年度最後の遠方出張は和歌山県でした。新大阪からくろしお9号で和歌山に行く予定でしたが、阪和線が人身事故で不通でしたので、南海電鉄を乗りついで和歌山に着きました。早めに東京を出たので、目的地訪問には若干時間があったので、昨年に続いて、目の前の和歌山城に寄ってみました。和歌山城は和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀としています。本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配されている、梯郭式平山城です。
徳川頼宣は1621年(元和7年)より城の大改修と城下町の拡張を始め、計画では完成時より更に大規模な城構えになる予定でしたが、大規模な改修であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどでした。しかし、附家老安藤直次の弁明で事なきを得ました。また、外堀も拡張して総構えにしようとしまたしが、幕府より嫌疑をかけられ中止させられてしまったため、堀止の地名が残っています。後、数度の火災に遭いましたが、その度に再建されています。現在、城跡として現存しているのは最盛期の4分の1ほどの面積です。
東京では満開ですが、和歌山でも見頃になっていました。これは大手門を入ったところにあるしだれ桜です。天守閣の周りの桜も見頃でした。大手門の堀には鯉が気持ち悪いほど集まっていました。これは伏虎です。和歌山城は、虎が伏している姿に似ていることから名付けられた虎伏山にあるため、虎伏城とも呼ばれます。現在の伏虎像は昭和34年に再建されたもので、その前には大正11年に作られた立ち姿の虎の像がありました。
鍼灸治療に曙橋に通っていますが、今日は途中で新宿御苑で花見をしました。暖かな日和で公園内には多くの花見客が訪れていました。新宿御苑の歴史が始まるのは、徳川家康が江戸に入った翌年の天正19年(1591)にさかのぼります。譜代の家臣内藤家2代目の清成は、多年の功労と江戸城西門警固の功績を認められ、現在の新宿に屋敷地を拝領しました。家康は、清成に馬を走らせて回れるだけの土地を授けると言い、その結果、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保にまでおよぶ広大な土地を賜ったと伝えられています。これが新宿御苑のルーツです。石高3万石余りの大名としてはもとより、江戸の中でも非常に大規模な賜邸であったことから、その所在の地名が「内藤町」と命名されました。
その後、7代内藤清枚(きよかず)の時に、領地を信濃に移され、3万3千石の高遠城主となりました。この時上屋敷を神田小川町に賜り、御苑の地は下屋敷となり、いつのころからか「四谷荘」とよばれるようになりました。
高遠藩主内藤家の下屋敷は、のどかな田園風景そのままの庭園で、華麗な建造物などはありませんでしたが、地域の住民とともに楽しむ憩いの庭として親しまれていたようです。なかでも玉川園(現在の玉藻池)は、江戸の名園のひとつに数えられていました。
元禄11年(1698)に、幕府は内藤氏の広大な下屋敷の一部を返還させて、町屋とともに馬継ぎの施設を設けて宿駅としました。これが甲州街道最初の宿駅で、内藤家の屋敷跡に新設された宿駅のため「内藤新宿」と呼ばれるようになりました。
前の職場の時、昼に御苑の周りを散歩していましたが、桜の咲く前に、このモクレンがいい色で咲きます。この木蓮は御苑の従業員の社宅の庭に咲いているものです。ちょっと満開を過ぎてしまいました。
いつもここから入ります。千駄ヶ谷門です。今日は酒類の持ち込みをさせないために検問がありました。入ったすぐのところの桜です。満開でした。千駄ヶ谷休憩所の脇に赤白の花がありました。花桃源平でよいのでしょうか。
中の池のところのコブシです。下の池から水仙のところのしだれ柳を見ています。この前は咲いているのは水仙だけでしたが、水仙の周りはしだれ桜で大勢の人が写真に収めていました。バラ園の周りにそびえているのはプラタナスの並木です。そびえる姿が荘厳でした。今日は台湾閣に入れたようで多くの人が池を眺めていました。なかなか写すのが難しい鯉ですが、今日は日差しもよく、鯉も近づいてくれたので写すことができました。赤い花はハナカイドウ言うらしいです。その下にカラスがいました。砂利道の方に飛び出してきました。千駄ヶ谷門の出口に向かいましたが、少し離れたところにピンクの桜が咲いていました。桜にもいろいろな品種があり、それぞれ名前がついていると思いますが調べる時間がないので、花の紹介のみで申し訳ありません。
錦糸公園の桜を見てきました。いつもは桜祭りの提灯が飾り付けられるのですが、今年は間に合わなかったようです。錦糸公園、いまは墨田区立となっていますが1923年に発生した関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として隅田公園(台東区、墨田区)、浜町公園(中央区)と並んで計画されたものです。当地は元々は帝国陸軍の糧秣厰倉庫でありましたが公園として整備され、1928年7月に開園されました。戦時中は空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用されていました。1945年3月の東京大空襲では、1万余の遺体が当公園に仮埋葬されたと言われています。戦後は人々の憩いの場として使われるようになり、次第に体育館や噴水池などが整備されてきました。再整備される前の公園の桜風景です。
