物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

信州相模甲斐 0612富士川町・韮崎

2020-06-17 | 行った所

ところどころ雲が切れ富士山も顔をだす。

河口湖の西から北を回り、山間の道を富士川町を目指す。かのオウム教団事件の上九一色村のあたりも通った。漸く山道を抜ける。富士川町のあたりで笛吹川と釜無川が一緒になって富士川になるようだ。


富士川町舂米(つきよね)、南アルプスの裾に当たるようだ。棚田を縫うように上がっていく。
たどり着いた一条忠頼の墓。明楽寺跡。

鎌倉で死んだはずだが、ここへ葬られたのか。


源義家の弟新羅三郎義光を曾祖父に持ち、戦国時代の武田氏の祖となる甲斐源氏、武田信義の嫡男、一条を名乗とした一条次郎忠頼。
平家物語では第5巻、富士川の合戦の後、頼朝が駿河を一条次郎忠頼に、遠江を安田三郎義定に預けたとある。安田三郎義定は武田信義の弟で、忠頼の叔父だ。甲斐源氏が富士川の合戦の前に駿河・遠江に押し寄せており、実効支配してしまったのを頼朝は追認せざるを得なかったのだろう。
第7巻の義仲最後の戦い粟津でも一条次郎は姿を見せる。互いによき敵と認識している。
そして義仲四天王の一角樋口兼光が、義仲の死を知り鳥羽街道を京へ戻る際、樋口の郎党、茅野光広という者が、一条次郎の軍勢はどこかと聞いて歩く。相手は笑うのだが、茅野は一条手勢にいるはずの弟に立派に死んだことを故郷に伝えてほしいのだと抗弁する。樋口兼光も武蔵の児玉党と縁があり、彼等の口利きで降伏するのだが、敵味方になった甲信武蔵の武士たちが敵味方に分かれた事情は複雑で、モザイク模様の人的関係だったのだろう。
平家物語は語らないが、一条忠頼は頼朝に誅殺される。寿永3年が改元された元暦元年(1184)6月のことだという。一の谷は終わっているがまだ平家が屋島に頑張っている時期である。鎌倉に招かれた忠頼は酒宴の最中に殺されたということである。
忠頼は甲斐武田の名門、源氏の代表者として頼朝に引けを取らぬ出自との自負もあったろうし、実力もあったのだろう。その甲斐源氏に駿河・遠江を押さえられたら頼朝は面白くなかったろうし、武士の棟梁はただ一人でなければならないと思い極めていたのだろうか。


忠頼の墓は眺望の効くところにある。甲府盆地を見下ろし、右手、雲に隠れているが富士山のはずである。左手は金峰山か。
棚田の道を降りる際、軽トラのオジサンに声を掛けられた。「遠くから来たんだな」という。忠頼の墓に来たというと、自分たちは加賀美遠光の子孫だという。武田信義の弟または叔父に当たる人物で、頼朝の御家人として信濃に力を持ったらしい。平家物語では源三位頼政が以仁王に決起を促す源氏揃えの中に出てくるだけのようだが、びっくりしてしまう。法林寺の詳しい場所も教えてもらう。

富士川町から北上し韮崎市へ。忠頼の父信義の館跡と墓を目指す。

韮崎市神山町、この辺かという所に来てみれば、狭い道が入りこみとてもわからない。幹道に出て駐車スペースを探すと武田広神社の駐車場があった。案内板によればヤマトタケルの子武田王を祀るとある。

ノーベル賞受賞学者大村智氏はこの地の出身らしい。

坂を下り、迷い迷いしつつも信義館跡へたどり着く。


かなりの調査はされたらしい。


甲府盆地の西北端、釜無川が信州から流れてくる辺、信州への出入りを制する場所に館を構えたように見える。

信義の墓がある願成寺へ向かうが、ちょっと距離があるようなので車に戻りナビ任せに行く。


甲斐のヒーロー武田信玄の祖先の墓である。

韮崎市立民俗博物館へ行ってみるが、めぼしいものはなく、引き上げる。

コメント

信州相模甲斐 0611 波多野・松田

2020-06-17 | 行った所

昼食後、秦野市方面へ向かう。鎌倉から出るのにはいつもまごつく。大船からの道でナビが示す道が通れない所為もあるが、どっち方向へ行くのか判然としない所為もある。雨が降り出す。

