物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

味真野 城福寺

2020-06-22 | 行った所

さわやかに晴れた日曜の午後、越前市(武生)五分市に出かける。
城福寺という寺がある。いい庭があるそうだが、それよりも平頼盛の息子の創建だという。

入口に平家一門菩提寺とある

門の前には平頼盛卿御廟所の石柱、門には池禅尼御廟所と書かれた板が打ってある

門をくぐると正面左手に花筐の桜。

その左手に鐘楼と高楼がある

右手に行くと何やら墓がある。

一番右手は何と重仁親王供養塔とある。
その左手にある墓は誰のものかわからない。南無阿弥陀仏と彫ってらるばかりである。後ろの石柱には五宮元往上人とかあるのだが誰の事かわからない。その左には宝物館のような小さな堂があり閉まっている。その左の背の高い十三重石塔は平家一門供養塔とあった。

その左は俊寛僧都、その後ろは有王。もう何を供養しているのかよくわからない。

その左にやっと池の禅尼供養塔があった。 

その後ろにあるのは大姫・三幡の供養塔だった。

平家一門の供養、というより平家物語関係者供養だろうか?重仁親王はまだいい。池禅尼は彼の乳母だったのだ、にもかかわらず崇徳側ではなく後白河側についた、頼盛にひしと清盛について行け、と命じたという。義息清盛が後白河方につくのを止めるどころか、実子まで重仁の敵につかせた。その状況判断は正しかったというべきなのだろうが、多少後ろめたくもあったのだろうか。頼朝の娘たち大姫・三幡と何か関わりがあったのだろうか?俊寛や実在はしないであろう有王となると、わからないというほかない。
頼盛廟所とあるのに頼盛の墓が見当たらない。重仁親王の隣が頼盛なのだろうか?

重文だという庭園は拝観中止中の札が貼ってあり入れなかった。

萩が咲いていた。五分市も含めこの地域は味真野と呼ばれ万葉の里だという。

城福寺の馬場を茶畑にしたという中に碑があった

狭野茅上娘子なら「君が行く道の長手をくりたたね---- 」だろうと読みにかかったら全然違うようだ。後で調べた。「春の日のうら悲しきに後れ居て君に恋ひつつ現うつしけめやも」

歴史の道とやらがあり少し歩いてみることにする。すぐ近くが味真野小学校で校庭の真ん中に大きな桜の木がある。一度見に来たことがある。

諏訪神社やら、弘願寺・毫摂寺など 大きな寺があるし、寺かと見まごう大きな塀のある家もある。きれいに整えられた庭先。
小丸城址に向けて歩く。

遊歩道なのだが途中から心細くなるものがある。マムシ注意などと云う立看板がある。素足にサンダルである。マムシはごめんだ。という道の途中に野々宮廃寺跡があった。案内板によれば、調査結果から7間4間の金堂と中門とみられる跡があり、瓦を中心にかなりの遺物があったようだ。白鳳期に比定されるというから万葉の時代ドンピシャだ。

越前国府は越前市(武生)市街地に比定されているが、ここから西へ10km近くいったところだ。

藪の中の道は工場の敷地のようなところへ出てしまい、引き返す。

 

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