ところどころ雲が切れ富士山も顔をだす。
河口湖の西から北を回り、山間の道を富士川町を目指す。かのオウム教団事件の上九一色村のあたりも通った。漸く山道を抜ける。富士川町のあたりで笛吹川と釜無川が一緒になって富士川になるようだ。
富士川町舂米(つきよね)、南アルプスの裾に当たるようだ。棚田を縫うように上がっていく。
たどり着いた一条忠頼の墓。明楽寺跡。
鎌倉で死んだはずだが、ここへ葬られたのか。
源義家の弟新羅三郎義光を曾祖父に持ち、戦国時代の武田氏の祖となる甲斐源氏、武田信義の嫡男、一条を名乗とした一条次郎忠頼。
平家物語では第5巻、富士川の合戦の後、頼朝が駿河を一条次郎忠頼に、遠江を安田三郎義定に預けたとある。安田三郎義定は武田信義の弟で、忠頼の叔父だ。甲斐源氏が富士川の合戦の前に駿河・遠江に押し寄せており、実効支配してしまったのを頼朝は追認せざるを得なかったのだろう。
第7巻の義仲最後の戦い粟津でも一条次郎は姿を見せる。互いによき敵と認識している。
そして義仲四天王の一角樋口兼光が、義仲の死を知り鳥羽街道を京へ戻る際、樋口の郎党、茅野光広という者が、一条次郎の軍勢はどこかと聞いて歩く。相手は笑うのだが、茅野は一条手勢にいるはずの弟に立派に死んだことを故郷に伝えてほしいのだと抗弁する。樋口兼光も武蔵の児玉党と縁があり、彼等の口利きで降伏するのだが、敵味方になった甲信武蔵の武士たちが敵味方に分かれた事情は複雑で、モザイク模様の人的関係だったのだろう。
平家物語は語らないが、一条忠頼は頼朝に誅殺される。寿永3年が改元された元暦元年(1184)6月のことだという。一の谷は終わっているがまだ平家が屋島に頑張っている時期である。鎌倉に招かれた忠頼は酒宴の最中に殺されたということである。
忠頼は甲斐武田の名門、源氏の代表者として頼朝に引けを取らぬ出自との自負もあったろうし、実力もあったのだろう。その甲斐源氏に駿河・遠江を押さえられたら頼朝は面白くなかったろうし、武士の棟梁はただ一人でなければならないと思い極めていたのだろうか。
忠頼の墓は眺望の効くところにある。甲府盆地を見下ろし、右手、雲に隠れているが富士山のはずである。左手は金峰山か。
棚田の道を降りる際、軽トラのオジサンに声を掛けられた。「遠くから来たんだな」という。忠頼の墓に来たというと、自分たちは加賀美遠光の子孫だという。武田信義の弟または叔父に当たる人物で、頼朝の御家人として信濃に力を持ったらしい。平家物語では源三位頼政が以仁王に決起を促す源氏揃えの中に出てくるだけのようだが、びっくりしてしまう。法林寺の詳しい場所も教えてもらう。
富士川町から北上し韮崎市へ。忠頼の父信義の館跡と墓を目指す。
韮崎市神山町、この辺かという所に来てみれば、狭い道が入りこみとてもわからない。幹道に出て駐車スペースを探すと武田広神社の駐車場があった。案内板によればヤマトタケルの子武田王を祀るとある。
ノーベル賞受賞学者大村智氏はこの地の出身らしい。
坂を下り、迷い迷いしつつも信義館跡へたどり着く。
かなりの調査はされたらしい。
甲府盆地の西北端、釜無川が信州から流れてくる辺、信州への出入りを制する場所に館を構えたように見える。
信義の墓がある願成寺へ向かうが、ちょっと距離があるようなので車に戻りナビ任せに行く。
甲斐のヒーロー武田信玄の祖先の墓である。
韮崎市立民俗博物館へ行ってみるが、めぼしいものはなく、引き上げる。