リンムーの眼 rinmu's eye

リンムーの眼、私の視点。

PLATFORM

2010-04-27 | art
練馬区美術館にて「PLATFORM」展を観る。
トップに掲げたのは、本展のポスターにもなっている “マニフェスト”のようなもの。
展覧会の顔ともいえるポスターにテクストだけとは潔い。
「現代美術」について考えさせられる、示唆に富む文章だと思い、転載した次第。
この“マニフェスト”に応答する形で、本展の感想を記してみたい。

「それが現代を生きる私たちの心が生み出した、私たち自身の美術である以上、現代美術は今の自分と切り離された、遠いところにある美術ではなく、いつもの自分の領域に存在する美術、自身に内在する美術として、きっと何かを示してくれるにちがいない。」

「現代美術」は、日常の感覚から遠いもの、難解でとっつきにくいのものだという先入観がある。「現代を生きる私たちの心が生み出した、私たち自身の美術」と思える人はほとんどいないだろう。たとえ現代美術に関心があっても、そう考えることは相当難しい。
「現代美術」は、「現代」から切り離された、ローカルな表現で、分かる人が分かればいい、それでいいのだろうか。

「PLATFORMは、現代美術で考え、現代美術を実感する場。」

「PLATFORM」という展覧会タイトルは面白いと思った。通り過ぎる電車を待つ駅。
「現代美術」は、現代において、“各駅停車駅”だろう。効率主義・実用第一の現代社会のシステムは、特急・快速でビュンビュン進んでいく。常識という名の文脈(コンテクスト)を当たり前だと思っている。
だが、現代美術は、立ち止まり、普段思い巡らすことのない前提を再考する各駅停車駅の役割を担っているのではないか。文脈に区切りを入れる、“句読点の思考”。

本展が開催さている練馬区美術館は、西武池袋線・中村橋駅という各駅停車駅が最寄なのだが、昨年、同じ西武池袋線沿線の所沢駅近郊の車両工場跡地で「引込線」という展覧会が行なわれていたことを思い出す。
「引込線」は、コンテクストから逸れる補助線を「現代美術」で引いてみるという試みだろう。“句読点の思考”に対して、“補助線の思考”。
どちらも鉄道のメタファーで「現代美術」の今日的役割を提示しようとしているところが興味深い。
だが、「プラットフォーム」は、底部・基本部分に位置するものを指し示す用語としても使われているらしいので、こちらの意味で使っているようなら、見当違いの解釈だが。

「2010年の第1回目は、寺田真由美と若林砂絵子。両者の作品の舞台はともに「私の中」。寺田の作品は、純粋なまでに躊躇のない、沸き起こる感情のナレーションを見せ、若林の作品は、今そこに存在する自分と、その先を望む自分の狭間で生じた、喜びと苦悩の造形。」

本展には写真と絵画が展示されている。
タブローは「現代美術」で分が悪い。パフォーマンスやインスタレーションのほうが、分かりやすく現代的な表現という感じがする。
寺田作品は無機的なジオラマをモノクロームで撮影したものだ。無人の空間を見つけて撮っているのかと思ったら、自ら組み立てた模型を使って撮影されたものだった。
凝った手法で内的空間を紡いでいる。
若林作品は抽象画で、タイトルも「untitled[works1~]」と無題でナンバリングされているだけ。そっけない。
どちらも分かりやすいものではない。分かりやすい現代的意匠をまとった「現代美術」を紹介したいわけではない、という意思を感じる。「2010年の第1回目は~」と記しているように、シリーズ化して「現代美術」を紹介していくのだろう。
練馬区美術館が提示する「現代美術」の“各駅停車”の(または「現代美術」の底部の?)PLATFOEM、今後どのような作品をセレクトしキュレーションするのか、期待したい。

「あなたは何を見、何を考え、そして何を実感するだろうか?」

以上、私が「PLATFORM」展を見、考えた、「現代美術」に対する実感である。
あなたもPLATFOMに下車したくなっただろうか。

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