泣いた。読んでて泣いてしまった。人間は清濁が常に人格の中に同居し、濁の人間のおぞましい悪性が描かれるが、同時に清の人間の神性も描かれている。人間の悪性を暴露した話というのは、現在ではうんざりするほどあらゆる物語の中で取り上げられる。いわばお腹いっぱいのニヒリズムである。しかし、そんな人間にも考えられないような清い美しい行いをするという「希望」もこの作品は読み手に信じさせてしまう。いわゆるファンタジーとも言える内容を含んだ作品だ。
だめだ。どたいこの作品を言葉で説明したところで、表現しきれるものではない。
ただ、この作品は後世の様々な作品に影響を与えた事は確かである。
まったく順序は逆なのだが、この作品を読んでいてデスノートを思い出した。デスノートの原作者は、この罪と罰という作品を必ず読んでいるハズである。デスノートにおける主人公の思想や考え方、または苦悩などは、この罪と罰という作品の濃いエッセンスをかなり薄めたものとして読める。少年漫画だからしかたがない。罪と罰を薄めずにそのまんま漫画で少年雑誌に乗せることはまあ無理である。
次に、やはり夏目漱石や芥川龍之介などの明治の文豪の筆致のような暗い影を落とす作品のにおいが至る所でするのである。もちろんドストエフスキーがそれらに影響されたわけではなく、漱石や芥川のほうが影響されたほうだろうが。。。
あとはロシア人という民族性をこの物語から伺い知ることが出来る。ドイツ人が書いた魔の山、またはファウストなどの登場人物たちと、ドストエフスキーの登場人物、世界観はかなり異なったものである。ただし19世紀の共通したにおいというものはあり、共通点も多い。それは漱石の作品にも同じものを感じることができ、19世紀という世界がどういうものであったかを垣間見ることはできる。
あとは前回も書いたが、やはり理性と身体の問題。
そして裏切りという「罪」と、殺人という刑法上の犯「罪」の違い。
良心の呵責による「罰」と、法律によって裁かれるという「罰」の違い。
そしてその異なる罪と異なる罰における贖い方の違い。すなわち悔恨・更正なのか禁錮・拘束なのか。
このあたりにくると、神の摂理である自然法と人間の作った(人間社会の自由を制限・調整する)法律という異なるルールというテーマもこの作品に見いだすこともできることになり、いわゆるホッブス、ロック、ルソーなどの近代国家思想の話としての解釈も可能になる。
そうなると、クラシックロマン派作曲家のワーグナーの作品「タンホイザー」におけるテーマとの近似性も現れてくる。彼のこの作品が1840年代に書かれたことをみると、やはりドストエフスキーの時代とほぼ同じではないか。そして、かたやドイツ。かたやロシアである。
そして、この罪と罰の時代のロシアでのドイツ語というものの位置付け。作品の中に、やたらドイツ人、ユダヤ人、そしてドイツ語などがでてくるが、なぜこの時代のペテルブルクの人の中に「ドイツ」というものがでてくるのか、ということについてはこの時代の歴史背景をしらねば深くは理解できないという仕組みにもなっている。
(そもそも皇帝エカテリーナはドイツ人であることや、ペテルブルクという都の名前がドイツ語読みであることを知らなければ、このあたりの事情については気づかないだろう)
あとはこのような貧民街での娼婦という世界。これは現在のインドなどで似たような光景を目撃することができるだろう。インドに貧乏旅行したバックパッカーの旅行記などをみると、この罪と罰における貧民街と娼婦の住居などは、とても近しい雰囲気を感じるからだ。
この作品には、ひとりあきらかに1人だけ濁をもっておらず、清のみしかもたないというファンタジーな女性が出てくるのだが、こういう人間が実在していて欲しいという希望が感じられる。このようなキャラクターは、ヘタをすると作品そのもののリアリティを壊し、ファンタジーをして読者に「嘘だこんなの」と思わせることになり、結果作品をダメにしてしまうという危うさがあるが、この作品はその塩梅が極めてうまく、ギリギリのところで成立させていると思う。
ただ、一番のリアリティをもっているのはやはり主人公であり、上記したファンタジーの女を本物とすれば、主人公の行いは偽物だが本物に限りなく近い。この主人公もややファンタジー的な側面があるが、我々凡人が目指すことができる最高の到達点はおそらく主人公クラスにおける善性だろう。女性ほうのクラスはもはや神である。この作品の唯一人間くさくない人物である。(つまり、やや嘘だ!こんなやつぁいないと感じさせてしまうものがある)
そういう意味では、罪と罰という作品は
リアリティ文学というよりは、ややファンタジー寄りである。これはもちろん褒め言葉である。
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