北原鈴淳 琴古流尺八教室 in八王子

尺八の音色は心を癒してくれます。

演奏すれば「無」の境地になれ、演奏が終われば満足感、充実感が得られます。

箏曲家 衛藤公雄の生涯

2024-03-18 15:15:26 | 音楽・日々是尺八

図書館で谷口和巳著「奇蹟の爪音」を借りてきた。サブタイトルは「アメリカが熱狂した全盲の箏曲家 衛藤公雄の生涯」とある。

あまりにもすごい箏曲家だったので年譜から辿ってみたい。

1924(大正13)年9月、大分県で6番目の長男として生まれる。
5歳で失明。大阪に転居する。
1933年、地元の先生に箏入門し、1934年東京中野区に転居。10歳で宮城道雄に入門。
1937年、13歳で「希望の光」を作曲。
1938年、14歳で教授免許。これは早い。才能があったのだ。
1946年、22歳で弟子の美恵子と結婚。GHQ進駐軍でジャズを演奏。
1947年、23歳、長男弘幸誕生(後にビクター勤務~衛藤会会主)
姉、寿美子と大塩保二が結婚。この大塩寿美子と私は演奏会で共演したことがある。

この本を読むまで大塩寿美子が衛藤公雄の姉だったとは知らなかった。
私が23歳頃、青木鈴慕先生に言われて人間国宝の「中田博之作品発表会」に尺八で賛助出演したことがある。五線譜が読めるという触れ込みで、「祖師谷組曲」を青木鈴慕先生が第一尺八、私が第二尺八を演奏した。この時の十七絃を大塩寿美子が演奏したのだった。
中田博之宅で練習した後は、青木先生の車で大塩寿美子先生とも送っていただいた。大塩先生はとても気さくな人だった。

1953年、29歳の6月、3カ月の予定で夫婦でハワイに出発。長男は祖父母に預けられた。このため長男は衛藤夫婦と距離感が出ることになった。
9月、ロスアンゼルスでの演奏会のため米本土に渡り、そのまま暮らす。ハリウッドで箏教室を開く。
1956年、衛藤公雄32歳時に宮城道雄死去。

1958年、34歳でアメリカの永住権を獲得。
1960年、ニューヨークに転居。
1961年10月、37歳「カーネギーホール」で箏リサイタル。日本人として「カーネギーホール」での演奏はバイオリンの江藤俊哉に次いで二番目であった。
1962年11月、38歳「リンカーンセンターホール」で東洋人初リサイタル。

1964(昭和39)年は東京オリンピック。
1965年4月、41歳。一家(次男、三男も生まれる)で帰国。7月日本武道館で演奏会。この日本武道館での演奏会は衛藤が初めてであり、ビートルズよりも先んじていたのである。この時の演奏会はレオポルド・ストコフスキー指揮、日本フィルハーモニー交響楽団特別演奏会だった。
ベートーヴェン作曲「運命」やカウエル作曲「箏と管弦楽のための協奏曲」は日本初演だった。この時衛藤は18絃の箏を使用した。10月単独渡米。

1967年、ニューヨーク・リンカーンセンターで武満徹作曲「ノヴェンバーステップス」が小澤征爾指揮で初演された。演奏は尺八横山勝也、琵琶鶴田錦史とニューヨークフィルである。これを聞いた衛藤は「公雄の美しく流麗な旋律とはまったく対極にある演奏方法であり、曲自体も難解を極め、公雄にはとても理解しがたい音楽であった」と言っている。

1967年3月、家族の説得により帰国。家族5人(子供3人)田園調布に暮らす。3男は太鼓奏者のレナード衛藤。8月、国立劇場大ホールで帰朝記念演奏会。

1968年3月、44歳第二回定期演奏会。江藤俊哉のバイオリンとの合奏で、「春の海」衛藤作曲「勝利への曲」と「田園幻想曲」。江藤は3歳年下だが24歳の時「カーネギーホール」でリサイタルを開いている天才だ。このダブル「エトウ」の演奏会は大成功だった。

1969年2月、45歳。第三回定期演奏会。賛助はその頃は売れっ子になっていた沢井忠夫との共演だった。衛藤作曲「雪の幻想」で沢井は低温を弾いた。
沢井は宮城道雄の「手事」を演奏した時に感じたのは「一音の生命力とは日本音楽の根源」と気づき、「一音一音丁寧に弾く宮城の弟子であった公雄の箏をだから沢井は敬愛していた」ようだ。

しかし、沢井が20代後半で公雄が43歳の時、沢井の曲を聴き「もはや自分の音楽は古いのでないか」と思っていた。

1971年47歳、幸明に改名。
1974年50歳、秋、極楽寺に転居。
1984年1月、60歳南仏ニース「日本伝統文化フェァ」に参加。幸明から再び公雄に。

1985年8月、61歳「45周年記念演奏会」で衛藤作曲「希望の曲」を二代青木鈴慕(59歳)と演奏。著者によれば「琴古流尺八の名跡二代目青木鈴慕の吹く尺八の音と、公雄の箏の音がみごとなハーモニーを織り成した」とある。プログラムの写真が本に記載されていた。
私は遠い記憶の中で衛藤公雄の箏を聞いた気がする。とにかく綺麗な音の印象があった。

1986年3月、62歳の時、妻美恵子死去。全盛期には300人のお弟子さんがいたそうである。
千葉津田沼の長男宅に転居。
1987年6月、63歳渋谷「ジャンジャン」で「再出発コンサート」をしたが、当時人気の津軽三味線の「高橋竹山」ほどには人気が出なかったようだ。
1990年4月、66歳長男の家庭に遠慮して西国分寺に転居。駅前で便利が良かったらしい。盲目で一人暮らしだからお弟子さんや大塩寿美子が面倒を見た。
1995年3月、71歳脳内出血で倒れ、左半身不随となり、車いす生活。
2010年10月、86歳公雄を面倒見ていた姉、大塩寿美子の死去により津田沼の長男宅。
2012年12月、88歳肺炎で死去。

全盲でありながらのこの活躍は胸を打つ。

期せずして沢井忠夫の生前の演奏姿が先日の「題名のない音楽会」で放映された。
箏を演奏しながらプレスリーの曲を英語で「ラブミーテンダー」と歌ったのである。
沢井も又、東京芸術大学で宮城道雄に箏曲を習っていた。衛藤といわば同門である。
売れっ子時には「ネスカフェゴールドブレンド」のCMにたくさんの箏群と演奏して人気となり、かなりのお弟子さんが来たそうである。しかし稽古は厳しく、調絃が取れない人はお弟子にされなかったそうだ。多くの箏や尺八との合奏曲を作曲して、箏のコンクールでは今も盛んに演奏される程人気である。
1997年、くも膜下出血で死去。59歳で早世したのが残念だ。

沢井先生とは、私が大学4年生の頃長野県小諸での合宿でご一緒(三絃太田里子、箏沢井忠夫、尺八青木鈴慕)したし、卒業してからご自宅に伺って「バッハの曲」の楽譜をいただいた。
私の尺八リサイタル時にはご招待のお礼として「足形のネクタイピン」もいただいた。
沢井忠夫作曲に「情景三章」がある。印象に残ったフレーズがあり、私は日本三曲協会の新年会で物まねをしたことがある。もちろん箏演奏ではなく、口でメロディーを歌いながら、箏を弾くしぐさをしたのである。しかし沢井先生は協会に属しておらず、沢井先生が私の物まねを見たことはない。