漕手のやんごとなき日常

~立教大学体育会ボート部の日常を漕手目線で~

夢に駆ける 4年篠原

2021-10-28 07:05:00 | 自己満
こんにちは

4年女子部副将の篠原です。
(副将っぽさがない人間なのであえて言いました。)

最後の日記ですね。

引退後はこのように自分に関してアウトプットする場所はなかなかないと思うので、最後に思いっきり残したいと思います。

4年間で書いた日記を読み返してみましたが…



全然おもんないですね!!
投稿当時は「めちゃおもろいの書けたやん!」って思って書いてるんですよ

なのに時間が経って読み返すと、全然面白くなくて驚きました。
ま、自己満ブログなのでご容赦ください🙌

最後なので事件簿でも貼ろうと思います。

1年5月
初の退部者。森田が男泣きする。
1年7月
豪が山口を泣かせる。
その晩、山口から謝罪ラインがくる。
1年8月
豪、サマーランドに行って高熱を出す。
1年10月
勇作、4年の全日本付きペアで優勝する目標ができる。
(翌年、付きペアは種目から消える…)
1年1月
同期女子で1時間エルゴ。その後銭湯に行き、先輩方に全員での脱走を疑われる。
岩崎三嶋は曲のコールで盛り上がり、篠原はウルトラソウルでヘイ!が言えない。
五十嵐のどかは銭湯のタイルで肩幅を図り、佐藤は財布を忘れて人に借りる。
2年4月
肋骨負傷により艇庫で泣き暴れる。
2年6月
篠原脱走。
ほとんどの人に怪しまれずにやり過ごした。
2年9月
橋本主将、男泣き。
2年10月
レースで後ろの人のオールが折れる。
2年11月
本気で退部(休部)を試みる。(しかしHoAに出していただき生き長らえる。)
2年2月
遠征先宿舎が寒過ぎて、ベンチコートで3晩を明かす。五十嵐のどかはムスクの香りを撒き散らす。
2年3月
消えた同期ディズニー。(2日前に閉園が決定。)
3年9月
榮原内閣入閣
3年10月
黒船襲来(訳:アド来日)
3年12月
佐藤(理)と冬のベランダで1on1
4年8月
艇庫で動物占いを流行らせる。
インカレ全日本延期、人目を憚らず喚く。


事件簿とか、過去の日記とかを読んでいて再認識しましたが、
私のボート部生活約1300日間、その大半は負の感情とともにありました。
総じて、ボートという競技に苦しんだ3年半でした。

自分がどんなに頑張ってもできないこと、
出せない結果を

周りの同期が当たり前のようにこなしていく姿を見るのが本当に本当に辛かったです。
(実はものすごい努力をしているけど見せていないだけとかそういうのはUターンで。真相はどうであれ、そういう風に見えてるという事実だけで私は追い込まれました。)

9人一緒に船外へ投げ出されたのに
自分だけが故障して長期離脱を余儀なくされた時は
なんで自分だけ?と腹が立って仕方なかったです。
その反面、他の誰かが故障する場合と比べて、最も女子部にとっての損失が少ないと思ったのも事実です。

こんなことを思う自分にも嫌気がさして、
引退まで残り100日を切っていましたが本気で辞めたいと思いました。

1年に1回は本気で退部を考えながらここまで来ました。

ここまで生き長らえたのは、
自分がいなくても成立するボート部を見たくなかったからです。

私がいないところで同期が頑張り続ける世界線を見たくなかった、
という言い方の方が正しいでしょうか?

他人の出来事を心から喜んで、悲しんで、心配して、
そんな同期と離れる世界線は私にとって考えられませんでした。

恐らく、私1人が欠けたところで
立教大学体育会ボート部は滞りなく動き続けるでしょう。
同期のみんなも、語り草程度には思い出に残るかもしれないですが
「あいつがいればな〜〜〜」とはならないでしょう。

そんなわかりきったことを認めたくなかった。
ただそれだけです。

ひとりじゃないよって言ってくれるみんなと
最後まで駆け抜けること自体が
私にとっての夢だったのかもしれません。

唯一胸を張って、誰にも負けない!と思えるのは強かさくらいです( ´ ▽ ` )
この立教大学ボート部という場所にしがみつくために
わたしは誰よりも強かにやってきました。

したたかさが功を奏したのか、
繰り上げで今日のレースへの出場が決まりました。

昨日のレースは、

いくら待っても娘が来ないなぁと思った母が洗濯物を干しに行ってしまい、
レースの様子を見てもらうことができなかったので
今日はしっかり自分のレースで2000m漕ぎ切ります。

それでは行ってきます👋👋

今シーズンラスト、かつ4年生最後は
みしまです🐣


※ネタバラシ
今までの日記のタイトルはほぼ嵐さんの楽曲から持ってきました💙❤️💚💛💜