ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

泉岳寺

2013年07月18日 15時05分21秒 | 訪問地周辺

田町にある施設を訪問しました。前から気になっていた場所があるので、少し早めに会社を出て寄ってみました。泉岳寺です。
墨田区に勤務していたので、義士祭とかいろいろありましたが、泉岳寺に入ったことはありませんでした。今回訪問が叶いました。これは山門です。中門から入ります。中には2-3軒お店があったりしています。長い由緒書きがありました。ウイキペディアによると、慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された。元禄赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られていることで知られ、現在も多くの参拝客が訪れる。また、毎年4月初旬と12月14日には義士祭が催される。また境内に、赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」がある。とかかれています。
こちらが本堂です。
浅野長矩墓および赤穂義士墓は国指定の史跡になっています。首洗い井戸です。
赤穂義士墓所標札上がったところに義士の墓が並んでいます。それぞれの義士について詳しくないのでさらっと一周してみました。
こちらは大石良金(主税)墓
鐘楼堂です。
大正2年・41世普天霊明和尚代に作られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞いているそうです。中門を入った右手にこんな像がありました。
大石内蔵助の像です。この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたものだそうです。

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宮島・厳島神社

2013年07月11日 14時24分32秒 | 訪問地周辺

広島の2日目は午前中時間があったので、宮島に向かいました。海から見た大鳥居上陸すると鹿さんが迎えてくれました。暑いので松の木の下で休んでいます。オスは寝転んでいましたがメスは二頭で気持ちよさそうに、じゃれていました。
厳島神社も世界遺産です。推古天皇元年(593)、佐伯鞍職によりご創建と伝えられています。 説は、色々ありますが、「いつき島にまつれる神」という意味から、「伊都伎島[いつきしま]大明神」、「厳嶋神社」等呼称され、現在は、「嚴島神社」となっています。
原始宗教のなごりで、島全体が神の島として崇められていましたので、陸地では畏れ多いと海中に社が建てられました。平清盛が久安2年(1146)安芸守に任官され、平家の氏神として尊崇し、平家一門の権力が増大するにつれてこの社を尊崇する度合いも増し、社殿を現在の姿に造営しました 都から後白河上皇、建春門院、中宮徳子、高倉上皇、建礼門院を始めとする皇族や貴族が訪れたので、都の文化や建築が宮島に入ってきました。
現在も嚴島神社に伝承されている舞楽は、清盛公によって大阪四天王寺から移されたもので、社殿は、災害により何度か立て替えられていますが、清盛公が造営した当時の姿を伝えられているといわれています。国宝の客神社 [まろうどじんじゃ]鏡の池天神社があったのでのぞいてみるとこちらは鳩でした。日にちが良いようで結婚式をしていました。最近ここで挙式するのが流行っているそうです。
五重塔に近づいてみました。手前が千畳閣です。
中にはしゃもじが祀ってありました。宮島側から大鳥居を見て帰ってきました。前回は引き潮で鳥居まで歩いて行けましたが、今回は満ち潮で海の中に浮いて見えました。
紺屋町で仕事を終えてから、昨日のドームのネコさんを見に行きましたがいませんでした。焼け野原になったドーム周辺の写真帰りの飛行機、ところどころに積乱雲です。暮れかかった空から富士山が見えました。



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原爆ドーム、原爆の子の像

2013年07月11日 10時40分28秒 | 訪問地周辺

原爆ドームへ着いたのは午後5時を過ぎていましたが、ビルの電光掲示には32℃と出ていました。原爆ドームは世界遺産になっています。やぐらが組んであるのは壁の耐震性の調査をしているためです。路面電車に乗ると3人に一人は外国の方というような状況でした。元安川と相生橋です。相生橋はT字の形をしており、原爆投下の目標になった橋だそうです。原爆の子の像です。周りのブースには折鶴で作られたものがたくさん収められていました。この像の前に立つと3.11の時に石巻で演奏会のリハ中に地震に遭遇したクミコさんの「INORI」という歌を思い出し、ジンとしてしまいました。
クミコさんのHPから:日本人にとって「折り鶴」は、特別な意味を持つものといえます。「千羽鶴」といわれるくらい沢山の「折り鶴」に「願掛け」をする風習は、この国の人なら誰でも知っています。
一羽一羽心を込めて折る、折り続けるそのことが、切なる願いを持つ人の
大きな支えになっているのでしょう。
「INORI」の主人公の少女もそうでした。
佐々木禎子(さだこ)ちゃん。
広島平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデルでもあります。
頭上に高く「折り鶴」を掲げた少女の像です。2才で被爆し12才で亡くなった少女は、いつか元気になって皆の待つ家へ帰れることを願いました。
そしてそのためにできること、それが「折り鶴」を折ることでした。
苦い薬の包み紙を広げ、一羽一羽折り続けることでした。
「INORI」は「祈り」です。
核軍縮が声高に叫ばれる現代。少女の残したちっちゃな「折り鶴」たちは「命」の尊さを教えてくれます。 生きとし生けるものの「祈り」を伝えてくれます。
禎子ちゃんの甥にあたる作者佐々木祐滋さんが、私に手渡してくれたこの歌を、これから共に大切に唄っていきましょう。それこそ「折り鶴」を折るように。 心を込めて。
原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)です。
ここには「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と書かれています。
資料館に向かいましたがすでに入館時刻を過ぎていまい入れませんでしたが、出入り口で偶然、江東区の保健所職員の方と出会いました。
こちらは原爆供養塔です。
鐘が鳴ったので向かってみたら外国人が鐘を突いていました。平和の鐘です。鐘の音を聞きながら宿に戻りました。


