ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

秋葉神社再訪(秋葉権現宮・千代世稲荷社)江戸名所図会めぐり

2017年11月21日 23時03分05秒 | 江戸名所図会めぐり

秋葉神社には以前訪れていますが、江戸時代から紅葉の名所ということで、再度この時期に散策してみました。向島百花園(新梅屋敷)の近くで江戸時代の名所の一つだったようです。隣には大きな料理屋が2軒並んでいます。

江戸名所図会では

方向感観がよくわかりませんが、今の正面の鳥居です。由緒書きがあります。

★ランドマーク秋葉神社:昔この地を五百崎の千代世の森と云い千代世稲荷大明神がまつられていた。草創は正応2年(1289)と伝える。江戸時代の始め善財という霊僧この森に庵を結び精修数年の後、秋葉大神の神影を彫みこれを社殿に納めて消え去った。元禄の始め修験者葉栄が神感得てこの社に参り祈願の利益をうけ、当時請地村の長百姓岩田与右衛門を通じ寺社奉行に願出て上州沼田城主本多正永の報賛にて、元禄15年(1702)秋葉稲荷両社と称して社殿を造営し又千葉山満願寺を興して別当となった。

爾来鎮火の霊験・産業縁結びの神徳により諸大名はじめ士庶人の信仰を受け、享保2年(1717)に神祇管領より正一位の宗源宣旨を受けるに至った。明治元年神佛分離令の施行により、秋葉神社と称し別当満願寺を廃した。大正12年の震災に社殿倒壊し、昭和5年復興したが、昭和20年戦災にかかり昭和41年氏子崇敬者の奉賛により現社殿を再建した。

奥に東京スカイツリーも見えます。

わたし彩(いろ)江戸名所図会より

キャプション:請地 秋葉権現宮 千代世稲荷社  社頭に青松、丹楓(たんぷう)おほし。晩秋の頃、池水に映じて錦をあらふがごとく、奇観たり。

広重 『江戸名所百景』[請地秋葉の境内]

紅葉が象徴的に描かれています。

真っ赤にはなっていませんが少し色付いています。神木のイチョウ

石燈籠がたくさんありますが、墨田区の登録文化財になっています。

狛犬は顔が破損していました。

神楽殿

この自転車で散策しています。杖を付けられるようにしてあります。この道路を挟んで料理店があったのでしょうか。右手の先に行ったところにはお好み屋さんありますが、テニスが終った後に時々きていましたが、神社のことは全く気にしていませんでした。

江戸名所図会にはもうひとつ描かれています。

 江戸名所図会より 

★庵崎:俗間、請地秋葉権現の辺(あたり)をしか唱ふれども定かならず。須崎より請地秋葉の近傍(ちかく)までの間、酒肉店(りょうりや)多くおのおの籞(いけす)をかまへ鯉魚(こい)を畜(か)ふ。酒客おほくここに宴飲す。中にも葛西太郎といへるは、 葛西三郎清重の遠裔といひ伝ふれども是非をしらず。むさしやといふは、昔麦飯ばかりを売りたりしかば、麦計(むぎばかり)といふここにて麦斗(ばくと)と唱へたりしも、いまはむさしやとのみよびて、麦斗と号せしをしる人まれになりぬ。

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六義園の紅葉(11月19日)

2017年11月19日 23時08分14秒 | 公園散策

東京の紅葉の名所になっているということで、この時期(11月19日)に訪れてみました。ちょっとまだ早かったようです。

以前仕事の途中で入ったのは正門からでしたが、今回は駒込駅からで染井門から入りもっぱら右半分だけ回りました。

★ランドマーク六義園: 

六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられておりました。元禄8年(1695)、五代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、柳澤吉保自ら設計、指揮し、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を造り上げました。
六義園は吉保の文学的造詣の深さを反映した繊細で温和な日本庭園です。
庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来します。

庭園は中の島を有する大泉水を樹林が取り囲み、紀州(現在の和歌山県)和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として映し出されています。
明治時代に入り、岩崎弥太郎氏(三菱創設者)の所有となった当園は、昭和13年に東京市に寄付されて一般公開されることになりました。昭和28331日に国の特別名勝に指定されました。

回良かった写真は渡月橋の所でした。赤く紅葉しているのはハゼの木のようです。交互通行していました。

大泉水

吹上松

少ない紅葉を探して撮っています。吹上松の裏のトイレのところです。ここから染井門に戻ります。ツツジ茶屋です。

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新宿御苑の紅葉(昨年を振り返って)

2017年11月18日 09時22分07秒 | 公園散策
 
新宿御苑の紅葉(2016年11月17日)
鍼灸治療に行く途中で、新宿御苑に菊と紅葉を見に行ってきました。小春日和で園内散策には絶好の日和でした。楓の真っ赤な紅葉やイチョウの鮮やかな黄色までには2-3日早い感じがしましたが、......
 


