週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
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誰の為に何を為す?

2010-08-31 00:23:15 | 法話のようなもの

「【人】という漢字は、人と人が支えあってできている」

誰もが知っている、3年B組の金八先生が残した名ゼリフです。
ドラマを見たことはありませんが、このセリフだけは印象深く、今も私の心に刻まれています。
ですが最近、この【人】という漢字が、「人が1人で立っている姿」を表している字であるという衝撃的事実を知りました。
なんとなく、あると信じていた足場が崩れたような気さえしてきます。

それにしても、【人】が関わる漢字を見てみると、結構面白いものです。

 【人】が【動く】と書いて、【働く】
 【人】が【言う】と書いて、【信じる】
 【人】の【夢】と書いて、【儚い】
 【人】の【為】に【人】が【為す】と書いて、【偽り】

今回は、この【偽り】についてお話しましょう。

【為】は猿の象形文字で、「人間に似ているけど違う」という会意なのですが、やはり漢字の部位のまま、人の為と書いて偽りと読むことのほうが、インパクトが強いのではないでしょうか。
では、人の為が偽物ならば、何の為が本当なのかと考えたら、やはり自分の為というのが一番しっくりくるような気がします。

「情けは人の為ならず、回りまわって自分に返る」という言葉があります。
誰かのためにしていることでも、いつかその行為は自分に返ってくるのだから、それは人の為ではなくて、自分の為でもあるんだよ…ということですが、そこに「自己満足」という気持ちが入り込んだ瞬間、その行為は偽善のようにも感じられはしませんか?

どんなときでも、どんなことでも、誰かの為ではなくて、自分一人の為だけに人間は行動しているんだよ。
綺麗事を言う前に、自分の本性をきっちり見よ。
…偽りという漢字が、そう言っているような気がしてきました。

「人は1人で立っているもの」

そう思うことの傲慢に、気付くことのないまま「人の為」と言われても、その行為は時に重荷のように感じさせてしまうだけの、押し付けがましいものとなってしまいます。
だからこそ、自分という存在が、すでに誰かによって、何かによって、ありとあらゆることが為された結果にあるということに気付くことは、とてもとても大切なんだと思うのです。

自分の為に、為されていたこと、そして為されていることを知ろうとすることで、いろんな人に寄りかかっている自分の姿が見えてきます。
自分が【人】という字の支える方じゃなくて、長いほうだということに気付きます。
決して一筆書きすることのできない【人】という字は、やはり1人ではなくて、多くの人と共に生きている姿を教えてくれるものだったんだと、改めて感じました。

だから、「どうぞ寄りかかってください」と、自分の空いている腕や肩を差し出すのは、とても自然なことです。
長い方の自分を知ることで、自分を支える短い方の存在を知ることができます。
そして同時に、自分もまた短い方になれるということも知ることができるはずです。

 「おかげさま」と「お互いさま」

自と他を分けるのではなく、繋がり合った同じ命を生きるものとして、同じ命を生きるもののために為された行為に、「偽り」はありません。

それでも、自と他を分けて、自己満足の生き方をしてしまうのが、この私です。
だからこそ、自と他を分けることもなく、同じ痛みに泣き、同じ喜びに微笑む阿弥陀さまのみ教えに、自然と手が合わさるのではないでしょうか?


平等の拠り所

2010-08-28 02:08:13 | ひとりごと

自分への飽くなき挑戦かのように、積み上げ続けていた新聞に雪崩が起き、地殻変動が起こった。
開き直って、一番上の新聞を読み直す。
すると、イスラム教のラマダーン(断食月)について触れられている記事が目に付いた。

ラマダーンとは1ヶ月の間、夜明けのコーランの詠唱が聞こえた瞬間から、日暮れの詠唱が終わるまで、食事はおろか、水も飲んではいけないというイスラム教の儀式。
それは35度を越す暑さの中の断食。


「なんでラマダーンがあるかわかるかい?」

「水とか食べ物に感謝を忘れないためでは?」

「それはそうだけど、もっと大きなことがある。
 ラマダーンは王様も貧乏人も等しく行う。
 すると、裕福な人も食べられない、飲めないという辛い気持ちが分かる。
 神様の前で、みんなが平等であることが分かるんだ」


ああ、そうだったのかと素直に納得する。

生きとし生けるものが平等だと言われても、それを実感することは難しい。
現実に、あまりにも不平等なことが溢れているように思うから。
けれど、それは私の目から見た世界。
私の都合や価値観で、平等にも見え、不平等にも見える。
違いを見つめることから平等が語られるべきだが、違いを認めることができない。

私は、縁に触れて、縁によって生じる、仮の存在。
永遠不変なものなど何一つない、曖昧なもの。
そんな目で判断したものに、真実はない。
そして、それぞれが様々な姿・形・思想を持っていて、共通の判断も真実もない。