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福山城と広島城

2013年07月10日 22時29分33秒 | 訪問地周辺

福山と広島の施設を訪問しました。行きの飛行機、3月にはあれほど雪がいっぱいだった山々も、雪はほとんどなくなっていました。
福山の施設の帰りに福山城によって見ました。福山城は、元和5年(1619年)に水野勝成が築城した江戸時代における名城です。昭和20年8月、空襲により天守閣などは消滅しましたが、昔日の姿を留める伏見櫓・筋鉄御門は国の重要文化財に指定されています。また、その城跡は国の史跡として保存されています。
天守は昭和20年(1945年)まで残されていましたが福山大空襲により焼失しています。現在の建物は昭和41年(1966年)に月見櫓、御湯殿と共に復興されたものです。久松城(ひさまつじょう)、葦陽城(いようじょう)とも呼ばれ、日本における近世城郭円熟期の代表的な遺構であり、2006年2月13日、日本100名城に選定されたそうです。
 城内に水野勝成像がありました。戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。備後福山藩初代藩主です。勝成が福山と命名したと書かれています。

広島へ→暑い福山を後にして、宿泊地の広島市に向かいました。宿は広島城の近くだったので、一風呂入ってから城に向かってみました。広島城は、1589年(天正17)に毛利輝元が築城した城。鯉城(りじょう)とも呼ばれているそうです。かつて国宝に指定されていた天守閣は、原爆投下によって倒壊し、現在の5層天守閣は1958年(昭和33)の再建で、内部は武具の展示や城下町広島を学べる歴史博物館になっているそうです。
3年前にも見ましたが、今回も中までは入りませんでした。木造復元された表御門

この後で原爆ドームに向かいました。これについては次のページで紹介しますが、ドームのがれきの中に猫さんが寝そべっていました。午後5時を過ぎても32℃というとても暑い広島でした。寝そべっているのか死んでいるのかわからないような、足の黒さが目に付く猫さんでしたが、翌日見にいったらいなくなっていました。


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川口神社

2013年07月08日 20時47分45秒 | 訪問地周辺

川口にある施設を訪問しました。梅雨明け3日ではありませんが、暑い一日でした。近くに川口神社があるというので散策しました。
創建の由緒の記録は水害により失われており不明ですが、社伝では天慶年間(938年 - 947年)に足立郡司判官代・武蔵武芝によって創建されたと伝えています。当初は氷川社と称したそうです。
明治6年に村社に列格し、後に川口町内の天神社(菅原道真)・稲荷社3社(宇迦之御魂命・保食命)・金山社(金山彦命)を合祀して社名を川口神社に改めました。昭和10年、川口市の総鎮守として県社に昇格しています。
本殿の右手には金山神社金山神社は、南北朝時代の暦応年間の鎮座と伝えられています。江戸時代以降、川口鋳物業の発展にともなって、鋳物師の「金山権現」として厚い崇敬を受けてきました。かっては当地の南西300mの地に鎮座していましたが、政府の方針で明治42年、川口町内の他の神社とともに町の鎮守であった氷川神社に合祀され、現在の「川口神社」となりました。
梅の木天神社学問の神・菅原道真公は、かって川口市字新屋敷に天神社が鎮座していましたが、明治27年に町の鎮守氷川(ひかわ)社に合祀され、現在の川口神社本殿に奉斎されています。
こんなものもありました。
帰りがけは大雨で荒川の河川敷では落雷で亡くなったという時間でした。



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