倭王武=わかたける=雄略というのはほぼ定説だが、その宮、初瀬朝倉宮は確定してはいない。桜井市の初瀬川が作る谷を僅かに入った所であろうし、付近に伝承地もいくつがある。脇本遺跡が発掘調査され、有力視されている。
初瀬川沿いのちょっと小高い所、太い大きな柱を高々と立て、屋根には千木・鰹木を飾ったような、宮がそびえる。ふと柱の奥には大王と気に入りのものだけが出入りする部屋が続く。宮の前には広場がある。そこに臣としての者たちが集まる。
「やまとべに 見まほしものは 忍海の この高きなる 角刺の宮」はワカタケルより後の時代、イイトヨノアオヒメの宮の歌。
ワカタケルの祖父に当たるはずのオオササギ(仁徳)の后に葛城氏からなったイワノヒメは実家を「葛城高宮」と誇った。
礎石を置かない掘っ立て柱の建物ではあろうが、見上げるほどに高い建築物。床を張り、快適であったろう。
馬屋もそばにあったろうか、大王には愛馬がいたに違いない。忠臣に与える銘の象嵌された太刀を作るような工房も近くにあったか。
衣類・装身具も近くで作ったか、献上品で間に合うものだったか。漢語を操り、上表文を起草できる人材も集まり、すぐにお召しに応じただろう。もちろん武官たちも。女たちも。
うっかり大王と女が共寝するところに入ったチイサコベノスガル。大王は照れ隠しか雷を掴まてこい、なんて無茶を言う。スガルは宮を出て南西方向へ走る走る。飛鳥の雷の丘で雷をとらえる。というのは「日本霊異記」だ。ここでは雄略に宮は磐余の宮となっている。磐余は桜井市でも、初瀬の谷を出て西の方になるようだ。
桜井市は三輪山の麓、箸墓古墳、纏向遺跡、どこをとっても古代史のメッカとなるようなところだ。
桜井市の埋蔵文化財センターの展示室へ行く。博物館としては小ぶりだが、さすがは桜井、地下に眠っていたものは多彩だ。ただ脇本遺跡に関する展示はほとんどないような。今のところ巻向メインと見える。
春日神社
初瀬朝倉宮伝承地の一つ。南に降りていき165号線と当たる辺りが脇本遺跡らしいが、よくわからなかった。
春日神社付近の伊勢街道案内。南北に延びる山の辺の道と西の二上山辺りから東に延びる横大路、それが桜井でぶつかる。横大路は伊勢街道として初瀬川沿いに登って行くのだろう。
もう一つの伝承地 白山神社。
海柘榴市(つばいち)の方へ行ってみる。歌垣が盛んだったというがどんな風だったのか
観音堂
狭い曲がりくねった道をどう抜けたか磯城瑞籬宮伝承地があった。
すぐ脇に天理教の建物がいくつもあった。