ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

九品仏浄真寺

2013年05月30日 01時09分22秒 | 訪問地周辺

自由が丘を訪問しました。自由が丘駅を検索していたら、元は九品仏前駅だったということで、近くに九品仏のお寺があるということで散策しました。
何故、駅名が自由が丘になったのかというと、近隣にある九品仏浄真寺は9体の阿弥陀如来像を安置していることから「九品仏」(くほんぶつ)と呼ばれていたため、駅設置当時はこの最寄り駅として「九品仏前駅」としました。大井町線の開業に伴いより寺に近い場所に「九品仏駅」が設置されることになったため、駅所在地が荏原郡碑衾村大字衾(ふすま)にあることから「衾駅」に改めるはずでしたが、その頃大字が自由ヶ丘に改められたため、「自由ヶ丘駅」に改称したということです。
総門浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城でした。小田原征伐後同城は廃城となりましたが、寛文5年(1675年)に当地の名主七左衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678年)、珂碩(かせき)が同地に浄真寺を開山しました。
閻魔大王の裁判:山門をくぐって左手に「衣領樹(えりょうじゅ)」と書いた木があり、「懸衣翁(けんえおう)」の札がかかっています。 右手に閻魔大王の入った閻魔堂があり大王の横に「葬頭河婆(そうずかば) =  奪衣婆(だつえば)」が控えています。
これらの木や閻魔堂には次の意味があります。人は死ぬと七日目には三途の川の辺に到着するそうです。
ここには、人が冥土に行く為には、渡らなければならない三つの川、「葬頭川(そうずがわ)」三瀬川(みつせかわ)「渡り川」があります。川の流れは三つに分かれていて、前世の行為(業)にしたがって、それぞれに ふさわしい流れを渡ることになるそうです。
三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことですが、この川の辺に上記の衣領樹 (えりょうじゅ)という木があります。木の下には「奪衣婆(だつえば)」という老婆がいて、木の上には「懸衣翁 (けんえおう)」というお爺さんがのっています。お婆さんが着ている衣類を脱がせ、木の上のお爺さんに渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる。枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けです。
その「懸衣翁」と「奪衣婆」が、35日目の閻魔大王の裁判に、陪席している ので、嘘の申告は出来ないのだそうです。
閻魔堂の先に六地蔵が並んでいます。
六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)の入口に立ち、衆生の苦を救うと言う有り難いお地蔵さんなのだそうです。地蔵さんの先を左手に行くと仁王門です。
仁王門の楼上には、阿弥陀如来と二十五菩薩が安置されており、「お面かぶり」のお面は、この楼内にある二十五菩薩の顔のお面だと言われています。 仁王門から先が極楽浄土を表し、仁王が極楽を守っています。仁王門の額には「紫雲楼」と書かれており、これは紫の雲に乗って、阿弥陀如来と二十五菩薩が来迎するからだそうです。
さらに進むと右手に本堂があります。
本堂は西向きで現世(此岸(しがん))を現わし、三仏堂は東向きで浄土(彼岸)を現 しているそうです。本堂には御本尊の釈迦如来像が祀られています。浄真寺は浄土宗のお寺で、一般に浄土宗のお寺の本尊は阿弥陀如来ですが、浄真寺は九品仏があるので、本尊はお釈迦様だそうです。九品仏はそれぞれ三体ずつ、上品堂、中品堂、下品堂に祀られています。

上品堂です。こちらには坐禅をする時のように手をお腹の前で組んだ禅定印の阿弥陀如来像が三体安置されていました。
中品堂下品堂
本堂と上品堂との間
浄真寺では、三年に一度行われる「お面かぶり」という相続行事(無形文化財にも指定されている)があります。この時は、九品佛の本堂を現世、上品堂を浄土に見たてて、その間に懸橋、白道をかけ、25の菩薩に扮した信者が金色の面、光背をつけ、衣装をまとって練り渡るものだそです。

仁王門の斜め前には、都指定文化財の鐘楼があります。syourou1これは本堂の近くにある東京都天然記念物のイチョウの木です。
帰りがけに、総門から見た参道です。
参道は「二河白道(にがびゃくどう)」を表しているそうです。火の河と荒れ狂う河に挟まれた白い細い道、白道は浄土往生を願う信心の道で一心不乱に念仏を唱えて極楽浄土へ渡ろうということを意味しているそうです。

何も知らず、ただ訪問地の近くにあるからと、社寺仏閣を訪ねていますが、家に帰って調べてみると、いろいろなことがわかり勉強になります。

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