昨日、寺報を発送いたしました。
今回は報恩講法要のご案内がメインとなっております。
そして、表紙はというと…。
恒例のカラーバージョン。
本堂の前に咲いている芙蓉です。
7月から10月の間、咲き続けています。
果たして報恩講のときまで咲いているでしょうか? (笑)
どうぞ寺報と芙蓉をご覧くださいませ。
秋のお彼岸です。
お彼岸と言えば彼岸花。
秋の寺報の表紙にしたかった写真です。
残念ながら、モノクロに耐えられずボツになりました。
もう少しで、寺報が完成します。
表紙の写真がどうなったのか、どうぞお楽しみに。(笑)
『匂い』というか、『臭い』というか。
見上げると、オレンジ色したツブツブが目に止まります。
そう、アレです。
銀杏です。
台風一過の後、オレンジの絨毯が境内に敷き広げられることでしょう。
いまから戦々恐々です。(汗)
今日はお経の会がありました。
なんだか、後ろ姿がしっかりとしてきた龍くん。
お経本の振り仮名を追いながら、小さな声ですがお勤めしています。
いつもは途中で寝てしまうのですが……。
あぁぁぁぁぁ、やっぱりな展開。(汗)
お行儀の悪い姿で申し訳ありませんっ!!
しかし、いつもは善導さまに辿り着く前に撃沈してしまうのですが、今日はご和讃のところまで起きていられたので、ちょっとばかりの成長を感じました。 (←親バカ)
若住職からの法話があり、お座敷に移ってのお茶会あり。
とっても穏やかな時間が過ごせる、貴重なご縁をいただいた会となりました。
見上げると、空には大きな雲ばかり。
入道雲みたいな大きさなのに、とても速いスピードで流れていきます。
一緒に見上げていた龍くんは、「みんな(家族)一緒に乗りたいね」と言っていました。
あの雲が『ドラゴンボール』に出てくる筋斗雲なら、龍くん以外は乗れないなと思ったりしました。
なぜなら、主人公の孫悟空が乗る筋斗雲は、心が清らかでないと乗ることができないから。
でも、私はいつから自分は乗れないと思うようになったのでしょう。
浄土真宗のとある和上は、
「自分が罪深い」と思うことが偉いのではない。
「罪深い」と思うことが信心なのではない。
自分で「罪深い」と思うことは、どこまで行っても自分の行いでしかない。
そうおっしゃって、自分の罪深いのは頭の中から捨ててしまって、すべてを阿弥陀如来におまかせしてと続けられました。
『わが身の罪のふかきことをばうちすて、仏にかませまゐらせて、一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし。』 (御文章五条四通)
阿弥陀さまのみ教えに出遇うことは、我が身の愚かさに気づかされることでもあります。
その数々が、筋斗雲に乗ることなど到底できないと、私に自覚を促しているようにも思います。
けれど、その気づきは大切ですが、余分な愚かさを自分に思い込ませてはいないだろうかとも感じました。
そして、愚かさに気づいている自分のほうが、周りの人より多くの物事が見えていると胸を張ってはいないかとも感じました。
「愚かなつもり」「罪深いつもり」
でなければ、自分以外の筋斗雲に乗れる可能性を一刀両断したりしないでしょう。
「おまかせしているつもり」
それが一番怖いものです。