名古屋市瑞穂区に東西方向に走る妙音通という道路がある。下を地下鉄名城線が通る。地下鉄妙音通駅の付近の路地をわずかに南に入ったところに嶋川稲荷がある。ここは尾張に配流された藤原師長が住んだところだと言われる。音楽を能くし、院号は妙音院という。通り名はこの院号に因む。
師長は日本一の大学生と謳われた藤原頼長の息子である。生母の身分は高くはなかったが、その祖父、摂関家大殿忠実の猶子となり、順調に官位を進めていた。保元の乱で父頼長は殺され、祖父忠実は蟄居、師長は19歳で土佐に流刑になる。京都で元の官位に復位した時には27歳になっていた。それからは後白河の側近として重んじられる。父親譲りの学識もあったが、彼には優れた音楽的才能があった。音楽全般能くしたが、特に琵琶の名手であったという。全く平家物語の時代の人であるので、平家物語にも印象深いエピソードが登場する。
第五巻「文覚被流」治承3年(1179)3月、後白河の法住寺殿に高雄神護寺の勧進を願う文覚が現れる。「をりふし御前には、太政大臣妙音院、琵琶かき鳴らし、朗詠めでとうさせ給う。按察大納言資方卿拍子とって、風俗・催馬楽うたはれにけり。右馬頭資時・四位侍従盛定和琴かき鳴らし・・」と当代一流のアーティスト共演のスペシャルコンサート中、という所だったのだろうか。そこへ気勢を上げるデモ隊ならず、一人文覚が大音声を上げる。警備隊の排除もものかわ、荒行で鍛えた文覚の暴れる、暴れる。文覚は怒った後白河により伊豆へ遠流となる。これは文覚を伊豆で頼朝に合わす為の物語上の伏線といったところだが、ともかく師長の琵琶演奏に邪魔が入ったのを後白河が怒ったという話になっている。
同年11月、清盛がクーデターを断行する。治承3年政変と云われるものである。後白河の幽閉、39人の公卿の筆頭格が追放されるが、筆頭格が師長だ。ここで師長の尾張配流につながっていく。
第3巻「大臣流罪」この師長、父頼長のように激したところは少なく、風流人に徹しようとしたようである。古を思い、鳴海潟塩路遥かに遠望し、朗月を望み、浦風に吹かれ、琵琶を弾き、和歌を詠じていた。
嶋川稲荷から西に3kmほど行くと、七里の渡しになる。東海道53次唯一の海路である。宮宿から七里の渡しで舟に乗り、桑名に向かうのである。この七里の渡しから名古屋港まで実に4kmもある。少なくとも江戸時代まではここはすぐ海だったはずだ。妙音通のすぐ近くまで波が打ち寄せていたかもしれない。師長の流刑地は尾張国井戸田村というが、海浜の村だったのだろうか。
東海道で宮の東隣の宿は鳴海だ。名古屋市緑区鳴海でここも現代では海の気配はないが、「海道下」には「いかで鳴海の潮干潟」と謳われている。
さて、師長はある日熱田神宮に参詣する。嶋川稲荷から直線距離なら2kmくらいである。そこでも琵琶を弾く。そうしたら、この田舎にもかかわらず、老若男女集まり首を垂れて聞き入る。果ては宝物殿の建物さえ振動するという奇跡が起きる。
師長は清盛の死後、許されて京に帰る。しかし以後出仕はしていない。まだ44歳だが、頼朝の台頭あり、従兄弟で10歳若い九条兼実らとの確執にうんざりしていたのか。死んだのは建久3年(1192)55歳であった。
流刑地の村長の娘とのロマンスが伝えられる。帰京に際し琵琶を娘に渡すも、娘は入水したとか。貴種流離譚である。
名古屋は戦災にもあっているし、伊勢湾台風の大被害も受けている。この小さな稲荷社がよく残ってきたものだ。
石段には庄屋彦左衛門の文字が見える。その下には天保五甲午と見える。