ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

東京都美術館

2013年05月17日 23時12分19秒 | 近郊地散策
知人から職美展の招待券をいただき上野の東京都美術館でに行ってきました。都美術館職美協(全日本職場美術協議会)とはHPより
 戦争が終わって平和と民主主義の時代を迎えた1947年6月、東京都美術館において第1回展を開催。働く人々が自由に絵を描けるようになってサークルを作り、自分たちの手で全国的な展覧会を開く世界でも初めての事でした。
 私たちが新しい文化を築くという熱い想いで様々な困難を乗り越えて半世紀以上がたちました。審査や賞を無くして、作品の種類・大きさ・巧拙などで選別せず、自由に見ていただく展覧会です。
印象に残った絵は絵1
「洋上から眺める原発列島の夜炎」大野 一夫さんのものでした。米軍が震災の時に洋上に駆けつけて見ているものと思われます。
絵2誘っていただいた田中栄子さんの「枯葉剤の森」です。写真家の中村悟郎氏の写真をもとに作成したそうです。
上野公園は修学旅行生などでにぎわっていました。

上野には国立西洋美術館が上野駅の公園口を出たすぐのところにあります。西洋美術館国立西洋美術館はフランス政府から寄贈返還された松方コレクション(印象派の絵画およびロダンの彫刻を中心とするフランス美術コレクション)を基礎に、西洋美術に関する作品を広く公衆の観覧に供する機関として、1959(昭和34)年4月に発足しました。以来、広く西洋美術全般を対象とする唯一の国立美術館として、展覧事業を中心に、西洋美術に関する作品および資料の収集、調査研究、修復保存、教育普及、出版物の刊行等を行っています。
ちょっと寄ってみました。前庭には教科書で有名なロダンの考える人や考える人カレー市民カレーの市民の彫刻がありました。
1970年から74年まで、上野を管轄する保健所に勤めていたので、上野の山にある施設に出向いた時、ロダンの考える人は教科書に載っていたものだという感慨をもって眺めていました。


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上野東照宮

2013年05月17日 22時02分33秒 | 近郊地散策

上野東照宮に寄ってみました。東照宮のHPより、1616年、2月4日、お見舞いのために駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は、危篤の家康公の病床に招かれ、三人一つ所に末永く魂鎮まるところを作ってほしいという遺言を受けました。そこで藤堂家の屋敷地であった上野に1627年に東照宮を造営しました。1646年には正式に東照宮の宮号を授けられました。
1651年に三代将軍・徳川家光公が大規模に造営替えをしたものが、現存する社殿です。金箔をふんだんに使い、大変豪華であったことから「金色殿」とも呼ばれています。 当時は東叡山寛永寺の一部でしたが、戦後神仏分離令により寛永寺から独立しました。 その後、戦争や震災などの災厄に一度も倒れることなく、江戸の面影をそのまま現在に残す、貴重な文化財建造物です。
東照宮とは、徳川家康公(東照大権現)を神様としてお祀りする神社です。日光東照宮、久能山東照宮が有名ですが、全国各地に数多くございます。 そのため、他の東照宮と区別するため上野東照宮と呼ばれておりますが、正式名称は東照宮でございます。
銅灯籠
全48基。国指定重要文化財。寛永慶安年間に諸大名が奉納したもの。
唐門両側6基は徳川御三家(紀伊・水戸・尾張)より寄進されたものです。
家康公の13回忌に藤堂高虎が奉納した1基が最も古く、形も南円堂形と特徴的です。境内にはこんなものもありました。
広島・長崎の火です。「広島・長崎の火」は、故・山本達雄氏が被爆した広島の焼け跡から故郷・福岡県星野村(現・八女市)に持ち帰った平和の塔の「原爆の火」と、長崎の原爆瓦から採火した「長崎の火」を合火して、燃やし続けられている。「核兵器をなくし永遠に平和を誓う広島、長崎の火」と書かれていました。

五重塔が見えたので近づこうと思いましたが、塀で囲われていました。旧寛永寺五重塔です。旧寛永寺五重塔は寛永8年(1631)、土井利勝が寄進した塔は、寛永16年(1639)に焼失しました。現在の塔は、焼失後に寄進されたものです。五重塔は、上野動物園内に位置しているということで動物園に入らないと近づけないようです。

寺の案内によると、この塔は、第五層のみが銅板葺(どうばんぶき)で、他は瓦葺(かわらぶき)となっており、高さは地上から先端の宝珠 (ほうじゅ)まで36m、第一層には釈迦(しゃか)・薬師(やくし)・阿弥陀(あみだ)・弥勒(みろく)の四方四仏(しほうしぶつ)が祀られています。(現在の塔は寛永十六年(1639)に再建)ということです。




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