寺報の表紙のカラーバージョンです。
こうすると、本堂に入られたことのある方なら、きっと一目お分かりになられたと思います。
これは下陣の天井から下がっている「天蓋(てんがい)」です。
全体を写すとこんな感じ。
なんだか重そうですよね。
キンキラの鈴がついた飾りは、揺らしたらシャラシャラと美しい音色が鳴り響きそうな印象を与えます。
でもコレ、金属ではなく、木でできています。
一見、そうは見えませんよね。
私も実際に触ってみるまで、金属と思っていましたし。
近くで見ても木には見えないのですが、実際は木を削って作られたお荘厳に金箔が貼られているものです。
なので触れてみると、想像していた重みは全くなく、とても軽くて驚きました。
六角形の頂点には、それぞれに鳥がとまっています。
なかなか細部にまで目が行き渡らないので、天蓋の彫刻にまで気が回らないことと思います。
この機会に、本堂に入られた際は、まず阿弥陀さまに手を合わされたあと、上を見上げてみてはいかがでしょうか?
あ、触れるのはダメですよ? (笑)
秋の寺報の締切りが迫ってきました。
過去、どんなことを書いていたのかを見直していると、2年前の秋号に「生前」という言葉についての記事がありました。
というわけで、どうぞ。(笑)
「生前」という語が日常会話に出てくることは稀ですが、例えば「生前はお世話になりました」などは、故人に代わってのお礼を言うときによく使われているので、それほど珍しくはないでしょう。
皆さんもいろんな場面で「生前」という言葉を耳にしたことがあると思います。
辞書によると、「生前」とは亡くなられた方の「生きていた間」のことを指しています。
しかし、「生まれる前」と書くのに、なぜ「生きていた間」という意味になるのか、不思議に思われたことはありませんか?
字のままを普通に考えれば、「生前」とは「この世に産まれる前」のことになってしまいます。
その場合の逆は「生後」であり、生後何ヶ月というように、この語は産まれた後のことを意味しますが、「生前」をこのような対比で考えると、どうしても違和感が残ります。
似たような考え方でもう一つ、「死後」という言葉があります。
これはそのまま「死した後」、つまり「亡くなった後」を指しますが、対比となる「死前」という言葉は存在しません。
けれど、「生きていた間」という意味を表すならば、この「死前」もしくは「生間」という言葉があると、聞く人に違和感を与えることなく伝えることができるのにと、つい思ってしまいます。
しかし、「生前」という言葉には、普段の私たちでは量り知れないほど大いなる意味が込められているのです。
では、その意味を簡単にまとめてみましょう。
人が亡くなることを、「往生する」とも言うことはご存知だと思います。
「往生」とは「往きて生まれる」ということ。
どこに往って生まれるかというと、阿弥陀さまの世界「お浄土」に往生するのです。
私たちは死んだらお墓の下で眠るわけではありません。
どこで亡くなろうと、どこに遺骨が納められようと、私たちは阿弥陀さまのお浄土に往き生まれ、自分や他人といった個を超えた差別(しゃべつ)のない世界で再び出遇うという、阿弥陀さまのみ教えの中に包まれているのです。
さあ、そろそろ見えてきたのではないでしょうか?
そうです、「生前」とは「お浄土に生まれる前」のこと、つまり今このときを指しているのです。
「生前」は「生後」や「死後」といった言葉との対比で考えるものではなく、この命の行く末が阿弥陀さまのみ教えに照らされ明らかになったところに「生前」という言葉があるのです。
往生するその前に、光輝くこの命が、何の光に照らされて尊く耀いているのかを知ろうとすることで、初めて「生前」の意味を受けとめることができるのではないでしょうか。
……ちゃんとしたことを書いていてビックリ。
あと1週間、頑張ります…。
今回の寺報の表紙を飾ったのはコチラの写真。
山門の獅子の彫刻です。
そして、ボツになった写真がコチラ。
山門を別のアングルから撮ったものです。
さて、左は獅子ですが、右の彫刻は何でしょう?
私は象だと思ったので、寺報の草稿案にも左端に「山門の彫刻 獅子と象」と書きました。
すると、住職が一言。
「獏という説もある」
・・・え、獏ですか?
獏(バク)とは、中国から日本へと伝わった伝説上の生き物です。
体は熊、鼻は象、目は犀、尻尾は牛、足は虎に似せて創られたとのこと。
一般的に人間の悪夢を食べるとされていますが、これは日本に伝わってからの解釈のようで、もともとは邪気を払うという伝説が中国にあったそうです。
それはともかく、最乗寺のは象鼻なのでしょうか、それとも獏なのでしょうか?
見ただけでは分からない・・・ちょっと調べてみることにします。
とりあえず、今回撮影した箇所はココです。
梅の木に隠れていますが、白い○で囲われた部分を撮りました。
今度お越しになられたときには、どうぞ上をご覧になってください。
如意宝珠を握った龍も、皆さまが通られるのを今か今かと心待ちにしていますよ(笑)
今日は節分です。
ということで、昨年の春に発行した寺報の2面に掲載した記事に、節分に触れたものがあったので、こちらに転載することにします。
お題は【角隠し】です。
では、どうぞ…。
角隠しとは、婚礼の際に和装の花嫁の頭を覆う帯状の布のことです。
皆さまの中には、被られた経験のおありの方もいらっしゃることでしょう。
この角隠しの由来には諸説ありますが、その一つに、むかし浄土真宗のご門徒の女性が報恩講の参詣の際に、髪の生え際を隠すために頭を黒い布で覆ったことを起源とする説があることをご存知でしょうか?
