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NHK大河ドラマ「義経」見てますか?
私は歴史が昔から苦手。
鎌倉幕府なんて1192年イイクニ作ろう鎌倉幕府しか知りません。
義経が征夷大将軍になるって思ってたぐらいです。
そこで教科書を読んでみました。
大河ドラマの範囲は教科書でいうと
全317ページのうちのたった3ページ!
文字にすると結構多い感じがしますが・・・
この狭い範囲の中をドラスチックに描いてるんですね。
義経も成長したし、今日からマツケンが出そうだし
楽しみです!
リンク追加 大河ドラマ「義経」
以下教科書3ページ分のネタバレ「義経」
携帯電話だとシンドイです。
鎌倉幕府
保元・平治の乱
1156(保元元)年,後白河天皇と崇徳上皇が,皇位の継承をめぐってはげしく対立した。これに,藤原氏も,兄弟の争いがもとで,二手に分かれて加担し,ついに戦いの火ぶたが切って落とされた(保元の乱)。戦乱としては決して大規模なものではなかったが,都を舞台とした天皇と上皇の争いに,武士が大きな力を発揮したことで,この乱は武士が政治への発言力を増していく転機となった。藤原氏出身の僧である慈円が書いた『愚管抄』という歴史書では,この乱から「武者の世」に移ったとしている。保元の乱ののち,源氏と平氏の対立が深まり,1159(平治元)年に争いがおこった(平治の乱)。この争いで,平清盛が源義朝を破り,平氏が武士の中でもっとも有力な勢力にのし上がった。
平氏の政権
平清盛は,後白河上皇との関係を深め,力をたくわえて,武士として初めて朝廷の最高の地位である太政大臣にまでのぼりつめた。また,藤原氏と同様に娘を天皇の后とし,生まれた皇子を天皇に立て,その外戚となって,いよいよ大きな権力をわがものにした。一族も多数、朝廷の高い地位につき,多くの荘園を手に入れ,全国の半分近くの地方を治める権限をにぎった。さらに清盛は,大輪田泊を整備して,宋の商船を招くなど,日宋貿易に力を尽くし,莫大な利益をあげた。こうして平氏は,平氏の一族でない者は人ではないといわれるほど栄えた。
源平合戦
しかし,平氏の繁栄も長くは続かなかった。平氏は後白河上皇との対立を深め,その院政を停止して,清盛の娘が産んだ安徳天皇を皇位につけた。すると,後白河上皇の皇子である以仁王がこれに反発し,彼のよびかけにこたえて,各地の武士が,次々と平氏打倒の兵を挙げた。その中で,特に強大なのは,源義朝の子の頼朝の勢力だった。源頼朝は,鎌倉を根拠地として,関東の武士と主従関係を結んで,関東の支配を固める一方,朝廷の命を受けて弟の義経らを派遣し,平氏の討伐に当てた。義経らは,安徳天皇を奉じて都から落ちのびていた平氏を,各地の合戦で討ち,1185(文治元),ついに壇ノ浦(山口県下関市)でほろぼした。
鎌倉幕府の成立
平氏滅亡ののち,頼朝は朝廷の承認を受けて地方の国ごとに守護を,荘園や公領に地頭を置いた。守護は,その国の武士を指揮して,軍事・警察の仕事につき,地方の政治にも関与した。地頭は,年貢の取り立てや,土地の管理などを行った。また,頼朝は,対立するようになった義経が奥州の藤原氏のもとにのがれると,その勢力を攻めほろぼして,東北地方も支配下に入れた。1192(建久3)年,後白河上皇の没後,頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命された。征夷大将軍は,もともと蝦夷を討つ朝廷の軍の指揮官のことだったが,頼朝が任命されたことで,全国の武士の総大将の地位をあらわすことになった。頼朝は鎌倉で,簡素で実際的な武家政治の拠点を築いた。これを鎌倉幕府とよび,鎌倉に幕府が置かれた約140年間を,鎌倉時代という。
私は歴史が昔から苦手。
鎌倉幕府なんて1192年イイクニ作ろう鎌倉幕府しか知りません。
義経が征夷大将軍になるって思ってたぐらいです。
そこで教科書を読んでみました。
大河ドラマの範囲は教科書でいうと
全317ページのうちのたった3ページ!
文字にすると結構多い感じがしますが・・・
この狭い範囲の中をドラスチックに描いてるんですね。
義経も成長したし、今日からマツケンが出そうだし
楽しみです!
