ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

五百羅漢寺跡(江戸名所図会)から猿江御材木蔵跡

2016年08月05日 10時00分11秒 | 江戸名所図会めぐり

五百羅漢寺跡の碑がある施設で映画シッコを見てから、

 

★ランドマーク五百羅漢寺跡
松雲元慶により本所五ツ目(現在の東京都江東区大島)に創建 
黄檗宗の僧・鉄眼道光に師事した、松雲元慶は、京都に生まれ、豊前国の羅漢寺(大分県中津市本耶馬渓―やばけいー町)の五百羅漢石像を見て、自らも五百羅漢の像を造ることを発願した。貞享4年(1687年)、40歳で江戸に下向した松雲は托鉢で資金を集め、独力で五百羅漢像など536体の群像を造った。この功績により幕府の援助で元禄8年(1695)本所に羅漢寺が創建された。

羅漢寺跡の説明書きがありました。

★ごひゃくらか

羅漢さんとはらかんさんはお釈迦さまのお弟子さまだった人たちです。歴史上に実在していた人です。修行を積んでとうとう聖者の位に登りつめたひとです。だから、らかんさは、ひとり山の奥にこもって禅をくんでいる仙人ように気難しい、とっつきにくいイメージがもともとあったのです。しかし江戸時代にはいって五百羅漢さんが登場するようになって、イメージががらりとかわりました。

  ひとりひとり顔のちがったらかんさんがならんでいるなかに、お参りの人びとは亡き人の面影によく似たらかんさんを見つけだして、久し振りに再会したような感激をおぼえたのです。写真のなかった当時、羅漢堂は懐かしい人の面影を偲ぶことができる有難い場所になったのです。瞼の父に会いにきて、小さな手をあわせて一生懸命に祈っていた幼な児もいたはずです。

  そんなところが人気を呼んで全国各所に五百羅漢像が造立されました。羅漢堂にいならぶ五百羅漢さんは、人びとにとって懐かしい自分の肉親の姿であり、恋人の姿だったのです。

 (五百羅漢寺出版「らかんさんのことば」より)目黒に移転した五百羅漢寺にある羅漢像です。

広重 名所江戸百景  五百羅漢さゞゐ堂 より

広重 東都名所 五百羅漢さざえ堂

三匝堂(さんそうどう)は寛保元年(1741)に建立された三層の堂で回廊が螺旋状に続く形状から「さざえ堂」と呼ばれた。

五百らかん寺さざゐどう葛飾北斎 富嶽三十六景 さざえ堂

背中を向けた人たちの視線が富士に注がれている。さざゐ堂の螺旋階段を登りきると広々とした隅田川の眺望が開け、富士が歓迎してくれる。欄干にもたれかかってほてった体を休めると、川面を渡る風が涼しい。

わたしの彩(いろ)「江戸名所図会」 大人の塗り絵より

江戸時代の羅漢寺。左側の上下に走る道路が五ッ目道路(明治通り)。手前の雲がかかった辺りが新大橋道路。奥の川が竪川。真ん中に「渡しば」と書かれているところが五渡亭のあった五つ目の渡しです。

本堂の左右に回廊、西側にさざい堂、東側に庫裡が有った。

こちらは跡地の一部にある羅漢寺です。ここは、元の羅漢寺が強制移転させられた後に、土地を切り売りされて、八王子から移ってきたお寺が、地元の意向を受けて「羅漢寺」と名を変えたものだそうです。でも、地元では羅漢さんと親しみを込めて呼んでいます。

新大橋通りを猿江公園に向かいました。

本村橋から見た東京スカイツリーです。

下は横十間川です。下流を見ています。古地図(江戸切絵図)ではまだ本村橋は架かっていません。

猿江公園の貯木場跡の池です。

池には珍しいオニバスが浮いていました。

古代バスも咲いていました。

この猿江公園を2周ウォーキングすることをリハビリの目標にしています。2㎞ちょっとになります。

 

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