ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

神田明神

2013年05月11日 22時55分30秒 | 近郊地散策

神田明神 は神田祭でした。<ahref="http://101.dtiblog.com/t/tuutyann/file/20130511221825.jpg" target="_blank">神田明神:HPより、正式名称「神田神社」。神田祭をおこなう神社として知られる。神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。旧社格は府社(明治3年(1870年)まで准勅祭社)。
江戸時代には神田明神と名乗り、周辺の町名にも神田明神を冠したものが多くあったが、明治に入って神社が国家の管理下にはいると、明治元年(1868年)准勅祭社に指定され、その後、府社に列せられ、1872年に正式の社号が「神田神社」に改められた。明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、戦後昭和59年(1984年)になって本社祭神に復帰した
現在は神社本庁の別表神社となっている。また旧准勅祭社の東京十社の一社である。隨神門
本殿神田祭は、江戸時代から変わることなく貴重な祭礼文化として継承されており、2年に1度のペースで行われていましたが、2年前は東日本大震災の影響で中止になり、今年は4年ぶりの開催となりました。石獅子祭神:一ノ宮に大己貴命(オオナムチノミコト、だいこく様)、二ノ宮に少彦名命(スクナヒコナノミコト、えびす様)、三ノ宮に平将門命(タイラノマサカドノミコト、まさかど様)の3柱を祀る。
大黒様えびす様
神田明神の男坂です。愛宕神社ほど急階段ではありませんでした。
銭形平次野村胡堂の代表作「銭形平次捕物控」の主人公・銭形平次が当神田明神下の長屋に住居を構えていたという設定から、敷地内の本殿右手横に「銭形平次の碑」があります。銭形平次は架空の人物です。


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湯島聖堂

2013年05月11日 21時43分18秒 | 近郊地散策
秋葉原で前の職場の同僚と会うことになっていたので、少し早めに出かけて、御茶ノ水から神田川を渡って聖橋湯島聖堂と神田明神に寄ってみました。湯島聖堂湯島聖堂2湯島聖堂3昌平坂学問所湯島聖堂のHPより:湯島聖堂は、もと上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣・林羅山の邸内に設けられた孔子廟(先聖殿)を元禄3年(1690)、五代将軍綱吉がここに移し、先聖殿を大成殿と改称して孔子廟の規模を拡大・整頓し、官学の府としたのが始まり。この時からこの大成殿と附属の建造物を総称して「聖堂」と呼ぶようになった。
こののち、寛政9年(1797)十一代家斉のとき規模を拡大し「昌平坂学問所」を開設、官学のとしての威容も整った。この時の設計は、かつて朱舜水(中国明朝の遺臣)が水戸徳川光圀のために製作した孔子廟の模型が参考にされた。また、これまで朱・緑・青・朱漆などで彩色されていたものを黒漆塗りとした。
現在のものは、大正12年(1923)9月1日関東大震災により、罹災、入徳門・水屋を残し全て焼失、これを斯文会が復興計画を立て、昭和10年(1935)に再建したものである。復興聖堂の規模結構すべて寛政9年当時の旧聖堂に拠り、木造であったものを耐震耐火のため鉄筋コンクリート造りとした。祀られる孔子像は、朱舜水亡命時に携えて来たものが大正天皇に献上されていたもを御下賜された御物である。
入徳門入徳門入徳門-入徳とは、朱熹の「大学章句序」「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」による。上野忍ヶ岡の林家の先聖殿創建時にも入徳門有り。曲阜の孔子廟には無い。江戸官学・朱子学の影響か。聖堂内、唯一の木造建造物。
大成殿湯島聖堂4
間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル、入母屋造り。
大成とは、孔子廟の正殿の名称。 宋(北宋)の仁宗のとき命名。
「孟子」万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基づく。
殿内、中央の神龕(厨子)に孔子像。左右には四配として孟子・顔子・曽子・子思の四賢人を祀る。

孔子銅像孔子像
昭和50年(1975)中華民国台北市 ライオンズ・クラブからの寄贈。
11月3日除幕式を挙行した。 丈高15呎[4.57メートル]重量約1.5トンの孔子の銅像は世界最大。
楷樹の木楷樹楷樹の由来
楷 かい 学名 とねりばはぜのき うるし科
PISTACIA CHINENSIS,BUNGE(Pistacia Chinensis Regel)
楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で、初め子貢が(孔子の墓所に)植えたと伝えられ、今日まで植えつがれてきている。枝や葉が整然としているので、書道でいう楷書の語源ともなったといわれている。
わが国に渡来したのは、大正四年、林学博士白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り、東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てたのが最初である。これらの苗は当聖廟をはじめ儒学に関係深い所に頒ち植えられた。


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