ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

今戸神社(今戸八幡宮)江戸名所図会めぐり

2017年08月17日 09時55分49秒 | 江戸名所図会めぐり

今戸神社は数回訪れていますが、今回「江戸名所図会」めぐりでまとめてみました。鳥居江戸名所図会より隅田川の西岸になってます。古地図切絵図では八幡宮となっています。

拝殿です。

★ランドマーク今戸神社(今戸八幡宮):後冷泉天皇康平6年(1063)、時の奥羽鎮守府将軍伊豫守源頼義・義家父子が、勅命によって奥州の夷賊阿部貞任・宗任の討伐の折、篤く祈願し鎌倉の鶴ヶ丘と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのが今戸八幡(現在の今戸神社)の創建になります。

  その後、白河天皇永保元年(1081)、謀反を起こした清原武衡・家衡討伐のため、源義家が今之津を通過するにあたり戦勝を祈願しました。その甲斐あって勝ち戦をおさめることができ、義家は神徳に報いて社殿を修復しました。

 江戸時代、三代将軍徳川家光は、今戸八幡の再建のために官材を下され、船越伊豫守と八木但馬守に命じて寛永13年(1636)に再建がなりました。

  大正12年(1923)9月の関東大震災によって社殿はまたも灰燼に帰し、まもなく復興したものの昭和20年(1945)3月の東京大空襲でも重ねて被災の憂き目に遭ってしまいました。

 こうした被災と再建の歴史をくり返しながら、昭和46年(1971)11月、現在の荘厳な社殿が氏子崇敬者の浄財によって造営されました。

  その間、昭和12年(1937)7月に今戸の隣地に鎮守されていた白山神社と合祀、社名が今戸神社と改称されました。

狛犬が金網で保護されていました。

★ランドマーク今戸神社狛犬:台東区有形文化財(歴史資料)

この狛犬は今戸焼職人によって宝暦2年(1752年)に今戸町の鎮守であった今戸八幡神社(現在の今戸神社)に寄進され、文政5年(1822年)に再興されました。浅草新堀の石工・小松屋竹右衛門が制作したといわれています。

今戸焼は江戸時代から今戸周辺の地場産業。瓦、日常生活道具、土人形、工芸品などの焼き物を生産販売していました。

狛犬の台座に詳細な銘文があり、今戸焼職人と世話人の42人の名前があります。職人達が寄進したことが分かる貴重な資料です。職人は、火鉢屋、土器屋、焙烙(ほうろく)屋に所属し、食器や調理器具など日常生活道具を生産していました。残念なのは、いま、今戸焼を継承しているのはわずか1軒になってしまったことです。

今戸焼の発祥の地になっています。

★今戸焼:今戸焼とは、江戸時代から明治時代を中心に、今戸やその周辺で製造販売された焼き物です。今戸焼職人は、瓦・日常生活道具・土人形・工芸品などの焼き物を製造販売して、江戸東京住民の需要に応えました。

 幕末には、今戸焼を製造する家は50軒余りありました(『本朝陶器攷證』)。しかし次第に今戸焼の需要は減少していきます。さらに今戸周辺の都市化や、震災・戦災などにより、製造を続けた職人たちの多くも、隅田川の東岸、中川・荒川の流域などの周辺地域に移転していきました。現在は1軒だけ残り、「口入れ狐」や「招き猫」などの人形を今も製作しています。

★今戸焼招き猫(いまどやきまねきねこ)

”招き猫”は商売繁盛や招福への願いをこめて、よく店先や玄関などに飾られておりますが、猫は古代から神秘的な力をもつと考えられていました。いわゆる招き猫の登場は江戸時代で、一方、人形としての招き猫はここ今戸の地で十六世紀から焼かれていた今戸焼が始まりといわれております。

伝わるところでは、江戸末期の話で、浅草に住むある老婆が、貧しさゆえに愛猫を手放したところ、夢枕にその猫が立って言いました。”自分の姿を人形にしたら必ずや福徳を授かる”と。そこで老婆が横向きで片手を挙げた人形を作り、浅草寺の参道で売り出してみたら大評判だったとのことです。

江戸名所図会より

キャプション:この辺甄者(かわらし)・陶器匠(やきものし)ありて、これを産業(なりわい)とする家多し。世に今戸焼と称す。元禄二年(1687)七月三日『隅田河紀行』 土をこね瓦をつくりならべてほしければ、

やかぬまは露やいとはむ下瓦 杉風

江戸名所図会や錦絵にも今戸焼の風景が描かれています。広重 東都名所ノ内 隅田川八景今戸夕照

広重 名所江戸百景墨田河橋場の渡かわら竈

歌川 広重 2代江戸自慢三十六興 今戸焼物

などなどとなっています。

沖田総司終焉之地の碑があります。

★ランドマーク沖田総司終焉之地:永倉新八の”同志連名記”によると、江戸に引き上げた時、沖田総司の肺の病はかなり進んでおり、和泉橋の松本良順の医学所で治療を受けていたが、薩長軍の江戸入りに際して、総司を含む患者たちは浅草今戸八幡に収容されたとのこと。

松本良順は今戸八幡に寓居して患者の治療にあたり、総司は松本良順宅で療養したといわれています。

境内には成就絵馬があちこちにかけられています。

★縁結びの神:今戸神社の主祭神が応神(鷹神)天皇、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)は、日本において最初に男女の性をもって生まれた国生み夫婦神ということで、互い体の足りない部分を補おうとして交わり日本の国土や主要な神々を生み出したとされています。このことから夫婦円満・和合のご利益があるとされ、今戸神社では縁結びのご利益があると信仰されているようです。

ということで当日も若い女性が多く参拝していました。

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