印象派についてつらつらと思うところを書いてみる。
最近、印象派の絵画や、それに関する書籍に触れる機会が多い。機会が多いというか、自ら進んで足を運び、手を伸ばしているわけだが。
展覧会の感想や書評・引用を、並列的に記述したいと思う。
題して「印象派の印象」
横浜美術館で「ポーラ美術館コレクション展 印象派とエコール・ド・パリ」を観た。
フランス近代美術の流れを概観できる「ホンモノでつづられた教科書」のような展覧会。 モネ、セザンヌ、ゴッホ。ピカソ、シャガール、フジタ、モディリアーニ・・・。
そう、印象派といえば、絵画の「教科書」で見る作風なんだ。「いい絵」の基準となるようなもの。
実際、「絵画の鑑賞」しているという、満足感が得られる。さらに、この展覧会は、ゆったりと一点一点間隔をとって展示されていて、気持ちよく観れた。
ポーラ美術館は、国内の美術館で、そこの所蔵作品から選ばれて展示されていた。
横浜美術館自体も、所蔵作品が充実しており、常設展が面白い。特に、シュルレアリスム、写真や版画などに力を入れて収集しており、この展覧会の「エコール・ド・パリ」以後の美術史の流れと連続してみることができる。展覧会→常設展の導線がしっかり引かれているのが、美術館の姿勢としてよいと思った。
展覧会見たら、常設展パスしちゃう人も多いから。
瀬木慎一『名画はなぜ心を打つか』(講談社文庫)は、絵画を見たり考えたりする上で、たいへん示唆に富む本だった。
「見ること」そのことに対する意識、「見る」という経験の潜伏期間に関する認識に、特に教えられることが多い。
「まず、「絵」そのものを見ること、それもよく見ることからすべてがはじまるのである。そして数週間たち、数ヶ月たち・・・とすれば見るという行為がおのずと面白くなり「どう見たらいいか」などといった愚問を発しないようになる。そして気がついてみると、自分自身で、いくらかでも自問自答できる状態になっていることに驚きを覚えるはずである。」
また、
「今までなにげなく聞いていた話や、漠然と読みすごしていた本が意味をもつようになり、がぜん、あらゆるものが教材であることを見出すのである。」
とある。
私自身、そのように感じることも多いから、美術館に行くことや本を読むことに何らかの意義を感じているのだと思う。
ブリヂストン美術館でヘンリー・ムーアの作品展を見たあと、常設展示「印象派から抽象絵画まで」もやっていたのでこちらも見た。
ブリヂストン美術館も、多くの印象派~エコール・ド・パリの有名な作品を所蔵している。
セザンヌやドガも自画像など、それこそ教科書やカタログで見たことがあるものが、そこにある。
それにしても、印象派ってなんでこんなに人気があるんだろう。
「オルセー美術館展」などにも、多くの来場者があったみたいだし、秋には「ゴッホ展」もまたやる。
美術館で、黒字が見込めるのは、印象派がらみの特別展くらいなんじゃないか。
赤瀬川原平がこんな事を書いてる。
「印象派の絵の初々しさというのは、人類史上無上のものだ。何かのための絵ではなく、絵そのものを得た人々の喜びがあふれかえっている。」(『芸術原論』岩波現代文庫)
絵を描くことの原初の喜びが表現されている。だから現代人はそれを求めるのだろうか。
福田和也のWEB上の連載を読んで、印象派についての認識が深まった。
セザンヌを論じる際に、ボードレールの美術批評から語り起こすあたり、スリリングだった。
ボードレールは、『悪の華』などで知られる詩人だが、写真黎明期の肖像写真家ナダールと親交があり、ナダール撮影によるポートレイトが有名だ。
「この頃、彼は書きためた詩から『悪の華』の編集にとりかかっていたはずである。あの痛烈な詩句を書いたと思われないほどにさわやかである。この写真ひとつをとっても、顔を見ることにかけては天才的であったナダールの直感がボードレールの写真を他の人と違うものにしている。」(多木浩二『肖像写真』岩波新書)
写真史にも重要な役割を果たし、印象派に通ずる絵画の歴史にも先駆的な批評を残す・・・。
また、街の「遊歩者」としてのありかたは、19世紀パリの都市論『パサージュ論』を構想したベンヤミンへと接続する・・・。
私の興味関心の方向には、ボードレールが大きく影を落としている。理解もできず『悪の華』を読んでいた高校生の頃には、思いもよらないことだった。
福田和也からリンクして小林秀雄『近代絵画』を読んだ。
ここでも、ボードレールの美術批評から語り起こされている。
小林秀雄は、ゴッホやゴーギャンを語る際にランボーやベルレーヌを引き合いに出す。
文芸評論家だから当たり前かもしれないが、私としては理解しやすい。
小林秀雄『近代絵画』はたぶん難解だろうと敬遠して読んでこなかったが、以上のような絵画体験や読書体験を経てひもとくと、思いのほかクリアに読めた。
「漠然と読みすごしていた本が意味をもつようになり、がぜん、あらゆるものが教材であることを見出す」
このような認識が自分にとって重要なのだということが、あれこれ印象派をめぐってあれこれ考えてきて、分かったことだ。
