今日の女王サマ

映画、本、音楽、お出かけ、思ったことなどズラズラ書き連ねています。

再び大戸屋

2005年08月19日 | 食べ物&飲み物
大戸屋のお弁当のことは昨日書きましたが、この店が入っている東京汐留ビルディングは、日本(アジア?)で一番室料が高いといわれている「コンラッド東京」のビルです。

一部屋43000円からになっています。平均5万円ですね。こんな高級ホテルのあるビルのテナントが大戸屋ですか。いや、けして大戸屋が悪いと言っているんじゃないですよ。高いテナント料を払っているんだから会社としてはりっぱなもんです。

でも、イメージ的には、並んで建っている「ホテルヴィラフォンテーヌ汐留」のテナントである方がピタリと収まるような気がするんですけどね。あちらは場所がないのかな。

大戸屋で初めて食事したのは、もう15~6年前の池袋。すんごくゴチャゴチャした定食屋さんで、庶民的な店でした。最近はショッピングモールみたいなキレイなところへ出店していてイメージがだいぶ上がっているけど、頑張っているんですね。

さて、今日のお弁当はどこで買おうかな。


大戸屋のお弁当

2005年08月18日 | 食べ物&飲み物
久しぶりにお弁当の話題。
となりの東京汐留ビルディング2階に大戸屋という定食屋さんがあります。ここはお弁当もあるというので、行ってみました。

私が選んだのは「豚生姜焼き弁当・ごはん少なめ」というやつです。619円。
作ってもらったのは15時の仕事が始まる前。出来上がるのを10分ほど待ちました。
実際に食べたのは18時ちょっと前です。生姜焼きは好きなので、すごーく楽しみにお弁当を開きました。
生姜焼きは3枚。1枚目を食べて「あれ?」と思いました。味がボヤ~ッとしているんです。
ひじきとごぼうサラダみたいなものが付いていましたけど、どれもこれも味がボンヤリで、なんか病人食を食べているみたい。

駅弁として開発された「冷めても味の変わらない崎陽軒」のお弁当と、出来立てを味わう定食屋さんのお弁当では、やはり差が付くんですね。なんかちょっと残念な食事でした。

コーチ・カーター

2005年08月17日 | 映画&本&音楽&TV
はい、今日は水曜日です。今日の映画は『コーチ・カーター』。
高島屋タイムズスクエアのみの単館上映なので、めったに行かない新宿まで出かけてきました。
実話が基になっています。
よくある荒んだ高校に新任のバスケットコーチ、ケン・カーターがやってきます。チームのメンバーはそこそこバスケが出来るけど、授業にはまともに出ないおちこぼればかり。コーチはバスケを続けたいなら契約書にサインをしろと迫り、3つの約束をさせます。(1)一定以上の成績をとること。(2)授業にはすべて出席、しかも一番前の席で。(3)試合の日には上着とネクタイを着用すること。

この中で、勉強の部分だけ約束が守れず、体育館をロックアウト。いくつかの試合を放棄したことで、コーチ解任を言い渡されますが、そのときのセリフがいいです。「こんな若いうちから、契約なんて守らなくてもいいんだと思ってしまったら、まともな大人にならない。私はいいかげん軌道修正をしたいんだ」

図体はデカくても、まだ「ママの手伝いをしなくちゃいけないから帰る」と言ったり、人が撃ち殺されるのを見て激しく動揺し、コーチの胸に飛び込んで泣きじゃくったり、と内面はまだまだ子供なんです。
指導者が正しい指導さえすれば、若い心はまともに育つんですね。メンバーの中の何人かは勉強に身を入れたことで、奨学金をもらって大学へ進んでいます。まだほんの6年前のことです。



ロコ・プリンセス

2005年08月16日 | 映画&本&音楽&TV

 新しいCDを買いました。タイマネ・ガードナーの『ロコ・プリンセス』。
CDジャケットはハワイテイストですが、中に詰まっている曲はオールディーズ、クラシック、J-POP、そしてもちろんハワイアン。さすがにハワイの唄はうまいけど、オールディーズメドレーやサンタナの「哀愁のヨーロッパ」、日本の「涙そうそう」など、ウクレレとは思えぬほどのできばえです。

