学会発表は無事に終了。大学のプロジェクト学習の実践報告だったので、さらりと終了。データなど、難しいことは一切なし。
私がいたセッションは他と比べてかなりにぎわっていたようで、
参加していた他の先生が「盛況でしたねー、どの発表もみんな前のめりになって聞いていましたよ」と。
新しい教育のスタイルとしてワークショップが注目されてはや数年、依然としてなんだかよくわからない分野であることに変わりはない。けれど、なんだかよくわからないものには、いろんな可能性があるように見えるのだろう。活気があるのはよいこと。
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新潟の夜はおいしいお魚をたくさん食べた。
わかっているようでわかっていないZPDの話、アフォーダンスとコンストラクティビズム、コンストラクショニズムの話、かなりお勉強されている大学の先生方にお会いして、久しぶりにいろんな理論について考えた。原典を読みたいな、と久しぶりに思った。
ひとつの理論を理解するには、やっぱりその理論を提唱した人がまず何者だったのかをはっきりさせるところから。
ピアジェは心理学者だったから、やっぱり最終的には「個」にかえる。教育の世界でメインストリートであっても、彼が教育について論じたことは実はひとつもない。しかも最初は生物学者だったのね。観察がかなり好きだったよう。
ヴィゴツキーは社会、教育学の人。理論にはおのずと「他者」が入ってくる。
両者はよく比較され、その違いが受験参考書のように明解に解説されている場合がある。でも本当は立ち位置が違うのだから、というか、所属していた分野が違うのだから、世界の見え方が違うはずなのだ。生物好きから発した心理学者が見ていたもの、社会・教育学者が見ていたもの、視点の違いから論ずるべきで理論としてできあがったその上辺だけを比較しても仕方ない。
ところで、「○○学の立場として言わせてもらうと、、、」なんて、すっぱりと自分のアイデンティティを表明できて意見するような機会、私にはないな、と思った。教育心理学、カウンセリング、教育工学、デザインも好きだし。いつも領域と領域の「際」にいる。ていうか、自分の生活自体がけっこうそうだ。日本とアメリカのはざまで生きていたり、関西と関東の間で生きていたり、いつも自分にとって絡み合う領域と領域のあいだっこにいる。
それはちっとも悪いことじゃないけれど。
「際」にあるそのあいまいさとか、かけ算できるところとか、2つを見られるところとか。「間」であるゆえになんだかよくわからないエネルギーのうごめきとか。そういうのが好きなんだろうな、私は。