最近、印象派の絵画や、それに関する書籍に触れる機会が多い。機会が多いというか、自ら進んで足を運び、手を伸ばしているわけだが。
展覧会の感想や書評・引用を、並列的に記述したいと思う。
題して「印象派の印象」
横浜美術館で「ポーラ美術館コレクション展 印象派とエコール・ド・パリ」を観た。
フランス近代美術の流れを概観できる「ホンモノでつづられた教科書」のような展覧会。 モネ、セザンヌ、ゴッホ。ピカソ、シャガール、フジタ、モディリアーニ・・・。
そう、印象派といえば、絵画の「教科書」で見る作風なんだ。「いい絵」の基準となるようなもの。
実際、「絵画の鑑賞」しているという、満足感が得られる。さらに、この展覧会は、ゆったりと一点一点間隔をとって展示されていて、気持ちよく観れた。
ポーラ美術館は、国内の美術館で、そこの所蔵作品から選ばれて展示されていた。
横浜美術館自体も、所蔵作品が充実しており、常設展が面白い。特に、シュルレアリスム、写真や版画などに力を入れて収集しており、この展覧会の「エコール・ド・パリ」以後の美術史の流れと連続してみることができる。展覧会→常設展の導線がしっかり引かれているのが、美術館の姿勢としてよいと思った。
展覧会見たら、常設展パスしちゃう人も多いから。
瀬木慎一『名画はなぜ心を打つか』(講談社文庫)は、絵画を見たり考えたりする上で、たいへん示唆に富む本だった。
「見ること」そのことに対する意識、「見る」という経験の潜伏期間に関する認識に、特に教えられることが多い。
「まず、「絵」そのものを見ること、それもよく見ることからすべてがはじまるのである。そして数週間たち、数ヶ月たち・・・とすれば見るという行為がおのずと面白くなり「どう見たらいいか」などといった愚問を発しないようになる。そして気がついてみると、自分自身で、いくらかでも自問自答できる状態になっていることに驚きを覚えるはずである。」
また、
「今までなにげなく聞いていた話や、漠然と読みすごしていた本が意味をもつようになり、がぜん、あらゆるものが教材であることを見出すのである。」
とある。
私自身、そのように感じることも多いから、美術館に行くことや本を読むことに何らかの意義を感じているのだと思う。
ブリヂストン美術館でヘンリー・ムーアの作品展を見たあと、常設展示「印象派から抽象絵画まで」もやっていたのでこちらも見た。
ブリヂストン美術館も、多くの印象派~エコール・ド・パリの有名な作品を所蔵している。
セザンヌやドガも自画像など、それこそ教科書やカタログで見たことがあるものが、そこにある。
それにしても、印象派ってなんでこんなに人気があるんだろう。
「オルセー美術館展」などにも、多くの来場者があったみたいだし、秋には「ゴッホ展」もまたやる。
美術館で、黒字が見込めるのは、印象派がらみの特別展くらいなんじゃないか。
赤瀬川原平がこんな事を書いてる。
「印象派の絵の初々しさというのは、人類史上無上のものだ。何かのための絵ではなく、絵そのものを得た人々の喜びがあふれかえっている。」(『芸術原論』岩波現代文庫)
絵を描くことの原初の喜びが表現されている。だから現代人はそれを求めるのだろうか。
福田和也のWEB上の連載を読んで、印象派についての認識が深まった。
セザンヌを論じる際に、ボードレールの美術批評から語り起こすあたり、スリリングだった。
ボードレールは、『悪の華』などで知られる詩人だが、写真黎明期の肖像写真家ナダールと親交があり、ナダール撮影によるポートレイトが有名だ。
「この頃、彼は書きためた詩から『悪の華』の編集にとりかかっていたはずである。あの痛烈な詩句を書いたと思われないほどにさわやかである。この写真ひとつをとっても、顔を見ることにかけては天才的であったナダールの直感がボードレールの写真を他の人と違うものにしている。」(多木浩二『肖像写真』岩波新書)
写真史にも重要な役割を果たし、印象派に通ずる絵画の歴史にも先駆的な批評を残す・・・。
また、街の「遊歩者」としてのありかたは、19世紀パリの都市論『パサージュ論』を構想したベンヤミンへと接続する・・・。
私の興味関心の方向には、ボードレールが大きく影を落としている。理解もできず『悪の華』を読んでいた高校生の頃には、思いもよらないことだった。
福田和也からリンクして小林秀雄『近代絵画』を読んだ。
ここでも、ボードレールの美術批評から語り起こされている。
小林秀雄は、ゴッホやゴーギャンを語る際にランボーやベルレーヌを引き合いに出す。
文芸評論家だから当たり前かもしれないが、私としては理解しやすい。
小林秀雄『近代絵画』はたぶん難解だろうと敬遠して読んでこなかったが、以上のような絵画体験や読書体験を経てひもとくと、思いのほかクリアに読めた。
「漠然と読みすごしていた本が意味をもつようになり、がぜん、あらゆるものが教材であることを見出す」
このような認識が自分にとって重要なのだということが、あれこれ印象派をめぐってあれこれ考えてきて、分かったことだ。
このブログ記事で考えたことが補強される内容だった。
印象派が、近代という時代の価値を表す表現だったんだということが分かりやすく語られていた。
図版も多く、楽しんで読めた。