平家物語第6巻「廻文」に義仲の生い立ちが描かれている。為義の次男義賢の子、義賢は義平に殺され2歳の義仲は母に抱かれて木曽の中原兼遠の元へ行き義仲を託したことが語られる。そして20余年、力も世に優れ、心も並びなく強い。そして古き伝説の武将たちにも勝るとも劣らぬとほめあげる。喩えられるのは「田村・利仁・余五将軍・知頼。保昌・頼光・義家」である。
平家物語を聞いた時代の人たちにはそれとわかるスーパーヒーローだったのだろうが、今、すぐああ誰だ、と思うのは無理だ。
・田村は坂上田村麻呂、歴史の教科書に載る人物だから聞いたことがないとも言えない。
・利仁将軍は芥川の「芋粥」と云われればそんな話があったなと思う。
・余五将軍平維茂(これもち)となるとさらに難易度が上がるが、歌舞伎「紅葉狩り」で鬼退治するのが維茂である。
・知頼というのは誰なのだろう?岩波本では「ちらい」とルビがふってあるが、平致頼(ちらい・むねより)で維茂とライバル関係にあった人物のようだ。
・藤原保昌は知っている。和泉式部と結婚し、盗賊袴垂とやりあった男。他にも無頼のエピソードがある
・源頼光、・八幡太郎義家となればさすがに分かる。
藤原利仁の息子は斎宮職に就き、斎宮の藤原で斎藤を名乗る。全国の斎藤さんは祖先をたどるとみな利仁に行きつく、嘘のような話だが、少なくとも平安末から中世の越前の斎藤氏は利仁の子孫を名乗っている。
藤原利仁は越前敦賀の豪族秦氏の婿となり、館を構えていた。まさしく「芋粥」の舞台である。芥川龍之介の「芋粥」は五位の心理描写がいささかうるさく、また五位のしおたれぶりときたらなんだかゴーゴリの「外套」を思い起こすほどだ。宇治拾遺物語や今昔物語でも五位はかなりのしょぼくれ下級役人だ。
だが五位と云えば鎌倉時代初期、鎌倉殿頼朝の推挙で武家が従五位を得るのは限られた人だけの特権的栄誉だったはずだ。この辺の感覚はわからない。
今昔物語に出てくる五位と利仁の敦賀行の経路は、鴨川沿いから粟田口、山科、三井寺で食事、三津で狐を捕まえるのであるが、ここは下坂本の辺りらしい。道中で一泊。野宿だろうか、高島で迎えの者と出会って腹ごしらえ、暮れ方に敦賀に着いたとある。
この経路で京都―公文名間90kmくらいである。江戸時代の一日の行程8里=32kmだが、馬を使ったためだろう、一泊二日で来ている。
この狐はいいご愛敬であるが、さすが伝説の将軍の若き頃、神通力をちらりと見せた、という所であろうか。
肝心の芋粥なのだがあまりうまそうとは思えない。ヤマトイモ・自然薯の類は好きである。とろろ蕎麦、マグロのとろろ掛け、とろろ飯をすすりこむのも捨てがたい。だから私は長い間、芋粥とはとろろ飯のようなものだとばかり思っていたのである。しかし、今読めば、あまづらを入れて煮るなどとあり、甘いんか!とびっくりしてしまう。デザートだったのだろうか、それを山と出されたら確かに食えないだろう。
利仁の館跡は敦賀市御名といわれ、公文名に利仁を祀った神社がある。
利仁と菅原道真を祀る。天満宮だ。この二人は同時代人のようだが直接的な関係はあったのだろうか
境内をうろうろしていたら宮司さんが出てきていろいろ説明してくださった。基本的知識が足りずよくわからなかったが
利仁の供養塔がと云われるものが入った祠だそうだ
公文名は敦賀の内では南の地域だ、山を越えればすぐだろうが、あの山々を越えてきたかな。
北上して常宮神社に寄って帰った