合いしだしたが、いつも焼酎はボトルを注文し、お湯割りで軽く5~6杯は空ける程強い。
「100歳まで生きようと思う」と誠にお元気な人であるが、どうやら尺八の演奏はリタイヤしたらしい。
別の尺八竹友会の知り合いによると、さらにもう一人同窓の尺八吹きが海外にいるらしいから、都合6人と言うところだろうか。