船橋市本町にある「うたごえゴリ」に行きました。ゴリはJRの駅から500m位なので、リハビリには少し距離が足りないので、本町の千葉街道を下り途中から住宅街に入って行きました。
★ランドマーク船橋本町:ここ本町あたりは、江戸時代の「船橋宿」に位置する。「船橋宿」は、五日市村・九日市村・海神村3村の総称であった。3村は江戸内湾の最奥部に面し、西から東へ海神村-九日村-五日村と続いた。この3村の南寄りを横切るように佐倉道が通っていた。佐倉道は、江戸と下総及び上総・安房方面を結ぶ主要な道であった。また、江戸時代中頃から成田山(新勝寺)参詣が盛んになるにつれ、佐倉道は成田道と呼ばれるようになった。
船橋は佐倉道(成田街道)最大の宿場であり、交通量・旅籠の利用者とも多かった。船橋宿で最も有名なのは飯盛女(宿場遊女)の「八兵衛」であった。江戸時代の宿場は、一般の農村から比べると賑やかな場所で、歓楽街的な要素も多分にあった。船橋はその一面を近代に入っても持ち続けた。(船橋市のHPより)
ちょっと入ったところに大仏さんがありました。
。最初に、この碑が目に入りました。
なんのお寺さんかよくわかりませんでしたが、自宅で調べて見たら不動院ということです。
★ランドマーク不動院:真言宗の寺。入口にある大仏は、もとは津波による溺死者供養のために建立されたものだが、文政年間(江戸時代後期)以降は、近隣との漁場争いから獄死した二人の漁師総代の供養が行われる場所となっている。この供養は「大仏追善供養」と呼ばれ、市の無形文化財に指定されている。毎年2月28日になると、大仏に白米の飯を盛り上げるほどにつけて供養する。これは牢内で食が乏しかったのを償うためと伝えられており、地元ではこの大仏を「飯つぶ地蔵」と呼んでいる。大仏の西側に漁師総代二人の墓碑が建てられている。(船橋市HPより)



元禄16(1703)年の大地震による海底地形の変化などで、翌年から魚介の献上は中止され、代金納になりました。その後この漁場を巡って、近隣(堀江・猫実・谷津・鷺沼など)の漁師たちと多くの争いが起こりました。
文政7(1824)年、船橋村と猫実村(現在の浦安市)との漁場の境界を巡る争いが続いていた時、船橋漁師の占有漁場の船が侵入してきました。その中に、一橋家の幟を立てた船があり、乗っていた侍を船橋の漁師が殴打し、幟を奪ってしまいました。大きな事件であったことから、船橋の猟師総代3名が入牢させられました。1名は牢死し、1名は牢を出て間もなく死亡しました。そのため、延享3(1746)の津波による溺死者と、漁場を守り死んでいった漁師総代の供養をあわせて行うようになったのです。
大仏追善供養は事件の翌年の文政8(1825)年以来、毎年1月28日(明治以降は2月28日)に行われるようになりました。本来この大仏は、津波によって溺死した漁師や住民の供養のため、延享3年に建立された石造釈迦如来坐像です。供養の日には、炊き上げた白米の飯を大仏に盛り上げるようにつけます。これは牢内で食が乏しかった苦労をなぐさめるためといわれています。大仏の西側には漁師総代2名の供養碑が建てられています。 船橋市教育委員会










戦後諸般の事情により浄土宗を離脱、単立寺院となっています。又、昭和5年8月25日附にて、浄土宗信州善光寺大本願出張所として承認され善光寺式阿弥陀如来(一光三尊)を安置、善光寺別院として明照講を組織しています。
境内には「女郎神さん」と言う石塔があり、旧新地が近くにあったので、下(しも)の病気で苦しんでいた人たちの信仰の場であったと考えられます。この女郎神様は北向きに安置されていて「願掛け地蔵さん」とも呼ばれ、地元の厚い信仰があります。(船橋仏教会のHPより)
