タイマネはサモア人の母とアメリカ人の父を持つ16歳。5歳で始めたウクレレで6歳のときにコンテストで優勝。その頃からストリートで演奏していたそうですが、プロになろうと思ったのは11歳のときだそうです。

私はハワイ好きで、何度もハワイに行っているうちに、フラ(ダンス)やハワイの曲がすごく好きになりました。フラは、誰もが知っているあのフラダンスが有名ですが、静かな静かなフラもあるんですよ。そういうフラは間近で見ると本当に感激します。心にジワジワと染みてくるんです。ウクレレで奏でられるこのCDの曲も私にしばしの休息を与えてくれそうです。  

                                                 


8月15日

2005年08月15日 | Weblog
終戦記念日です。

私が小さい頃の写真を見てみると『火垂るの墓』の節子のような髪型をしています。モンペに下駄履きです。しかし、私も弟も丸々と太っています。母はパーマをかけて美しく(母の兄弟姉妹はみな美形です)、父は台湾からの引き揚げ者だったので少し苦労の跡が見えます。

父は生まれてから20代前半まで台湾で過ごしました。おじいちゃんが材木商だったんです。家にはセントバーナードとシェパードがいて、使用人もいたそうです。
引き揚げてくる時、5人兄弟の2番目が欠けていただけで、あとは健在。一番上の兄(私には伯父)は最近まで元気でした(もう亡くなりましたが)。

この父や母にさえ、戦争の話はあまり聞いたことがありません。いえ、話そうとしてくれたのに私たちが拒否していたのかもしれませんね。

日本はもうすでに60年戦争をしていません。こんな国は稀なんでしょうか。
世界で戦争を放棄・禁止している国は日本と、コスタリカ、パナマの3国だけなんですって。
見えるところでは私たちもわかるけど、見えないところでも他国は戦争を繰り返しているんですね。

平和ボケと言われても、戦争をしないという心構えは必要です。しかし、いざという時、今の国民に死ぬ気で日本を守ろうという人はどれぐらいいるんでしょう。

あなたは日本を愛していますか?日本という国に誇りを持っていますか?

お題「よく見る夢、見ていた夢は?」

2005年08月14日 | twitter連携企画
もうトラバ練習なんてしなくていいだろ、なんて言わないで参加させて下さい。
子供の頃よく見ていた夢は「逃げるために空を飛ぶ」夢。空を飛ぶことは出来るけど、追ってくる人の頭スレスレという中途半端さ。離婚したあとは、婚家に置いて来た子供の夢をよく見ました。最近は見た夢をよく覚えていませんねぇ。寝たと思ったらもう朝ですから。

レズビアン&ゲイパレード

2005年08月13日 | 家族
きょう、渋谷でレズビアン&ゲイパレードがあったようです。
これは1994年から始まったものでしたが、2002年を最後に開催されていなかったんです。今年、復活したのは運営を担う団体を設置したかららしいですが、それまでは実行委員の負担が重かったんですね。

ヘテロは正常、ゲイは異常なんていう意識は私にはないのですが、自分の叔父がゲイだったのでは?と思ったことがあります。
叔父は父の弟で、会社の同僚だった女性と結婚式を挙げることになった時、小学生だった私と弟は両親と一緒に熊本へ行きました。
叔父は結婚式のあと、すぐに「仕事があるから」と言ってどこかへ行ってしまいました。私は小学4年生でしたけど、結婚初日からそんなの聞いたこともないと思っていましたね。

その後2年ほど経って、当時千葉の勝浦にあった叔父の家で夏休みの1カ月を過ごした時も、叔父は友人が来たからとか言ってよく家を空けていました。アルバムには男性と肩を組んでにこやかに写っている叔父の写真がありました。ある日、浜で知り合ったと言って若い大学生を連れてきたこともありました。早稲田の学生さんでしたが、夏の間ずーっと叔父の家に泊まりこんで私や弟とよく遊んでくれました。