だから仏教の平等は、人間の目線から語られることはない。
仏のみ教え、その真実の側から語られる。
「必ず救う」という願いと智慧と慈悲。
その同じ真実に、生きとし生けるものを分け隔てることなく包み込まれているという平等。

肉体的・精神的に等しく苦しい思いをして、神の前の平等を実感することもある。
それはそれで、見える真実もあるだろうし、否定をするつもりはさらさらない。
ただ、違う真実もあるというだけ。

自分の力で平等を知ろうと頑張ると、どうしても自分の都合が入り込む、そんな自分の弱さを知っているから。
だから私が、平等の本当の意味を知るには、やはり仏のみ教えを聴くことしかないのだろう。

「なんで、あんな人が救われるの?」

そうやって、誰かを評価し、文句を言う前に、

「他ならぬ私が救われる」

そのことが、何よりもの平等の証であるとことに。
気付かせていただけるのは、み教えを聴き、それを我が事と思うかどうかに縁っている。

さて、新聞を片付けるか…いや、積み直すか。
自分への飽くなき挑戦は続く。

 


愛情サイズ

2010-08-25 00:00:13 | ひとりごと

最近、息子が物をよく投げるようになりました。

積み木だったり、本だったり、オモチャ箱だったり、スプーンだったり。
思い通りにならなかった時や、退屈でかまって欲しい時にする行動。
自己主張ができるようになったんだと喜ぶ反面、当たると痛い。
人に向けて投げた時は、手を握って「ダメよ」と注意することが大切とのこと。
それをきちんとしていかないと、小学生になったくらいの時にエスカレートした問題行動をとるようになってしまうと保健師さんに忠告されました。

スーパーなどの商業施設で、よく幼い子が大きな声を上げて叫んでいる光景を目にします。
随分前のことですが、そういう行動をとる子供は親の愛情が足りないというような話を聞きました。
それ以来、私は叫んでいる子供を見ると、この子は愛情が足りないんだという目で見るようになっていました。

けれど、自分が子供を授かり、視界が一変しました。
物を投げたり、叫んだり、それは発達の1ステップ。
愛情が足りていようがいまいが、自分の気に食わないことがあれば叫ぶのが子供。
親の愛情の形が、子供の望むものではなかったから叫ぶこともあるでしょう。

大事なのは、叫んだ後に親がどう子供と向き合うかということ。
そして、愛情の重さを量るのは、通りすがりに迷惑そうに眉をひそめている人ではないということです。

子供が傍にいることで、見えてくる世界は変わります。
それは今まで見えていなかったことが、これほどにまであったのかと驚嘆するほど。
だからこそ、こちらの気持ちを分かってほしいと思ってしまう。
幼い子供を抱えるということがどういうことなのか、理解して欲しいと思ってしまう。
同じ変化を相手にも望んでしまう。

でもそれは、ちょっと傲慢な考え方なのかも。
自分が変わったんだから、相手にも変わってもらいたい。
でも、その逆は?
誰も私のことを分かってくれない。
でも、その逆は?

私はいったい誰を理解し、変わろうとしただろうか?

子供を授かるという、私にはコペルニクス的転回があって、初めて気付かせていただいた数々のことを、理解して欲しいと相手に期待することは、とても酷なことです。
逆に期待されることも荷が重いもの。

だからこそ、相手に期待するのではなく、まず【自分】が【相手】を【思い量る】ということを大切にしていかなくてはならないんだなと、息子の攻撃を避けつつ考えている今日この頃です。


神奈川組 連続研修会

2010-08-22 01:36:24 | 行事のご案内

昨日、港南区にある善然寺さんにて連続研修会(連研)が行われました。

第9期の連研も、12回目となる今回で最終講座となりました。
テーマは『他の宗教に、また他の宗教者にどう対応するか?』です。

なかなか難しいテーマです。
広い視野で見れば、キリスト教やイスラム教、さらには新興宗教についても考えなくてはなりません。
しかし、今回の連研で出た意見をみると、私たちの身近な視点でも、このテーマについて考えることがあったようです。

例えば、浄土真宗以外のお通夜やお葬式、または法事の席で、どのようなお焼香の作法をしたらいいのか、迷ったりしませんか?
多くの宗派は、抹香を額に押し頂いてのお焼香を3回繰り返します。
対して浄土真宗は、押し頂くことをせず、1回だけ。
浄土真宗の作法にのっとるか、他宗の作法に合わせるか…多くの方がどうしたらいいのか判断に困っていたそうです。 

