ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

岡崎城

2014年12月17日 23時04分52秒 | 訪問地周辺散策

2年ぶりの岡崎出張です。今回は雨の中の出張となってしまいました。雨なので岡崎城だけはと思い見てきました。城の前を流れる乙川土手には少し紅葉が残っていました。昔の舟着き場です。昔は帆掛け舟が荷物を沢山積んで菅生川(乙川)を上がり下がりした。ここが積荷をあげおろしした昔の舟着き場。岡崎には「五万石」という古謡がある。「五万石でも岡崎さまは、お城下まで舟が着く」。この帆掛け舟を形どった碑は当地方特産の花崗岩で出来ており、その古謡に因んで「五万石舟」というそうです。
本丸南側に残る水堀に架かる神橋(後世に造られた橋)。水堀です。鴨が泳いでいました。橋を渡った所は風呂谷曲輪。巽閣北側の堀と石垣。後方は水堀。

家康天下統一への拠点であり、岡崎市の歴史文化の象徴である岡崎城は、享徳元年(1452)から康正元年(1455)にかけて三河守護代大草城主、西郷稠頼により築かれ、70年ほど後に家康の祖父・松平清康が入城しました。1542年12月26日に家康はここで生まれています。家康の父・広忠が殺された後は、今川氏の勢力下におかれていましたが、桶狭間の合戦後、家康が再び入城しました。家康は永禄7年(1564)三河一向一揆をおさえ、城郭の整備を行ない、ほぼ全三河を平定したことで、後の天下統一に向けて動き出すことになります。復興天守:昭和34年(1959)に、ほぼ昔どおりの外観の天守が復元。鉄筋コンクリート3層5階で、内部は歴史資料館。岡崎城の天守は、田中吉政が最初に建造したという。元和3年(1617)、本多康紀が築造した天守は3層3階、地下1階、望楼式で、南に付櫓、東に井戸櫓が付く複合天守だったということです。

 
 

竹千代像

 

現在の岡崎城は、歴史資料館として市民に親しまれています。

乙川の堤には白黒を反対にしたような一対の鳩がいました。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トレードセンター・咲洲庁舎、今里妙法寺・熊野大神宮

2014年12月10日 23時13分06秒 | 訪問地周辺散策

大阪2日目は今里にある施設の訪問が仕事です。午後からなので、午前中大阪のベイエリアを散策してから今里に向かいました。コスモスクエア駅で降りて大阪港を見てからコスモタワー(大阪府・咲洲庁舎)方面に向かいました。途中は枯れすすきが生えているような未開発の所が残り、タワーが寂しく立っているという感じでした。大阪では超高層ビル建てそこを起点に再開発をもくろんでいましたが、いずれも失敗しています。コスモタワーも失敗を隠すために府庁舎を無理やり入れたようです。海に面してるトレードセンターオズ棟の前も前回はクリスマスの装飾がありましたが、今回はまだ出ていませんでした。ますます寂れているようです。外国の観光客の方が数名いらっしゃいました。トレードセンター前駅からニュートラムに乗って終点の住之江公園まで、地下鉄四つ橋線に乗って難波にでて千日前線で今里に向かいました。

今里も3回目ですがどこも散策したことがなく、今回初めて近くの熊野大神宮を散策しました。旧大今里村の氏神さまだそうです。由緒書きによると、創立年代は1400年以上前になり詳らかではないとのことですが、「用明天皇2年、厩戸皇子が四天王寺を浪速玉造の岸に創立せられたとき、拾弐坊の伽藍を建立せられ、当社社務を司らしめられました」とあり、もとは熊野権現と称していましたが、明治8年権現号を廃し、熊野大神宮と改称した旨が記されているそうです。 境内には厳島弁財天や琴平神社も祀られています。

隣は妙法寺です。

妙法寺は聖徳太子の創建と伝えられ、近世国学の祖と言われる契沖(けいちゅう)が、延宝7年(1679)から元禄3年(1690)まで住職をし、また修学の道場としても有名で、現在大阪府顕彰史跡に指定されています。昭和24年に妙法寺境内は、僧契沖遺跡として大阪府顕彰史跡に指定されています。近世国学の祖といわれる契沖は、延宝7年(1679)から元禄3年(1690)までの11年間、この妙法寺住職をし、国学の勉強に尽力した。契沖の父は尼カ崎領主青山大蔵小輔幸真に250石で仕えた下川善兵衛元金でその第三子として寛永17年(1640)に尼ヶ崎に生まれ、11才のときに出家して仏門に入り、その後高野山で修業にはげみ、妙法寺住職となってから本格的に国学研究の学問に専念し、徳川光圀公の委嘱により、有名な「万葉代匠記」やその他多くの著作を完成させました。。宝歴(1751)頃の妙法寺は一時衰退していましたが、泊中法典和尚が住職し大黒天信仰を鼓吹してより時運隆盛になり「南にては今宮のゑびす、東にては今里の大黒」と喧伝され、庶民の群参で賑わったと伝えられています。大黒天です。

大きなクスノキがありました。薬師如来この近くの道が奈良街道だったようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法善寺・水掛不動尊、法善寺横丁