叔父は立派なガタイの大男でしたが、口調が時々ヒステリックになりました。あ、そうそうちょうど「おすぎとピーコ」みたいな喋り方でしたねぇ。

私が大人になって、その頃は杉並に住まいを移していた叔父を訪ねると、いつも叔父はいなくて私のおばあちゃんと叔母だけがいました。おばあちゃんは手作りの和菓子(これがめっちゃウマかった)を作って、孫である私の来訪を喜んでくれましたが、叔母はいつも寂しそうでした。
そのうち、おばあちゃんは熊本の親戚の家に引き取られ、叔母は養女をもらって実家に帰ってしまいました。

今から10年ほど前、叔父が亡くなったとの知らせがありました。勤め先で倒れてそれっきりだったそうです。そのときの様子を聞くと、やはり叔母とはずーっと別居だったようで、私が、叔父はゲイだったんじゃないかなぁと思った瞬間でした。

ゲイでもカミングアウトする人が増えた昨今、少なくとも東京のような都会では「ゲイ?それが何か?」ぐらいにはなっているのではないかと思います。
叔父が生きてきた時代では隠し通すことしかできなかったのでしょうね。昔の人間である私の父など、自分の弟がゲイであったなどとは露ほども疑ったことがないのでしょう。

東京レズビアン&ゲイパレード2005 ⇒ http://www.tlgp.org/index.shtml

大統領の理髪師

2005年08月10日 | 映画&本&音楽&TV
水曜日です。レディースデイですが、本日は名画座へ行って来ました。レディースデイの特典はなしですが、週刊ぴあを持っていったので200円割引になりました。
飯田橋ギンレイは常に2本立て。ここはシネマパスポートというのがあり、個人だと10500円で1年間映画見放題。18900円でペアパスポート。5人で利用できる31500円のグループカードがあります。つまり今日は時間がなくて1本しか観られなくても明日また来ようというのができるのです。

私の目的は韓国映画『大統領の理髪師』ですが、最初は『故郷の香り』からでした。こちらは香川照之が出ている中国映画というぐらいの認識はありました。香川照之はヤーバという耳と口が不自由な男性の役なので中国語の心配はなかったようです。すみません。この映画のときは6割寝てました。いえ、観るつもりだったんですよぉ。でも始まる前におにぎりを2個食べたら眠くなっちゃったんですぅ。

さて『大統領の理髪師』。これは日比谷・有楽町地区では上映館がなく、渋谷まで観に行くチャンスがないまま見送っていました。だから絶対観たかった。
大統領官邸のお膝元、孝子洞(ヒョジャドン)で理髪店を営むハンモを父に持つナガンの語り口で物語が進みます。
私たち(私だけ?)があまり知らない1960年代~1970年代の韓国軍政下時代の話で、たまたま大統領のお抱え理髪師になった平凡な男を通して、その時代が庶民にとってどんな時代であったかを描いています。

1968年に起きた北朝鮮武装ゲリラ事件が発端になり、理髪師の息子ナガンは8歳にして中央情報部で拷問を受ける破目になります。ここらへんのきっかけが「下痢」というのがホンマかいな?と思わせるのですが、ソウルに侵入したゲリラたちが下痢をしていたことから、下痢をしている者はゲリラ(あ~ややこしい)に接触したに違いないと思われたらしいです。

ナガンはしばらくして家に戻されるのですが、脚が立たなくなっていました。父のハンモは鍼の治療師やら漢方医を訪ね歩き治療を試みるのですが、一向によくなりません。最後の老医を訪ねた時、ある予言を聞きましたが本気にせず長い旅を終え家に戻るのです。

それから10年以上も経った1979年に大統領が側近に射殺されるという事件がおこります。ここらへんまで来てもまだ私には「そんな事件あったっけ?」というぐらいの認識しかありませんでしたねぇ。韓国ってその当時はまだまだ遠い国でした。(これは1979年10月26日のパク・チョンヒ大統領射殺事件のことです)