今回の講師は宣正寺のご住職・早島大英先生。
早島先生はこのテーマ全般を通してのキーワードの一つに【非難・排斥・強要をしない】ということを掲げていました。
お焼香の問題は【強要しない】が当てはまるでしょうか。
その状況において、自分が良しと思えるお焼香をすることが望ましいとのことでした。

しかし、まとめの講師である宝光寺のご住職・藤田恭爾先生は、その上で自分の宗教の作法を守ることが大切とのお話がありました。
どちらかを選ぶのではなく、すでに私たちは浄土真宗の門徒であるという意識の下にお念仏の人生を歩ませていただいているのだから、作法もまた選ぶということにはなりえないとのこと。

一見、真逆のようにも思えますが、どちらの先生のお言葉も、根底にあるのは自身が浄土真宗の念仏者という自覚があるということです。
その自覚の上に立ったとき、どのような作法をするのかは…それこそ強要されることなく自分の判断で行った作法が正しいということなのでしょう。

さて、ここからはこのテーマについての個人的な意見ですが、早島先生のキーワードに一つ付け足すことが叶うのならば、私は【比較をしない】を入れるでしょう。

≪自分の宗教(宗派)が優れていて、他の宗教(宗派)は劣っている≫

この意識は、ときに大きな渦となって世界中を荒らしてしまいます。
そして今も、止まることのない負の連鎖が多くの血を流し続けています。
いかなる宗教も、人々が争うことは望んでいない。
もし、そういう宗教もあると思うのなら、それは仏や神が望んだのではなく、人間がそう望んだだけ。

早島先生も話されていましたが、【共に生きる】という意識が大切なはず。
上もなく下もなく、優劣もなく、【共に生きる】者として、いかなる人とも接する。
言葉以上に難しいことではありますが、これこそ阿弥陀さまの願いの下、念仏者として生きる私たちが歩むべき道のような思いがしました。

次は連研の修了式が築地本願寺で行われます。
その後、半年ほどしたら、第10期の連研が開始されることでしょう。
興味を持たれた方は、最乗寺までご一報下さい。


アンパンマンの痛み

2010-08-19 01:32:01 | 近況報告

17日、息子が2歳の誕生日を迎えました。

早産で、とてもとても小さく生まれた息子。
この子がこの世に誕生した時のことはもちろん、NICUで4ヶ月を過ごし、検査結果に一喜一憂した日々も、ようやく我が家に迎えることができた日のことも、昨日のことのように思い出します。

その息子も、今ではアンパンマンの虜(とりこ)。
目に入る全てのアンパンマンに反応しては指を差し、「こっちゃ」と意味不明な単語を繰り返します。

私も小学校の図書室にあったアンパンマンを見て育った世代ですが、アニメが始まったのは、私が小説を読めるようになっていた頃のこと。
既にアンパンマンを卒業していたため、息子が好きになるまで、アニメの主題歌の歌詞をきちんと聞いたことはありませんでした。

それは思いがけない程の深い歌詞。
作詞は原作者のやなせたかしさん。
やなせさんは、特攻隊に所属していた弟さんを、戦争で亡くされたそうです。
そしてご自身も、戦時中の食糧難で大変な苦労をされたそうです。
戦争を生き抜き、生と死を嫌がおうにも見つめざるをえない状況にあって、心の傷を抱えながら懸命に前へと歩んでいった、やなせさんの人生を思いながらこの曲を聞くと、言いようのない思いが込み上げてきます。


  そうだ 嬉しいんだ 生きる喜び
  たとえ 胸の傷が痛んでも

  何のために生まれて 何をして生きるのか
  答えられないなんて そんなのはいやだ
  今を生きることで 熱いこころ燃える
  だから君は行くんだ 微笑んで

    (中略)
 
  何が君の幸せ 何をして喜ぶ
  解からないまま終わる そんなのはいやだ
  忘れないで夢を こぼさないで涙
  だから君は飛ぶんだ どこまでも

  そうだ 恐れないで みんなのために
  愛と勇気だけが 友達さ

    (中略)

  ああ アンパンマン 優しい君は
  行け みんなの夢 守るため


何のために生き、何をして生きるのか。
何が幸せで、何が喜びなのか。
その答えに正解はないのかもしれないけど、いつか息子が生きる喜びを感じるたびに、己の命を支え、時に犠牲となっているものへの痛みを思い出す仏の子に育って欲しいと、母は思っています。

さて、そんなアンパンマン好きの息子が狂喜乱舞するであろう反応を見るべく、誕生日に横浜のみなとみらいにある【アンパンマン・ミュージアム】へ出掛けてきました。
案の定、「こっちゃ」を連呼しつつ、アンパンマンの形をしたアンパンにかぶり付きながらご機嫌な時間を過ごしました。

けれど暑かったぁ…今度は涼しくなってから、ゆっくり遊びに行こうね。