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日本のGodivaチョコレートは、義理チョコなるものを、やめようと提案する新聞一面記事を出したそうである。義理チョコが負担で苦痛だという女性のクレイムがあるのを知ってのことらしい。しかし、この広告にしても女性が「本命」チョコレートを贈るのは否定していない。
2018年2月1日付の日本経済新聞朝刊(14面)
義理チョコレートという習慣は、私がまだ日本にいた時には存在していなくて、1980年代に商業主義が打ち出した商策の一つと言う。だいたい何故日本では、ヴァレンタインズディが、女性から男性へのプレゼントをする日になっているのかもわからない。そして3月にあるという、男性からのお返しが、ホワイトディなるものも、理解しがたい。本来ヴァレンタインズディは、男性から意中の女性へなにかプレゼントするもので、男性から女性へのお返しが次の月、なんて歴史にも全くない、ただただ日本での製菓会社の商魂から始まっている。なんだか日本では、男性が常に女性におごらせているように思える。日本以外の国では、もし祝うなら、通常男性からのギフトである。回教徒国では、祝うことが罰せられる。合衆国では、幼稚園から少学校高学年までくらいが、クラス全員に渡すヴァレンタインズディカードやキャンディをお互いに贈る。
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子供達がお手製のヴァレンタインズカードをクラスメイツ一人一人に作るのも楽しい。
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キャンデイはヴァレンタインズディ用にカードが付いているか、箱に直接誰から誰に渡すのか書ける
日本には日本の習慣が、(商魂)文化がある、ということだが、義理チョコだのホワイトディなどは、100%チョコレートメイカーや製菓会社の商魂の現れにしか見えない。善女が、完全に商業主義に振り回されているように見えさえする。このGodiva広告に反して、まずます義理チョコ「文化」を応援するという製菓会社は、うちはうちと宣言するし、もはや売れればいいの商魂をたくましくさせている。もともとヴァレンタインズディがどのような日であるのか。
セイントヴァレンタインズディは、ローマ人の多産を願う行事、Lupercalia、に影響を与えんとして始まったことである。その異教徒による行事Lupercaliaでは、まず二頭の牡山羊と一匹の犬をいけにえにしていた。異教徒司祭達はその血に染まり、生贄の血に浸した皮をひも状に割いたものをもって、町中を走りまわり、女性に多産を願い、その血をつけたと言う。それをやめさせたかったローマ教会は、496ADに、時の法王ゲラシウス一世が、その日を良き聖人の名を持ってする日と変えた。何世紀もそれから経ったが、その間2月14日に特別に人々の間で愛情が多く溢れていた、という記録は一切ない。
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古代ローマの異教徒のオリジナルなヴァレンタインズディ。。。
その「神話」は、同じく歴史家のヘンリー・アンスガー・ケリーによると、チョーサーが、冬の凍てつく寒さのローマでの日にちとは違う5月3日をさし、 ジェノアでのセイントヴァレンタインズディをさしたのだ、としている。考えてみれば、もしあなたが鳥であれば、冬の最中に伴侶探しに浮かれ飛び回れるだろうか。
一節には、チョーサーがその詩を書いた時は、中世の温暖期最後(MWP=Medieval Warm Period)にあったのだとする。下のグラフは、ヨーロッパの気候の事例証拠であり、必ずしもその他の地域や世界の気候を表してはいない。ある見解によれば、この時期に鳥が浮かれ飛ぶに十分暖かったのだとするそうだ。
https://www.almanac.com/blog/weather-blog/valentines-day-cold-weather-hot-romance
ポーランドの諺がある。偉大なる愛は母の愛、それから犬の愛、そして愛する人の愛。また、「星の王子さま」を書いたフランスの作家アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリは、こう言った: 真実の愛は見返りのない時に始まる。 日本の「西洋から貰い、日本風にアレンジした新しい習慣・文化」は、やはりおかしなことに見える。