東京タワーの下の所にある会社を2月に2日ずつ訪問しているので、その度にその周辺を散策しています。今回は宝珠院を散策してみました。都営地下鉄の赤羽橋駅から向かいました。
赤羽橋はこの錦絵が有名です。
広重 名所江戸百景 増上寺塔赤羽根より
江戸名所図会より 当時、増上寺には普通の人は入れなかったので、宝珠院は、増上寺の市井の人々の入り口として創られたお寺だそうです。
橋を渡って広小路の所から東京タワーです。右に行くと弁天さんの宝珠院があります。弁天池です。
宝珠院は今建て替えということで本堂と手水舎、地蔵堂を除いて取り壊されていました。
本堂です。手水舎子育・水子地蔵尊
★ランドマーク宝珠院・弁財天:宝珠院は、増上寺第三十世貫主生譽靈玄大僧正が、閻魔王と共に白蓮池の辨才天女を勧請、別当寺として貞享2年(1685)に創建したということです。港区七福神の一つとなっている弁財天は、三井寺を開山した智証大師が858年に竹生島で彫刻、源頼朝や徳川家康の崇敬を受けたといいます。
★開運出世辨才天: 三井寺の開山智証大師が八五八年竹生島で奇縁に依り彫られその後源家に伝わり再興に当り頼朝公深く信仰し天下を平定される。
又徳川家康公も厚く信仰され天下の平和を築かれ除波辨才天を改め開運出世辨才天と改称されました。古来より一心に崇敬拝する者に開運出世巳成金福寿円満厄難消滅縁結びの利益を授けられ現在港区七福神の一つに制定されている。
閻魔大王も引っ越し中で写真のみが飾ってありました。調べて見たら取り壊す前の閻魔堂
中に飾ってあったようです。
★閻魔大王坐像および司録・司命半跏像(港区指定文化財)
閻魔大王は地蔵菩薩の変身であるといわれ、インドでは天上の楽土にあって、死者を導いたが、もちに下界におりて死者を審判する神となった。わが国では鎌倉時代(1192~1333)から、庶民信仰の対象として一般に流布するようになった。
江戸時代には、正月と盆の16日に「地獄の蓋があく」といって参詣人が群集し、門前には露店が立ち、見世物小屋が掛って賑った。
この閻魔代魔王坐像は、寄木造、高さ2mの大王で、貞享2年(1685)作といわれ、右に司録、左に司命の二像を従えているのは都内では珍しい。
平成11年10月12日 港区教育委員会探してみました。ヘビとカエルは見つかりましたが、なめくじは見つかりませんでした。ネットで検索したら写真が載っていました。
地蔵さんも残っています。
えんま堂の跡地は樹木墓地になっていました。
道路を隔てた坂を登って東京タワーに向かいます。
タワーの下では菊が展示されていました。
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無事坂を登り切りました。
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