シュッツのもろ天(もろもろの天は神の栄光を語る(Die Himmel erzählen die Ehre Gottes))の話の続きである。その出だしはこうなのだが、
調号が♯一つだから階名で読むと出だしのソプラノ2は「レーファーミミレレ……」となる(今回に限っては、ABCは絶対音を、ドレミファは階名を表す)。だが、それだと音をとりにくい、どうみてもこれは、Aを主音とする短調、すなわち、イ短調ではないか?調号の♯をとっぱらって「ラードーシシララ」とした方が歌いやすい、と言う人がいる。他方「レーファー……」で全然問題ない、と言う人もいて、そういう人は古楽から音楽に入った人である。
そう、これは、教会旋法(ふるーーーい音階)の一つであるドーリア旋法(の名残り)で書かれた曲なのである。ドーリア旋法は第一旋法とも言われていて、レを起点とする「レミファソラシ」の音階である。第二音(ミ)と第三音(ファ)の間が狭いから現在のニ短調っぽいが第五音(ラ)と第六音(シ)の間が広いところがニ短調と違うところである。つまり、シの♭のとれたニ短調って感じである(逆に、ドーリア旋法のシに♭を付けるとニ短調になる)。短調と長調の間みたいな感じである。この「レ」は絶対音を意味しないから、いろんな絶対音を起点とするドーリア調が可能である。例えば、Cを起点とすると、CD♭EFGAのドーリア調となる。Aに♭を付ければ今日のハ短調になる。
だから「もろ天」の出だし(レーファーミミレレ)はレを主音としたドーリア旋法である。そのため短調ぽいが、ラとシの間は広くて(階名のシに相当する絶対音Fに♯が付いている。「♯が付く」と「♭をとる」は同義である)、そこが短調ぽくないところで……え?三小節目のソプラノ1のシ(F)の♯がとれている!? この♯のおかげでドーリア旋法になってるのにとれちゃったらドーリア旋法じゃないじゃん。これじゃ現代の短調と同じじゃん。なぜだ?(分かっているのにびっくりした風を装う私。何度もリハをするから実際は驚いてないのに驚いたふりをするNHKの出演者のよう)
実は、シュッツの時代は教会旋法の時代から500年経っていて、現代の長調短調に近い感覚が生まれている。実際、シュッツの100年後のバッハになると、「管弦楽組曲第2番ロ短調」と言うようにはっきり長調短調が市民権が得ている。だから、第6音の♯がとれる(=♭が付く)ことがあるのである。それでも、ときどきはドーリア旋法を思い出す。例えば、「もろ天」の少し行って全合唱になるところ、
ソプラノ1のシ(F)の♯が復活している。だが、二小節行くとまたとれる。こんな風に、楽譜上はドーリア旋法を採用しながらときどきドーリア組から足を洗おうとふらふらしているのがシュッツであり「もろ天」なのである。
ところで、完全に長調短調の世界になったはずのバッハであるが、ヨハネ受難曲の終曲の一つ前の合唱曲は明らかにCを主音とする短調(ハ短調)でありながら、その楽譜(冒頭)はこうなっている。
ハ短調なら調号の♭が三つのはずが二つしかない(Aの♭がない)。階名で読むと「ファレラー」であり、レを主音とするドーリア旋法である。だが、階名のシ(絶対音のA)にはことごとく臨時記号で♭が付いている。だったら調号からして♭を三つにして(Aに♭を付けて)、正直に「ハ短調です」と言えばいいと思うのだが、よほど、ドーリア旋法の呪縛に縛られているのだろう。バッハのコラールはこのパターンだらけである。
因みに、イングランド民謡のグリーンスリーブスはドーリア旋法ぽいと言われている。
なるほど、「ラーシラ」の「シ」に♭が付いてない。なお、「スリーブス」の「スリーブ」は「ノースリーブ」の「スリーブ」、すなわち「袖」の意味だという。
ドーリア旋法をドイツ語で言うと「ドーリッシャー・モードゥス」、英語で言うと「ドリアン・モード」。ときどき英語風にドーリア旋法を「ドリアン」と言う人がいるが、臭いの強烈な果物のドリアンとごっちゃになってうまくないと思う(果物のドリアンは食べたらうまいのだろうか)。
タイトルを「ドーリア旋法の呪縛」としたが、昨日、「もろ天」について書いたらドーリア旋法のことも書かなければいけないという呪縛に私はとりつかれて、それが悪夢となって夜中に何度も目が覚めた。理由は分からない。とにかく、これで今夜はよく眠れそうである。
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