ウナギの産卵場所から:
ウナギの蒲焼は待つ料理である。良店は客の顔を見てからさばくので、
とかく辛抱が試される。
芳香に暴れる腹の虫をあやし、前菜や酒を退けてこその至福。
この鉄則は値を問わない。松竹梅なら<待つだけうめえ>と読みたい。
「食魔」の発酵学者、小泉武夫さんは、浅草の店で蒲焼を待ちきれず、
泥酔したことがあるそうだ。「本物の鰻食いは出てくるまでが楽しみなんだろうな」と
悟も、後の祭り(『畏敬の食』講談社)
40年近く待った、本物のウナギ好きがいる。蒲焼ではなく卵である。
東大の塚本勝巳教授(62)らが、グアム島の西で日本ウナギの卵を初めて採取した。
1970年代から探し続けた小さな宝石は、たった一日で孵る。
だから欧米系の別種を含め、天然の卵を見た者はいなかった。ウナギの生態は謎めく。
研究チームはまず、日本の川を上る稚魚はマリアナ諸島あたりから海流に乗って来る、と
突き止める。より若い魚を求めて航海を重ね、虹色に光る粒にたどり着いた。
ウナギは春から夏、新月に近い時期に一斉に産卵するらしい。それが海底山脈上の狭い
海域に特定されたことで、稚魚が健やかに育つ条件が見えてくる。
卵から成魚にもっていく完全養殖の実用化も早まるだろう。博識のアリストテレスでさえ
「泥中から生じる」と考えたウナギの神秘に、執念の長旅が終止符を打った。
一心不乱の歳月は裏切らないものだ。国産ウナギは稚魚の不漁を乗り越え、蒲焼がさらに
身近なごちそうになるかもしれない。待つ甲斐はある。
2011.2.8 天声人語より