「【人】という漢字は、人と人が支えあってできている」
誰もが知っている、3年B組の金八先生が残した名ゼリフです。
ドラマを見たことはありませんが、このセリフだけは印象深く、今も私の心に刻まれています。
ですが最近、この【人】という漢字が、「人が1人で立っている姿」を表している字であるという衝撃的事実を知りました。
なんとなく、あると信じていた足場が崩れたような気さえしてきます。
それにしても、【人】が関わる漢字を見てみると、結構面白いものです。
【人】が【動く】と書いて、【働く】
【人】が【言う】と書いて、【信じる】
【人】の【夢】と書いて、【儚い】
【人】の【為】に【人】が【為す】と書いて、【偽り】
今回は、この【偽り】についてお話しましょう。
【為】は猿の象形文字で、「人間に似ているけど違う」という会意なのですが、やはり漢字の部位のまま、人の為と書いて偽りと読むことのほうが、インパクトが強いのではないでしょうか。
では、人の為が偽物ならば、何の為が本当なのかと考えたら、やはり自分の為というのが一番しっくりくるような気がします。
「情けは人の為ならず、回りまわって自分に返る」という言葉があります。
誰かのためにしていることでも、いつかその行為は自分に返ってくるのだから、それは人の為ではなくて、自分の為でもあるんだよ…ということですが、そこに「自己満足」という気持ちが入り込んだ瞬間、その行為は偽善のようにも感じられはしませんか?
どんなときでも、どんなことでも、誰かの為ではなくて、自分一人の為だけに人間は行動しているんだよ。
綺麗事を言う前に、自分の本性をきっちり見よ。
…偽りという漢字が、そう言っているような気がしてきました。
「人は1人で立っているもの」
そう思うことの傲慢に、気付くことのないまま「人の為」と言われても、その行為は時に重荷のように感じさせてしまうだけの、押し付けがましいものとなってしまいます。
だからこそ、自分という存在が、すでに誰かによって、何かによって、ありとあらゆることが為された結果にあるということに気付くことは、とてもとても大切なんだと思うのです。
自分の為に、為されていたこと、そして為されていることを知ろうとすることで、いろんな人に寄りかかっている自分の姿が見えてきます。
自分が【人】という字の支える方じゃなくて、長いほうだということに気付きます。
決して一筆書きすることのできない【人】という字は、やはり1人ではなくて、多くの人と共に生きている姿を教えてくれるものだったんだと、改めて感じました。
だから、「どうぞ寄りかかってください」と、自分の空いている腕や肩を差し出すのは、とても自然なことです。
長い方の自分を知ることで、自分を支える短い方の存在を知ることができます。
そして同時に、自分もまた短い方になれるということも知ることができるはずです。
「おかげさま」と「お互いさま」
自と他を分けるのではなく、繋がり合った同じ命を生きるものとして、同じ命を生きるもののために為された行為に、「偽り」はありません。
それでも、自と他を分けて、自己満足の生き方をしてしまうのが、この私です。
だからこそ、自と他を分けることもなく、同じ痛みに泣き、同じ喜びに微笑む阿弥陀さまのみ教えに、自然と手が合わさるのではないでしょうか?