この黒い布を「すみかくし」と言い、この説では「すみ」を漢字で「角」と書くことから、転じて「つのかくし」になったといいます。
さて、「角」と聞いて連想するのは「鬼」ですが、皆さんは2月の節分で豆まきをされましたか?
最近では恵方巻きという太巻きを、その年の良い方角に向かって、かぶりつきながら一気に食べるという一地方の風習が、流行のように全国に広まっているようです。
節分というと、お相撲さんや有名人がお寺で豆をまいている映像をよく見かけます。
それを見て、お寺と節分は関わり深いものだと思われているかのかもしれませんが、実は浄土真宗には福を呼び寄せるための節分という行事はありません。
なぜなら、「鬼は外・福は内」と豆をまく姿は、「都合の悪いもの=鬼」を遠ざけ、「自分に都合のよいもの=福」だけを取り込もうとする、自己中心的な煩悩の現れそのものと考えるからです。
また、浄土真宗のみ教えから鑑みれば、豆をまく相手、すなわち「鬼」とは、どこからともなく現れるのではなくて、他でもない自分の中に鬼はいるというのが道理となります。
浄土真宗の妙香人(=篤信者)で知られる浅原才市さんには、自分の肖像画を見て、「これは私じゃない、角を書き足してくれ」と絵描きさんに強く注文したという逸話が残されているように、自覚無自覚を問わず、誰もが自分の内に浅ましく、醜い感情を抱えています。
それはたとえ自分に豆をまいたとしても、退治できるような代物ではありません。
その私を、そのまま引き受けてくださる阿弥陀さまの大慈の中に包まれているというお念仏の心に触れれば、節分に豆をまかなくても安心して過ごせることでしょう。
その心で見れば、婚礼衣装の角隠しは、通説でいうところの嫉妬や怒りからの角を隠そうとしているのではなく、「私の内には鬼がいる」という自覚から生まれた、恥じらいの意識が形になったものとも考えられるのではないでしょうか?
…という記事でした。
ついでに個人的なこと書きますが、小さい頃に読んだ何かの川柳で、
「朝起きて 鏡の中に 鬼を見た」
というものがありました。
読んだころは、その場面を想像して怖くなったのでしょうが、今では現実となって毎朝鬼というか、異形の相とご対面しています。
特に目が怖い…顔筋の衰えとは恐ろしいものですね…。
ちなみに川柳を詠んだ方は、朝になっても帰ってこない夫への怒りから気づかないうちに歪んていた顔を、顔を洗うために立った洗面所の鏡の中に見た悲しみを詠んだものだったはず。
幸いなことに、私より就寝時間の早い旦那なので、そういう面では心配なさそうです(笑)
≪寺報【最乗寺だより】 2006年夏号 2面記事より≫
お盆の正式な名称は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といって、「仏説盂蘭盆経」というお経が、お盆の起源だといわれています。
この経典の内容を簡単に説明します。
あるとき、お釈迦さまのお弟子である目連は、「優しかった亡き母は今どうしているのだろう?」と思い、神通力でを使って死後の世界を覗いてみました。
すると、母親は餓鬼道という地獄にいたのです。
驚いた目連は母親を助けようとしますが、助けることができません。
そこでお釈迦さまに相談すると、こうお答え下さいました。
お前の母親は、お前には優しかったかもしれないが、お前を愛する余り、他には冷たかったのだ。
その報いで、お前の母は今、餓鬼道にいる。
孝行者のお前でも、一人の力では母親を助けることはできないだろう。
助けたいのならば、皆の修行があける7月15日(旧暦)に、大勢の修行者に食べ物などを振る舞いなさい。
目連はお釈迦さまに言われたとおりにすると、母親は餓鬼道から抜け出すことができました…というお話です。
さて、この話を聞いて、どう思われましたか?
実はこのお経の見解は、宗派によって異なり、二つの見方が存在します。
一つは、「地獄に落ちた先祖を助ける方法が書かれている」という見方です。
お盆になるとナスの牛やキュウリの馬を作ったり、迎え火や送り火を焚いている光景を見かけたり、実際になさっている方もいらっしゃるかもしれません。
その場合の視点がこれにあたります。
そして二つ目は、「もしかしたら私はこの目連ではないか? 自分のために家族がしてくれたことに気付きもせず、感謝を忘れていたのではないだろうか?」、「もしかしたら私はこの母親ではないか? 身内を愛する余りに、他を蔑ろにしてはいないだろうか?」、そして「母親だけを救うことにとらわれて、他の苦しみを素通りしていたのではないか?」…という見方です。
最初の見方の場合、お盆は先祖を供養する仏事になります。
二つ目の見方の場合、先祖だけでなく、自らを省みる仏事ともなり、仏縁への感謝の仏事ともなります。
浄土真宗のお盆は、この二つ目の見方の意味合いを持っています。
己のありように気付かせて下さったご先祖の仏さまと、決して餓鬼道に堕とすことなく、必ず浄土に往生させようという、阿弥陀さまの功徳と大悲に「南無阿弥陀仏」と手を合わせて、感謝の気持ちと共に、お盆を過ごしましょう。