物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

飛鳥資料館・山田寺跡・石舞台古墳

2021-07-07 | 行った所

飛鳥には古来様々の謎の石造物があることで知られていた。あちこちに散らばって存在するので、実際に見て歩くのは大変だけれど、まとめて見れる場所がある。
奈良文化財研究所の飛鳥資料館の前庭である。複製ではあるが、最近のレプリカはすごいもんだ。

館内の展示は山田寺の発掘、再現がメインである。
山田寺の仏頭は興福寺にある。平重衡による南都焼き討ちで仏像等も失った興福寺は明日香の山田寺の仏像を強奪した。
その後、火災でこの仏像は身体部を失い、仏頭だけになったが、すっきりと特徴的な白鳳仏だ。大きな仏像だったのだろう。
創建者蘇我山田石川麻呂は乙巳の変の後、政権の一翼を担うが、まもなく追い出され攻められる。完成間近の山田寺の前で自殺したという。持統天皇の祖父である。
石川麻呂の悲劇はともかく、発掘された山田寺の遺構は人を驚かせるものだった。東回廊の木材がそのまま出た。木質は水中にあると形を崩さず残ることがある。残ったといってもかなりの処理は必要なのだが、復元できる状態にあった。瓦もまとまって出た。土砂崩れか何かで崩れたものがそのまま埋まっていたのだ。復元された連子窓付き回廊を見るのは感動ものだ。

山田寺の址は飛鳥資料館から近い。

 

石舞台古墳


石舞台古墳を訪れるのは3回目のはずだ。情けないことに先の2回の事をろくに覚えていないのだが、少なくともここまで公園のように整備されてはいなかったのは確かだ。畑地が広がる中に空き地のような区画があり、そこに巨大な石室が露出していた印象だ。


かなり広い範囲が公園として芝生広場が整備されている。入場料を取る。方形の敷地周りには周濠が巡っている。

この古墳は蘇我馬子の墓と云われる。ここまで封土がなくなっているのは例がない。壊されたのだろうか。

 ヤギさんがいたのがご愛敬


飛鳥寺・板葺き宮址・川原寺・橘寺・岡寺

2021-07-07 | 行った所

飛鳥寺


門前に着いた時間が早かった。まだ開いていない。待ってもよかったが、駐車場わきの住職が書いた案内板を読むうち嫌になった。飛鳥大仏は見たかったのだが。

飛鳥寺の西側、甘樫丘が見える位置の畑地の中に蘇我入鹿の首塚がある。

 五輪塔で少なくとも飛鳥時代に遡るものではないのは明らかだが、そう伝承されているらしい。
入鹿もまた、中大兄・中臣鎌足たちと共に唐への留学生僧旻に学んだ。旻は入鹿を一番秀でた弟子と認めていたという。


飛鳥寺からわずか600mほど南下すると(真直ぐ行ける道がないので迂回するが)飛鳥板葺きの宮跡がある。


 こここそが入鹿の終焉の地、乙巳の変(大化の改新)、入鹿暗殺事件の現場なのだ。

飛鳥板葺宮跡となって入るが飛鳥浄御原宮でもある。同じところに遺構が重なってあるのだ。

この板葺きの宮は、川原寺の写経室から見えるという。

 川原寺跡

川原寺も大きな伽藍を持つ大寺だったのだろうが、今は平安期に復興され弘法大師の伝承を持つ弘福寺(ぐふくじ)という小寺に過ぎない。しかし、境内に飛鳥時代の川原寺の礎石を持つ。めのうの礎石と称するが、これは大理石である。この礎石は、天智が、滋賀の石山寺付近から運んだと伝えられているらしい。藤原京の資料館で藤原京造営の木材が滋賀県から主に水運を利用し、運ばれていたという展示があった。同じようなルートで運ばれてきたのだろうか。

図のように川原寺の南に橘寺がある。

(古寺巡礼http://www9.plala.or.jp/kinomuku/index.htmlから)

 川原寺から見た橘寺

 厩戸皇子(聖徳太子)の誕生地と伝えられる橘寺

 

 案内板によれば玉虫厨子もここにあったという。


橘寺から岡寺へ。

 飛鳥川を渡る。

歩けばそれなりの距離があった。というよりこんな山だったなんて・・・


岡寺参道入口ともいうべき鳥居まではくればあと少しと思うではないか、ところがそこから登る、登る。

 坂の途中の岡本寺

 岡寺三重塔
草壁皇子がいた所というのを期待したが、何もなかった。ここまで高いところに宮があったとも思えない。

創建時の岡寺は現岡寺隣の治田神社境内だったと云う。

高さは同じだ。