公園の北側には隣接して長く精工舎(SEIKO)の工場がありましたが、再開発によりオフィスや飲食店などが入った商業施設「オリナス」が2006年にオープンしました。錦糸公園もそれにあわせて再整備されています。桜の間からツリーがよく見えます。手前右側のビルがオリナスのオフィス棟です。
居住地の由緒を紹介をします。今住んでいる団地は日清紡績の工場跡地です。団地に隣接する浄水場の一角に碑が立っています。日清紡績株式会社が昭和46年5月建てた碑には、「日清紡績株式会社は明治40年1月創立後、東京府南葛飾郡亀戸町の当敷地2万余坪に、最新鋭設備を誇る本社工場を建設した。
最盛期には、紡機107,800錘、織機360台を擁した本工場は、昭和16年軍の要請により陸軍被服本廠が使用するに至るまで、45年に亘り主力工場として綿糸布を生産し、広く内外の需要に応えると共に、幾多の人材を輩出した。
この間明治43年、大正6年、昭和13年の三たび横十間川の洪水で浸水し、大正12年には関東大震災に逢ったが,従業員の献身的努力によりこの職場を守り得た。
昭和20年大戦下の空襲により焼土と化したが、運動場として整備し主として勤労青少年の体育に寄与してきた。偶々昭和42年東京都浄水場、日本住宅公団用地として提供するに至り、当社の手を離れた。
今般、この地に記念碑を建立し、会社創業関係者の遺徳と、生死苦楽を共にした多数従業員各位の功績を偲ぶものである。」と書かれています。
その前は銭座だったようです。
このモニュメントは、寛文8年に亀戸銭座で造られた「寛永通宝」をモデルに作成したものです。平成6年3月設置されました。寛文3年(1663年)から天和3年(1683年)まで、この付近で、寛永通宝銭が造られ、「亀戸銭座」と称していたそうで、 昭和41年に当時の日本住宅公団が住宅を建てる時に、多くの寛永通宝銭が発見されています。日清の工場跡地は野球場やバレーボールのコートができ、集団就職で東京の下町の工場に出てきた青年のスポーツの場所となっていたようです。当時の人に聞くと野球場は16面とか18面もあったようです。今は浄水場の上に野球場が2面とテニスコートが2面残っています。
ところで、昭和43年から入居が始まった公団の団地は1号棟から8号棟まではベランダがありません。高度成長に入る時期で、外国に追いつけ追い越せの時代、欧米並みにベランダでは洗濯物を干さないという考え方が反映されているようです。部屋の中にサンルームがあり、洗濯物はそこに干すようなっています。
6号棟から9号棟は分譲住宅になっています。分譲部分の庭は、居住者で組織されている植栽部の方々が手入れをしています。休日を惜しんで庭の手入れをしており、きれいに整備されています。努力の甲斐もあり、この庭園は、江東区の第1回「まちなみ景観賞」を受賞しています。
団地越しにスカイツリーも見ることができます。昔の幕府御用建の銭座が、明治時代は国策であった紡績工場になり、戦争中は陸軍被服本廠としてが使用され、戦後は集団就職で上京した青年の運動場となり、青年が結婚する頃は、住むための団地となるなど、国の政策に沿って用途が変化してきたことが伺えます。
そして今は、例にもれず、高齢者が多く住む住宅となっています。ただ最近は、築年数も経過し、15坪(51平米)ほどで狭い居住区ですが、JR錦糸町駅や亀戸駅から7~8分という便利な場所で、価格も手頃ということで、最近は若者も入居してきていただき、若干平均年齢を下げてもらっています。
遠方出張が多かったのですが、久しぶりに都内の施設の点検に出かけました。途中の巣鴨でとげぬき地蔵尊に寄ってみました。商店街は平日の午後というのに賑わっていました。とげぬき地蔵尊は高岩寺です。「とげぬき地蔵尊」の名で親しまれるこのお寺は、曹洞宗萬頂山高岩寺といい、慶長元年(1596年)に江戸湯島に開かれ、約60年後下谷屏風坂に移り巣鴨には明治24年(1891年)に移転してきたものです。本尊は延命地蔵菩薩そうですが、秘仏なので拝見させてもらえません。
本堂横に立つ観音菩薩は洗い観音ともよばれ、体の悪いところと同じ部分に水をかけて洗うと身代わりになってくれるといわれています。この日も熱心に洗っている人たちが大勢いました。観音菩薩はてかてかに光っていて、昨年大阪で見た水掛不動尊とは好対照だとふと思いました。洗い観音は、江戸時代最大の火事であった「明暦の大火」(1657年)で、当寺の檀徒の一人「屋根屋喜平次」は妻をなくし、その供養のため、「聖観世音菩薩」を高岩寺に寄進したもので、この聖観世音菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしかうまれ、これが「洗い観音」の起源だそうです。その後、永年に渡ってタワシで洗っていた聖観世音菩薩の顔などもしだいにすりへってきたので、平成4年11月27日、この仏像に代わって、あたらしい聖観世音菩薩にしました。新しくしてからは、タワシを廃止し布で洗うことにしたそうです。新しいこともあり、てかてかに光っていたようです。
目的地の近く、大塚駅の北口の桜並木は6分咲きほどになっていました。