波多野義通という義朝の郎党がいる。藤原秀郷流を称し佐伯とも名乗る。前九年の役から源氏に従った。波多野荘から松田郷にかけての一帯を支配した相模の有力豪族である。義通の妹は義朝に嫁し、朝長を産んだ。朝長は松田郷に育つ。源氏の嫡男、のはずだった。しかし保元の乱を経て、義朝の嫡男は頼朝とされた。保元の乱を義朝に従い戦った義通は怒って義朝の元を離れる。しかし平治の乱では再び義朝と共に戦っている。朝長は平治の乱で傷を得て死ぬ。義通も1167年死ぬ。息子の義常は頼朝に敵対し、攻められ自害する。叔父が頼朝に従い鎌倉の御家人として生き残るが、和田義盛の乱で和田方として滅び、一族の中からまた継ぐものが出たらしい。

その波多野氏の本拠、波多野城、結構な山間だ。かなめ川という川が流れる。

波多野の荘を見下ろす位置だろうと思ったが、立木の所為か建物か、雨か、眺望はきかない。

波多野荘と大庭荘を比べれば明らかに大庭の方が土地生産性は高そうだ。

実朝首塚の標識を見る。鶴岡八幡で死んだ実朝がなぜこんなところに?だったがそれなりの理屈はあるらしい。
実朝暗殺事件は下手な推理小説めいているのだが、首の行方もまた妙な具合だ。実朝は公暁に殺され、一緒にいたは源仲章も殺され、これは北条義時に間違われて殺されたと言われる。義時は直前になって体調不良を言い立て退席している。公暁の襲撃を知っていたのでは?と疑われる。更に居並ぶ御家人たちはどうしていたのか、むざむざ将軍ともう一人をを殺され、首さえ持ち去られる。坂東武者の名が泣くようなありさま。尤も、曽我兄弟の事件でも、二人の兄弟に十人斬りされてしまうくらいだから、戦場の活躍とは裏腹に不測の襲撃には対応が下手なのかもしれないが。 公暁は、三浦義村の家臣長尾定景によって成敗されるが実朝の首は不明で、体と髪を勝長寿院に葬ったとされる。しかし勝長寿院跡には実朝の墓はなかった。寿福寺という所に政子と共に供養塔があるそうだ。公暁が持ち去った実朝の首は、三浦義村の家臣武常晴が拾い上げ、波多野氏を頼ってこの地に葬ったのだと伝えられている。三浦の家臣が首を三浦に渡さずここへきて葬ったのは三浦義村が公暁をそそのかした真犯人であるためだというのだが??

実朝の墓は公園になっていて、地域の人の和歌が貼られていたり、実朝祭りもあるようだ。近くに金塊植物園という実朝の和歌集にちなんだものもある。

雨は止まない。松田に向かう。
松田の寒田神社のあたりが朝長も住んだ松田館があったところだという。それなりの規模の神社だが、松田館の事は何もわからなかった。寒田神社南側、という情報があったので何らかの調査はあったのか、しかしそのあたりは小学校の敷地で、後を示すものはなかった。

猫さんがいた。

降りしきる雨の中、河口湖を目指す。御殿場から富士山の東を回るように向かったのであるが、当然ながら富士は見えない。
しかし、夕食時にうっすら富士が姿を現した。

コメント

信州相模甲斐 0610鎌倉

2020-06-17 | 行った所

長野から流山へ。上信越道-関越道-圏央道-東北道-外環道-常磐道で流山へ。おおたかの森。
「おおたかの森」だなんてどんな森の中の駅かと思いきや、すさまじいほど森を開拓したしたところなのだろう。オオタカは絶滅が危惧される品種のはずだ。間違ってもこんなところにはいない。酷い命名だ。おおたかの森駅から鎌倉へ向かう。
つくばエクスプレス―山手線―横須賀線を乗り継ぐ。意外に混んでいて御徒町までたちっぱなし、以後は座れたが横須賀線乗換でだいぶ歩いた。首都圏の交通網は便利なのだろうが乗りこなすのは大変だ。こんなもので毎日通勤するのはもっと大変だ。リモートワークで太ったという人が多いはずだ。