2014年12月09日 23時16分48秒 | 訪問地周辺散策

宿は阿波座のスーパーホテルなので、河内山本の帰りに難波で降りて法善寺に寄ってみました。地下鉄のなんば駅の14番出口を出たところですぐに参道と書かれたところに出ました。何度も来ていますが、初めてです。突き当りが法善寺です。午後4時過ぎでしたが、結構参拝客がいました。こちらは金毘羅さんです。3年前はここに拝殿がありましたが、撤去されてしまいました。それと、ここには野良猫さんがたくさんいましたが、今回は見当たりませんでした。ネコを捨てるなという看板も出ていたので、処分されてしまったのでしょうか。

水掛不動さんは相変わらず苔むしています。最初に見たときはびっくりしましたが、もう5回目になるので、見慣れました。通り抜けたところに墓標がありました。ここを左手に曲がり、もう一度左手に曲がると法善寺横丁です。

大阪観光情報によると「東西両端にある門にそれぞれ掲げられた「法善寺横丁」の文字は、西は藤山寛美、東は3代目桂春団治によるもの。長さ80m、幅3mの2本の路地が東西に伸びる横丁内には、老舗の割烹やバー、お好み焼き、串カツ店などがずらり、風情ある石畳に行き交う足音がコツコツと鳴り響く。もともとこの地は浄土宗天龍山法善寺の境内で、参拝客相手の露店がいつしか横丁に発展したもの。太平洋戦争の空襲で寺も横丁も焼失したが、戦後、盛り場として復活。織田作之助の小説「夫婦善哉」の舞台として知られ、歌謡曲「月の法善寺横丁」にも歌われた。戦火をくぐり抜けた不動尊は、願いを込める人たちがかけた水で、全身に緑の苔がびっしり。旧中座の2回にわたる火災を乗り越え、復活を遂げた法善寺横丁は、かつての風情を残しつつ、浪速の人情も守りつつ、今も活気溢れる街だ。」と書かれていました。中ほどに月の法善寺横丁の歌碑があります。戎橋と道頓堀川を見て宿に向かいました。駅に向かうときこんな横丁を発見しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河内山本、山本八幡宮・八阪神社

2014年12月09日 22時12分24秒 | 訪問地周辺散策

12月9日は八尾市の河内山本にある施設を訪問しました。今回で3回目ですが、少し周辺を散策してみました。近鉄駅の北口から玉串川(たまくしがわ)沿いは桜の名所らしですがこんな木が伸びていました。駅の北口に面している神社は山本八幡宮です。享保元年(1716年)、石清水八幡宮より神霊を勧請し、山本新田の鎮守として分祀された。ということで、社殿は1956年に改築されものようです。今は神社の玉串川との間に道路ができていますが、これは、1994年から1997年にかけて施設に大幅な改修が行われたことによるようです。(それ以前は川岸ぎりぎりまで神社境内だった。) そのため正面にあった太鼓橋は撤去されたとのことです。

ここは前回も寄っています。

今回は少し離れた八阪神社に寄ってみました。

本殿

隣にお稲荷さんがありました。もう一カ所、西光寺を目指しましたが、行く着くことができず、引き返して、駅の南口にある施設の近くの喫茶店で一休みをして、訪問しました。こちらは山本のネコさんです

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沼袋氷川神社・禅定院

2014年12月08日 21時48分45秒 | 訪問地周辺散策

中野区の沼袋にある施設を訪問しました。3回目と思いますが、これまで周辺を散策したことがありませんでした。今回は会社を少し早く出て周辺散策してみました。まず、電車から見えた沼袋氷川神社です。

由緒は、ここは南北朝時代、人皇九十七代後村上天皇の正平年間(1346~1370年)に武蔵国一の宮である氷川大社(さいたま市鎮座)より分霊し、ここに奉祀したものだそうです。文明九年四月 太田道灌(おおたどうかん)が、豊島一族と合戦の折、戦勝祈願し道灌杉を奉納するなど、その御神徳の威光は強く、現在も「厄除ひかわ」と親しまれ、厄除祈祷に訪れる人は後を絶たないそうです。

社殿。どこの神社にもありますが力石です。大きな松の木です。「三本の願い松」というらしいです。松と杉の信仰由来がわかりました。中野七福神がありました。ここではすべての福神様が集まっているので、一カ所で済むようです。

次に近くのお寺さんに寄ってみました。禅定院です。

禅定院は南北朝時代の中期、貞治元年(1362)の開創と伝えられる寺院だそうです。開創の地は、後世の新橋村(多摩郡野方領下沼袋村から枝分かれした村)でありましたが、後に現在の寺地に移り、草創期のご本尊は、薬師瑠璃光如来(ヤクシルリコウニョライ)であり、山号と寺号はこのことに由来しているそうです。
旧上沼袋村の伊藤家とその一族の菩提寺としての特色を持っていたことから、伊藤寺とも呼ばれていたそうです。
明治16年、霊場巡拝の信仰の一つ、「御府内八十八カ所 」の第48番霊場( 林松院 )の弘法大師像が奉安されたことから、第48番霊場となったそうです。
本堂です。真言宗のご本尊(ほんぞん)は大いなる智慧(ちえ)と慈悲(じひ)をもって、すべてのものを照らす根本(こんぽん)の仏さまである大日如来(だいにちにょらい)だそうです。それぞれにご縁のある仏さまへの信仰も、すべて大日如来につながっており、多種多様な仏さまは、大日如来の身を変えた姿なのだそうです。

こちらは六地蔵です。

単独で地蔵さんがありました。

弘法大師修業像です。弘法大師1150年御遠忌を記念して作成したそうです。 

イチョウは面白い形をしていました。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする