先日いった小村井の梅香園に行こうと出かけたところ北十間川の手前の梅屋敷跡のところの梅も少し咲いていました。
★ランドマーク梅屋敷跡: 江東区登録史跡 梅屋敷
梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所でした。もとは本所埋堀(墨田区)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵としていましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、8代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れました。江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々でにぎわい、その様子は『江戸名所図会』『絵本江戸土産』(歌川広重)などの地誌にもとりあげられています。歌川広重はこの梅屋敷だけで十数種の版画を描き、とくに「名所江戸百景」の中の、太い梅の古木を手前にあしらった錦絵は傑作のひとつにあげられます。明治43年(1910)、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸・大島・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました。
前の通りは浅草通りです。北十間川のところにも梅が咲いていたので渡ってみました。梅越しに東京スカイツリーが見えます。
。北十間川から案内板のところを見ています。
1802年の古地図では梅屋敷が描かれています。広重などの浮世絵でもいっぱい描かれています。特に有名なのがこの臥龍梅です。
広重はこのほかにも江戸自慢三十六興 梅やしき漬梅や
東都三十六景 亀戸梅やしき東都名所 亀戸梅屋舗全図などがあります。
江戸名所図会より
キャプション:白雲の竜をつつむや梅の花 嵐雪
如月(きさらぎ)の花盛りには容色残(のこ)んの雪を欺き、余香は芬々(ふんぷん)として四方 (よも)に馥(かんば)し。また花の後、実をむすぶを採り収めて、日に乾かし塩漬けとしてつねにこれを賈(あがな)ふ。 味はひことに甘美なれば、ここに遊賞する人かならず沽(こ)ふて家土産(いえづと)とす。
ここから小村井香取神社の小村井梅園に向かいました。
小村井梅園の由来
小村井梅園は江戸時代に作られ、当時の名所案内にも数多く紹介された江戸近郊の梅の名所です。
香取神社の東側に位置し、小村井村字出戸(でど)五百十一番に三千三百坪の広さを持ち、切絵図には「梅屋敷 名主小山孫左衛門 年毎御成有(としごとおなりあり)」と記され、毎年梅花の盛りには将軍家の御成りがあり、御成り梅の名も残っていました。紅梅白梅と姿良く、また老樹も多く大きな実も獲れました。
園内には、築山や池に多くの名石が組まれ、東西に亙り松の大木が2列に並び立ち、鴨・鷺など多くの鳥が飛び交い、利根川の魚を畜った釣掘りもあり、花菖蒲に秋の七草と、多くの人で賑わいました。安藤広重の「絵本江戸土産」の錦絵には「小村井は亀戸より四、五町巽(たつみ)の方に在り此の所に香取の社あり、その傍(かたわら)梅園ありて満開の節は薫風馥郁(くんぷうふくいく)として行人の鼻を穿(うが)つ、実に新古の梅屋敷にも倍したる勝景 ・・・・・・ 」 と記されています。惜しくも明治四十三年の大水で廃園となりました。
面影を忍び、此處にその由来を記して記念とします。
平成二年九月吉日 平成二年度 世話人
安藤広重「小村井梅園の図」
平日で中には入れませんが、周りの梅が見られます。玉牡丹と書かれています。
前回よりだいぶ咲いていました。
八重松島と札に書いてあります。これは亀戸天神でも咲いていた呉服枝垂です。
ということで結構きれいに咲いていました。
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