鎌倉は3回目になる。車での移動は向かない町だ。バスの路線もろくに理解できず、やみくもに歩き回ることになる。ただ町の規模は小さいし歩き回るうちに何とかはなるが、袋小路のようなところを行きつ戻りつすることになってしまう。

若宮大路を南に由比ガ浜まで出る。

いい砂浜だが今日は風が強い、帽子は飛び、飛砂が顔に当たる。


右に稲村ケ崎、伊豆半島が薄く浮かぶ。

 左は厨子だろうか。

海岸沿いに東へ少し歩く。なかなか北へ入る道がない。道かと思うと車庫の入り口だったり、いきどまったり。
材木座という町名らしいがどこをどう歩いているか判然としない。瀟洒そうな家が多いが住み心地はどうだろう、この道の狭さでどうやって車を出し入れするのかと思う。
九品寺を見つけ漸く地図上の位置が分かる。

北の方にちらりと見えるのは祇園山か。

補陀洛寺を探すもわからなくなる。五所神社でようやく来迎寺への標識を見つける。

三浦半島の衣笠山で死んだ三浦義明の墓だ。

もうあまり細い道には立ち入らず、幹道らしきところを歩くことにし、安養院へ北へ向かう。

祇園山を背景に立つ。


北条政子の墓。どう見ても頼朝の墓より扱いがいい。頼朝の墓は単に史跡だ。政子の墓は寺院の中で墓として守られている感じだ。

道なりに北は向かったつもりが、大きな寺へ出た。

妙本寺とある。

なんと比企一族の館跡で墓もある。

一族の生き残りが建てた寺だという。緑とアジサイが美しい立派な寺で、結婚式の前撮りが2組もいた。

妙本寺から夷堂址・本覚寺・蛭子神社を経て鎌倉駅へ戻る。

鎌倉駅から北鎌倉は寄らずに大船まで。
大船駅からバスで常楽寺前へ。歩いていけない距離でもないが、正直もう疲れた。丁度目の前に来たバスが常高寺経由だ。
バス通りから少し入ったところに門がある。

茅葺の風情ある門だ。

北条泰時の創建だというがこじんまりと偉ぶらない寺だ。


裏が墓場になっていて泰時の墓もある。

この裏山上に義高の墓があるはずなのだが、登る道が見当たらない。


仕方がないのでバス通りに戻り、裏手へ回ることにする。
通りから階段をあがると小さな公園がある。

その裏が義高の墓で、一度来たことがある。


小さなこいのぼりが飾られていた。

墓の裏手に回るとやはり下へ降りる道がある。

 下りてみる。下りたところは常楽寺のすぐ近くだが寺の敷地内ではなかった。ネットには義高の墓は常楽寺となっていたりするのだが、少なくとも現状常楽寺との関係はなさそうである。

大船駅へバスで戻る。結構な便数があるようだ。

大船駅西口には大きな観音の胸像がある。立像でも座像でもなく胸像。


モノレールも走る。

コメント

信州相模甲斐 0609 長野盆地

2020-06-17 | 行った所

長野市へ向かう。

善光寺は平家物語に何か所か出てくる。初めは第2巻「善光寺炎上の事 」この巻は鹿谷事件の後始末というか、藤原成親等が殺されたり、鬼界が島への遠流があったり、がメインなのだが、比叡山と後白河の仲が悪くなり、比叡山の衰微が語られ、その流れでか善光寺の焼亡が出てくる。唐天竺から百済を通してやってきた仏を難波で見つけた信濃の善光さん、仏を信濃に持ち帰るのだが、「昼は善光、如来をおひ奉り、夜は善光、如来におはれ奉って」と奇怪な縁起も書いてある。善光寺の焼亡は平家物語では仏法滅ぶの例となる。

