今月母を亡くしたのに、ずーっと楽しく過ごしている。母にはずいぶん面倒をかけて来たかもしれないが、特に体操の試合の前に試合用の真っ白いパンツや鉄棒、吊り環などで使うプロテクターを準備してくれた。
インターハイに出場した時も同じようにしてくれた。母は高校生だった頃に付き合ってた彼女が妊娠したと思い込んで家にまでやって来たときでさえ、彼女には優しく接してくれていた。
僕は楽観主義のかたまりのようだ。常に現在よりちょっと先を目指していて、過去には殆ど左右されない。仏教的にも物理的にも時空はエンドレスのように閉じている。空間の曲がりが自分の撃った弾丸が自分の後頭部に当たるように、大きく湾曲しているのだ。もちろん弾も光も直進しているにも関わらずに。同じように人生だって時空と全く同じで自分に返ってくる。
楽しくにとは、全て今あるのは仮の姿だって事で、死んでいく後に何も残らない、感じないのと同じなのである。
痛かったのだって永久には続かないし、全て同じ時空の中にある。母が死んで20日になる。
僕の理論では今母は光が20日間で到達する距離の彼方へ到達している事だろう?死んだからといっても物理法則が失われるとは思いたくない。
アンドロメダ星雲までは凡そ200万光年だから未だ未だ銀河系の中にいる。過ぎていくのも同じように、そうだから僕は毎日が悲しみの中にいるのではなく、楽しさの中にいるように暮らすように心掛けている。
飲んだり歌ったり、プレーしたり、読んだり・・。ある意味他人の事はあまり気にしない。それらの人々は自分で考えればいいのであって、他人から拘束される必要はないのだ。
従って自分の人生は自分で考え、行動してもらいたいのだ。自己満足でいいのだ。ニキ・ラウダやシューマッハ・・タイガーやミケルソンと同じステージでなくても、それぞれの設定した舞台がみなに用意されているのだから。