ハンモは老医の予言を思い出し、大統領の肖像の目の部分を削り、菊のお茶と一緒にナガンに飲ませると脚が動くようになりました。ここらへんはおとぎ話みたい。
ラストは成長したナガンと年老いた父ハンモが自転車で並んで走るシーン。平和のありがたさ、家族と一緒であることの幸せをシミジミ感じる場面でした。

飯田橋ギンレイホール ⇒ http://www.cam.hi-ho.ne.jp/ginrei/

大統領の理髪師 ⇒ http://www.albatros-film.com/movie/barber/

火垂るの墓

2005年08月08日 | 映画&本&音楽&TV
毎年、この時期になるとテレビで放送される映画のひとつに『火垂るの墓』がありますね。
アニメですが、非常によくできている作品だという思いがあります。
初公開は1988年。『となりのトトロ』と2本立てで観た覚えがありますが、どちらを先に観たのかは忘れてしまいました。

主人公は15歳の清太と4歳の節子。私の息子と娘もちょっとした年齢差があり、映画を観ている時に、当時9歳と2歳8カ月だった我が子がダブってしまい号泣した映画です。
その後は何度もテレビで放送されていますが、最初に放送されたときより、何カ所かカットされてしまっていますね。ちゃんと観るならDVDでという方法がありますけど、私はもうテレビでさえちゃんと観ることができないんです。
何度観ても泣いてしまうからです。それもハンパな泣き方でなく毎回号泣ですから(笑)。だから、ここ2~3年はテレビで放送されても全く観ていません。

ほとんどの方がこれは野坂昭如の短編集の中の一作品だと知っていますよね。“あの野坂昭如”という言い方にはエロ的な小説をたくさん書いている人が・・というニュアンスもあります。

まだ息子が家にいたころ、野坂氏が某CMで畳のかぶりものをして出てきた時、「これ火垂るの墓の作者だよ」と教えたら「ウソッッッ!」と絶句しておりましたっけ。


ちくしょう谷

2005年08月07日 | 映画&本&音楽&TV
読み終えたのはちょっと前ですが、なかなか感想が書けませんでした。
主人公の持つ強い抑制力が、女である私には理解しにくかったからです。いえ、頭では理解していましたが、実際問題として主人公の朝田隼人に共感しにくかったからと言った方がいいかな。

朝田隼人の兄、織部は部下の西沢半四郎と決闘をして死に、西沢は3年間、流人村の木戸詰を仰せつかる。(「ちくしょう谷」のちくしょうは流人のことだったんですね)木戸詰には左遷の意味が含まれていた。
隼人は亡くなった兄の子の後見をするようにと命ぜられ帰国するが、木戸番頭(かしら)が死んだことにより、後任を志願します。
誰もが、その志願は木戸詰になっている西沢が目当てだと思うのです。兄の仇を討つために西沢のそばに行くのだろう、と。

私もそう思っていました。隼人の精神が静かすぎるのです。何度か西沢を見る目の描写が出てきますが「木や石ころを見るように」となっています。これは復讐心を心の奥底に秘めたポーカーフェイスに違いないとね。

西沢も隼人が自分を殺しに来たのだと思って、いろいろな方法で隼人を亡き者にしようとします。しかし、何度も失敗して、しまいには隼人に助けられるのです。
二人きりで話す場面で、兄の織部から届いた手紙のことを西沢に話します。それは決闘の5日前に書かれたもので、西沢の不正のことと彼の将来を案じたものでした。
隼人は復讐心を捨て、兄の願いであった西沢を破滅させないで立ち直らせるという道を選んだのです。

「ゆるすということはむずかしいが、もしゆるすとなったら限度はない、--ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、それは初めからゆるしてはいないのだ」と隼人に言わせていますが、これは山本周五郎の言葉でもあります。

ゆるす側もゆるされる側も、どちらも苦しい思いをする。それが「ちくしょう谷」という物語でした。
最初に書いたように、頭では理解できるが、私なら隼人のように強い心で人をゆるすことなどできないだろうと思うのです。