次は第7巻「清水の冠者」なのだが、この話はさっぱり分からない。寿永2年(1183)の事である。義仲と頼朝が不仲になり、頼朝は信濃に攻め寄せる。平家物語では10万余騎という大軍である。どこをどう通って、信濃に入ったというのか?関東から信濃へ入ったのなら佐久・上田を通り長野へ向かうはずである。義仲は上田の依田城にいたのである。何故通過させたのだろう?余程上田では義仲にとって不利な状況ができたのだろうか?義仲は何と信越国境近い熊坂山に陣を取る、というのであるがこれはもう妙高山のふもとだ。木曽という信濃では南の地域に出た義仲は信濃の北辺に追い詰められた格好だ。善光寺に入った頼朝に義仲は嫡子義高を送って和睦する。頼朝は長女大姫の婿として義高を連れ帰るのであるが、人質というわけだろう。大軍を引いてきた頼朝は結局一戦もせずに引き上げる。本当に頼朝は善光寺に来たのだろうか?
木村茂光「頼朝と街道」は頼朝の動きを細かくみていっているのだが、この信濃親征については言及がない。野木宮合戦の志太義広の動きを義仲と頼朝の不仲に絡めて書いているのだが。建久8年(1197)の頼朝の善光寺参詣に関する考察もしているが、寿永2年の信濃行については何も書いてはいないのだ。ロクに史料がない、ということだろうか。

そのほかには第10巻、鎌倉に連行されてきた重衡をもてなした手越の千住前が、重衡の死後出家し善光寺へ行った、という話がある。曽我物語の大磯の虎が、曽我兄弟の遺骨を善光寺で弔った、という話があったから似たようなものなのだろう。

善光寺には平家物語を思わせるようなものは何一つなかった。資料館という物にも入ってみたがなかった。敷いてあげれば建久8年の頼朝の参詣だけだ。

善光寺という寺は無宗派だそうだ。つまり浄土宗の天台の法華の臨済の曹洞のという別がないそうだ。それで構わないなら結構なことだと思う。天台同士のはずなのに喧嘩ばかりの延暦寺と園城寺などよりよほどいい。本堂に入ると正面に何があるのかよくわからなかったのだが、神社にあるような鏡は間違いなくあった。前両側にはそれぞれ弥勒と地蔵があるし、閻魔大王もびんずる様もいる。阿弥陀如来は秘仏だ。
お戒壇巡りとやらもやってきた。

 善光寺山門

 善光寺本堂

 本堂の屋根

義仲が史上に登場するのは市原合戦だそうである。善光寺裏合戦ともいわれるこの戦いは、平家方の信濃の豪族笠原頼直と義仲手勢が合戦し、義仲が救援に来て笠松は越後の城の所へ逃げた、という物らしいのだが、よくわからない。
平家物語では第6巻「廻らし文」で義仲の生い立ち、挙兵が語られるがこの戦いは出てこない。
市原合戦趾と云われるのは長野市若里町の市村神社辺りだというから行ってみる。

分かりにくいところにある小さな神社だ。別に合戦趾だと案内がある訳でもない。ただ犀川へは直線距離で500mくらい。合戦があっても不思議はない場所だとは思うがぴんとはこない。

 犀川の河原、中央左の建物が赤十字病院、その向こうが市村神社。

犀川の河原から北アルプス・立山が見える。

義仲たちは京への道をどのように認識していたのだろう。養父中原兼遠と共に京都へ行ったことがあるらしいが、それは木曽から美濃を通ったのだろうか。長野盆地=善光寺平から見えるあの山々の向こうは越中で北へ越後を回って行ける、さらに南下すれば加賀・越前、越前まで行けば京は指呼の間、それはわかっていたのだろう。

川中島合戦址公園へ向かう。古来大きな合戦のあった場所は重なる。国境は河川となることは多いし、陣は小高い山に取るが、軍を展開できる大きな河川敷は合戦の場となることが多い。横田河原と川中島はほぼ同じようなところであった合戦らしい。川中島の合戦は言うまでもなく甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の戦いで、都合4回にわたり戦われたが有名なのは3回目だそうだ。両軍の動きも細かく研究されているらしい。一方その400年近くも前にあったもう一つの川中島ともいうべき横田河原は、すっかり信玄・謙信の戦いに上書きされてしまっているようだ。


