墨田区向島は隅田川東岸の名所として江戸時代から有名で江戸名所図会にも多く登場しています。三囲神社、秋葉社(秋葉神社)、白髭神社、蓮花寺、長命寺などとともに弘福寺(弘福禅寺)があります。古地図(江戸切絵図より)です。
1年前に書いた弘福寺(弘福禅寺)を新しい写真や図会も加え、江戸名所図会めぐりとしてリニューアルしてみました。
★ランドマーク弘福禅寺:牛御前宮の東に隣る。この辺りを須崎といふ(旧、洲崎に作る)。黄檗派の禅室にして洛陽万福寺を摸す。本尊は唐仏の釈迦如来、左右は迦葉・阿難なり。開山鉄牛和尚〔鉄牛道機、一六二八-一七〇〇〕、延宝紀元発丑〔一六七三〕創造す。毎歳七月十五目大施餓鬼修行あり。(江戸名所図会より)
弘福禅寺は1673(延宝元)年に、黄檗宗の僧鉄牛道機によって創建されたと言われています。松雲の作と伝わる釈迦如来像を本尊とし、山門や本堂の屋根は唐風の建築様式となっています。江戸時代には、鳥取藩池田家の菩提寺でした。勝海舟が青年時代に修行をつみ、関東大震災までは森鴎外の墓が敷地内にあったそうです。風邪除けの神様ともいわれる「咳の爺婆尊」や隅田川七福神の「布袋尊」を祀ってあります。
江戸名所図会ではこのように描かれています。
キャプションでは 木犀や六尺四人唐めかす 其角
元禄ニ年仲秋初の『隅田川記行』牛頭山にまいる仏前に拝して斎堂にまゐりければ、机の瓶に朝顔をいけて眼前のあはれに
斎堂にあさがほいけてあはれかな 杉風
牛頭寺に遊ぶ 南郭 門外の長堤隅水の流/江東の宝樹牛頭に倚る/金竜閣を開く誰が家の宴ぞ/玉女波を凌ぎていづれのところに遊ぶ/ 壑に蔵す舟は潮岸を揺らして繫ぎ/機を忘る鳥は晩洲に下りて浮かぶ/到来心地まさに空闊なるべきに/なんぞ更に風烟客愁を起こすや
と書かれているようです。
本堂です。
隅田川七福神
案内板には「黄檗宗弘福寺は、三百余年の昔、名僧鉄牛禅師によって創建された。黄檗宗は禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置されたのも、実はその黄檗宗の性格にかかわるのである。
布袋尊は唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は尽きるころがなかった。その無欲恬淡として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊崇を受け、隅田川七福神としても敬われたのである。」と書かれてあります。
布袋尊碑
七福神の祀ってあるお寺に行っても仏像になかかな会えませんがここではいつでも見られます。
布袋さんをしらべてみました。「布袋尊(ほていそん)は、中国の唐の時代の禅僧で、その名を契此(けいし)といい、七福神の中ではただ一人の実在した方であります。額が広くてお腹は大きく、いつも杖と大きな布袋を持ち歩き、物を貰えばそれをこの袋に入れて貯え、因る人があると、その中から取り出して施し、しかもなくなることがなかったといわれています。そのため後には発財菩薩(ぼさつ)といわれ、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の再来ともいわれ、世の人々からうやまわれ信仰されました。」と書かれていました。
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こちらが咳の爺婆尊です。風邪のはやる時期です。お参りして風除け祈願はいかがでしょうか。
★ランドマーク爺婆尊:境内右手の小祠には咳(せき)の爺婆尊(じじばばそん)の石像を祀ってあります。この像は寛永年問(1624~44)に、風外(ふうがい)和尚が静岡県の真鶴山中で修業中に、父母に孝養を尽せぬことをいたんで刻んだものと伝えられます。後に、ここ弘福寺に移されました。風外の両親の像だから風邪にも強かろうと、爺像は喉頭の病に、婆像は咳止めにご利益あるとして、今でも風邪除けの信仰を集めている、ということだそうです。
地蔵尊
池田冠山の墓
池田冠山は知りませんでしたが墓がありました。
鐘楼です。
淡島寒月も知りませんが、弘福禅寺内に居住していたようです。
後日、長命寺を散策した時に長命寺の墓から屋根が見えました。また裏口(隅田川から)を見る機会がありました。
開かずの扉は錆びついていました。
古地図や江戸名所図会に見られるように、弘福寺はもともと隅田川とは繋がっていなかったようですが、川沿いの牛頭社王子権現(現牛島神社)が移転したため、一時は隅田川沿いから入れてようです。しかし、隅田川堤に高速道路ができこの入口は開かずの扉になってしまったと思われます。
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