新宿御苑に今年の秋も2回ほど訪れていますが、昨年のこの時期のものが一番良かったようです。今日明日はほかに出かける用事があるので、行かれません。今年は、このブログを見て楽しみます。

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宝珠院(増上寺山内 芙蓉洲弁天社)江戸名所図会めぐり

2017年11月14日 14時44分44秒 | 江戸名所図会めぐり

東京タワーの下の所にある会社を2月に2日ずつ訪問しているので、その度にその周辺を散策しています。今回は宝珠院を散策してみました。都営地下鉄の赤羽橋駅から向かいました。

赤羽橋はこの錦絵が有名です。

広重 名所江戸百景 増上寺塔赤羽根より

江戸名所図会より 当時、増上寺には普通の人は入れなかったので、宝珠院は、増上寺の市井の人々の入り口として創られたお寺だそうです。

橋を渡って広小路の所から東京タワーです。右に行くと弁天さんの宝珠院があります。弁天池です。

 

宝珠院は今建て替えということで本堂と手水舎、地蔵堂を除いて取り壊されていました。

本堂です。手水舎子育・水子地蔵尊

★ランドマーク宝珠院・弁財天:宝珠院は、増上寺第三十世貫主生譽靈玄大僧正が、閻魔王と共に白蓮池の辨才天女を勧請、別当寺として貞享2年(1685)に創建したということです。港区七福神の一つとなっている弁財天は、三井寺を開山した智証大師が858年に竹生島で彫刻、源頼朝や徳川家康の崇敬を受けたといいます。

★開運出世辨才天: 三井寺の開山智証大師が八五八年竹生島で奇縁に依り彫られその後源家に伝わり再興に当り頼朝公深く信仰し天下を平定される。

 又徳川家康公も厚く信仰され天下の平和を築かれ除波辨才天を改め開運出世辨才天と改称されました。古来より一心に崇敬拝する者に開運出世巳成金福寿円満厄難消滅縁結びの利益を授けられ現在港区七福神の一つに制定されている。

閻魔大王も引っ越し中で写真のみが飾ってありました。調べて見たら取り壊す前の閻魔堂

中に飾ってあったようです。

★閻魔大王坐像および司録・司命半跏像(港区指定文化財)

閻魔大王は地蔵菩薩の変身であるといわれ、インドでは天上の楽土にあって、死者を導いたが、もちに下界におりて死者を審判する神となった。わが国では鎌倉時代(1192~1333)から、庶民信仰の対象として一般に流布するようになった。
 江戸時代には、正月と盆の16日に「地獄の蓋があく」といって参詣人が群集し、門前には露店が立ち、見世物小屋が掛って賑った。
 この閻魔代魔王坐像は、寄木造、高さ2mの大王で、貞享2年(1685)作といわれ、右に司録、左に司命の二像を従えているのは都内では珍しい。
   平成11年10月12日 港区教育委員会探してみました。ヘビとカエルは見つかりましたが、なめくじは見つかりませんでした。ネットで検索したら写真が載っていました。

地蔵さんも残っています。

えんま堂の跡地は樹木墓地になっていました。

道路を隔てた坂を登って東京タワーに向かいます。

タワーの下では菊が展示されていました。

無事坂を登り切りました。

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寛永寺・清水観音堂(台東区上野)江戸名所図会めぐり

2017年11月12日 23時45分38秒 | 江戸名所図会めぐり

上野不忍池の水上音楽堂であった「ともしび大うたごえ喫茶」に行く途中で上野公園を散策しました。上野の山の紅葉と清水観音堂が目的でした。上野駅の公園口から東京文化会館の裏を抜けて動物園方面に向かって歩く途中です。TOKYO数寄フェス』が開催されていました。

右手のところに野口英雄像がありました。

これは何かわかりませんでした。目的の清水観音堂と関係の深いものでした。

これは2017年東京藝術大学の学園祭である藝祭で展示された巨大な御輿だそうです。

清水堂に向かうので、昔使った野球場のところをに行ってみました。右が文花会館です。

 

正岡子規記念球場になっていました。

小高い丘がありました。

すり鉢山古墳のようです。

階段を昇って反対側に降りました。こんな塔がありました。

★ランドマーク時忘れじの塔:は「東京大空襲」の犠牲者を悼む慰霊碑です。

落語家で、故林家三平さん夫人の海老名香葉子さんらにより建てられました。

碑文には

時忘れじの塔

関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年)東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。
今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の目印として、この時計台を寄贈しました。

建立、寄贈 初代林家三平妻 海老名香葉子
建立有志一同

いよいよ清水観音堂です。ここの石段を登りました。拝殿です。

ここから不忍池を見ています。

反対側に降りて

★ランドマーク清水観音堂:清水観音堂は、寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。
天海大僧正は寛永2(1625)年に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお堂です。
清水観音堂は、京都の清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩像が天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ舞台作りで、初めは上野公園内の「擂鉢(すりばち)山」に建てられました。しかし元禄初期、今の噴水広場の地に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7(1694)年9月に現在地に移築されました。上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。 

清水観音堂は錦絵に多く描かれています。

広重 名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池

広重 東都上野花見之図・清水堂

広重 東都名所 上野清水堂

 錦絵の左手の建物は吉祥閣です。江戸名所図会では右下に文殊楼と描かれています。これがその文殊楼を模したものだそうです。

 古地図(錦絵)と江戸名所図会の名称が異なっているように思えますが。

右手の桜は

「秋色桜(しゅうしきざくら)」といい、近くの井戸とともに江戸時代から知られる桜です。
江戸時代に、日本橋の菓子屋のまだ13歳の娘が、花見の折に「井戸はたの 桜あぶなし 酒の酔い」と一句したためて桜の枝に吊して帰ったところ、当時の寛永寺住職であった輪王寺宮のお褒めにあずかったそうです。その娘は成長すると宝井其角門下の俳人となり、菊后亭秋色と号しました。それを記念して「秋色桜」と名付けられた桜は、現在およそ九代目にあたると言われています。江戸名所図会より

ここに清水観音堂と秋色桜が描かれています。絵の階段は清水坂です。

不忍池に降りる階段になっています。

坂の途中にある石燈籠は天明6年(1786年)と記銘してあります。下の通りかた見上げています。

本堂の前にある月の松は

広重 名所江戸百景 上野山内月のまつ  です。

 

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