越後の平家方の有力豪族城氏、城長茂(助職)は大軍を率いて信濃の義仲を叩くべく侵攻する。平家物語ではその軍実に4万、義仲は3千である。しかし義仲は策をもって城を破る。7手に分けた軍勢にはじめは赤旗をもって近づかせ、最後に白旗を掲げどっと攻め寄せたのである。城方は越後に逃げ帰る。ようやく義仲の盛名が都に聞こえることになる横田河原の合戦である。

長野盆地は地溝帯に河川の堆積物が積もった場所だという。おもな河川はもちろん千曲川、越後に入ると信濃川と名を変える大河だ。そして犀川、更にいくつもの合流する河川がある。これらの川は暴れ川だ。特に千曲川は2019年秋の台風時堤防の決壊で氾濫が起きたことは記憶にも新しい。
度々流路を変えてきたであろうことは想像に難くない。現在の地形で横田河原の合戦場所の特定は難しいのだろう。

川中島合戦址公園内に長野市立博物館があった。結構いろいろ揃っていて長野盆地が分かる。

木曽路は古代信濃地図では美濃になっている。

川中島がやはり詳しい。が中世もある。

このような道祖神は初めて見た。ユーモラスで好きかも。

横田城址へ行く。住宅地の狭い路地をたどり行き着いたのは石垣の残骸かと思われるいくばくかの角石、小高くなった塚のようなもの。

上がってみると横田城址の案内があった。

塚の反対側には鳥居があった。

壕跡があるようだ。
義仲は依田城から横田城へ入ったのだろうか。城というより周濠をめぐらした館跡だろうか。わずかだが義仲の痕跡に触れたようだ。

 

コメント

信州相模甲斐 0608 小布施

2020-06-17 | 行った所

お昼に出発。天気の恵まれ、北陸道を北上、富山では車窓を通し立山が見えた。

上越から上信越道に入る。信州中野ICで降り、小布施へ。「栗と北斎と花の町」だそうである。
北斎がらみの美術館に入ろうとして実は3度目の正直である。去年小布施へ行こうと計画したが、台風で流れ、東京のすみだ北斎館は傍まで行って休館日と知った。

北斎館へ入る。

画家としての北斎よりデザイナーとしての北斎に焦点を当てた展示があった。略画的な画面構成が示され、こういう風に描いていたのかと思う。
一方、高井鴻山とのの関わりも詳しい。なんと北斎が初めて小布施を訪れたのは83歳の時。これから4回も小布施を訪れたという。試みにGoogleMapで東京のスカイツリー辺りから小布施まで、徒歩の経路を出してみたら217km、46時間と出た。江戸時代の一日の旅程は8里、32kmなので、一週間はかかる。このほとんどが登りの道程、大変なエネルギーだ。

神奈川沖浪裏の富士山の版画での刷りの工程があったのだが、あんなに何刷もの手順を踏み、見事に仕上げていくことに驚嘆してしまう。絵師が天才だけではない、彫師も刷り師も材料をそろえてやらせる版元もすごいもんだ。
この館には祭屋台があり、4枚の北斎の絵がある。鳳凰と龍、男浪と女浪だ。
岩松院にすごい鳳凰の天井絵があるのだそうだが、今回は時間切れ。

 岩松院入口


福島正則のついの棲み処がこことは知らなんだ。

岩松院の背後は雁田山というそうだ。

北斎館の傍は観光地風の所だが、そこに栗の花の解説パネルがあった。雄花、雌花があることさえ初めて知った。ここが栗の実になるのかと納得して栗の花を眺める。

高井鴻山記念館も入りたかったが入館時間を切っていた。外壁は土壁に見える。漆喰がはげ落ちたような色をしているのだが、これはこれでこういう仕上げのようだ。この辺りの特徴か似たような外壁の家をいくつか見た。

栗と北斎と花の他に山の街でもあるらしい。宿の人に教えてもらったのは北信五岳。斑尾・妙高・黒姫・戸隠・飯綱、だそうである。


加えて猫の街かも。夕方散歩したら3匹見かけ、2匹が相手してくれた。

コメント