リンク追加 大河ドラマ「義経」
以下教科書3ページ分のネタバレ「義経」
携帯電話だとシンドイです。
鎌倉幕府
保元・平治の乱
1156(保元元)年,後白河天皇と崇徳上皇が,皇位の継承をめぐってはげしく対立した。これに,藤原氏も,兄弟の争いがもとで,二手に分かれて加担し,ついに戦いの火ぶたが切って落とされた(保元の乱)。戦乱としては決して大規模なものではなかったが,都を舞台とした天皇と上皇の争いに,武士が大きな力を発揮したことで,この乱は武士が政治への発言力を増していく転機となった。藤原氏出身の僧である慈円が書いた『愚管抄』という歴史書では,この乱から「武者の世」に移ったとしている。保元の乱ののち,源氏と平氏の対立が深まり,1159(平治元)年に争いがおこった(平治の乱)。この争いで,平清盛が源義朝を破り,平氏が武士の中でもっとも有力な勢力にのし上がった。
平氏の政権
平清盛は,後白河上皇との関係を深め,力をたくわえて,武士として初めて朝廷の最高の地位である太政大臣にまでのぼりつめた。また,藤原氏と同様に娘を天皇の后とし,生まれた皇子を天皇に立て,その外戚となって,いよいよ大きな権力をわがものにした。一族も多数、朝廷の高い地位につき,多くの荘園を手に入れ,全国の半分近くの地方を治める権限をにぎった。さらに清盛は,大輪田泊を整備して,宋の商船を招くなど,日宋貿易に力を尽くし,莫大な利益をあげた。こうして平氏は,平氏の一族でない者は人ではないといわれるほど栄えた。
源平合戦
しかし,平氏の繁栄も長くは続かなかった。平氏は後白河上皇との対立を深め,その院政を停止して,清盛の娘が産んだ安徳天皇を皇位につけた。すると,後白河上皇の皇子である以仁王がこれに反発し,彼のよびかけにこたえて,各地の武士が,次々と平氏打倒の兵を挙げた。その中で,特に強大なのは,源義朝の子の頼朝の勢力だった。源頼朝は,鎌倉を根拠地として,関東の武士と主従関係を結んで,関東の支配を固める一方,朝廷の命を受けて弟の義経らを派遣し,平氏の討伐に当てた。義経らは,安徳天皇を奉じて都から落ちのびていた平氏を,各地の合戦で討ち,1185(文治元),ついに壇ノ浦(山口県下関市)でほろぼした。
鎌倉幕府の成立
平氏滅亡ののち,頼朝は朝廷の承認を受けて地方の国ごとに守護を,荘園や公領に地頭を置いた。守護は,その国の武士を指揮して,軍事・警察の仕事につき,地方の政治にも関与した。地頭は,年貢の取り立てや,土地の管理などを行った。また,頼朝は,対立するようになった義経が奥州の藤原氏のもとにのがれると,その勢力を攻めほろぼして,東北地方も支配下に入れた。1192(建久3)年,後白河上皇の没後,頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命された。征夷大将軍は,もともと蝦夷を討つ朝廷の軍の指揮官のことだったが,頼朝が任命されたことで,全国の武士の総大将の地位をあらわすことになった。頼朝は鎌倉で,簡素で実際的な武家政治の拠点を築いた。これを鎌倉幕府とよび,鎌倉に幕府が置かれた約140年間を,鎌倉時代という。
弁慶として暴れまくるマツケンに一抹の
寂しさを感じてしまったり・・・
>備後さん
はじめまして。
私は漫画「日本の歴史」でなんとなく
覚えてる程度です。
勧進帳って義経が殴られるエピソードですね.
ありましたありました。
次は五条大橋ですね。楽しみです。
>クローカさん
携帯で打つつもりでしたが、途中で挫折して
スキャナでとりました。
blog自体が現実逃避であります。
>来週は見るの止めちゃうかも。
これから盛り上がるところじゃないですか!
やめるなんてもったいない!
次は弁慶がサンバを踊るかもしれないですよ?
次は古文の時間に暗記させられた
那須与一の話をネタバレしようかな・・・
でも、なんかいつもくら~い感じがして
もう止めようかな...って挫折気味です。
記事の内容、全部携帯で打ったんですか?
すごい!S.maeさん、現実逃避??
この内容で十分そうなので
来週は見るの止めちゃうかも。
などで知ったのでしょう。
大河ドラマ「義経」の第1回、第2回は良かったですね。今晩も必ず見ます。