今回の寺報の表紙を飾ったのはコチラの写真。
山門の獅子の彫刻です。
そして、ボツになった写真がコチラ。
山門を別のアングルから撮ったものです。
さて、左は獅子ですが、右の彫刻は何でしょう?
私は象だと思ったので、寺報の草稿案にも左端に「山門の彫刻 獅子と象」と書きました。
すると、住職が一言。
「獏という説もある」
・・・え、獏ですか?
獏(バク)とは、中国から日本へと伝わった伝説上の生き物です。
体は熊、鼻は象、目は犀、尻尾は牛、足は虎に似せて創られたとのこと。
一般的に人間の悪夢を食べるとされていますが、これは日本に伝わってからの解釈のようで、もともとは邪気を払うという伝説が中国にあったそうです。
それはともかく、最乗寺のは象鼻なのでしょうか、それとも獏なのでしょうか?
見ただけでは分からない・・・ちょっと調べてみることにします。
とりあえず、今回撮影した箇所はココです。
梅の木に隠れていますが、白い○で囲われた部分を撮りました。
今度お越しになられたときには、どうぞ上をご覧になってください。
如意宝珠を握った龍も、皆さまが通られるのを今か今かと心待ちにしていますよ(笑)
昨日、無事に佐川急便さんに引き取られていきました。
今回は世話人さん方に配っていただく分が多いので、業者さんにお願いするのはこれだけになりました。
さて、同封されている小冊子『よろこび』の中に、目に止まった一文がありました。
それは、最初に執筆されている西原祐治師の「ごめんなさい おかあさん」の中にあります。
この私の〝あって当たり前〟という思いを、どう壊していくか、それが仏教の歴史です。(中略)
ところが阿弥陀仏の救いを説く浄土真宗では、〝あって当たり前〟の心を壊していくのではなく、壊すことのできない者をそのまま認めていこうとする考え方に立っています。
〝あって当たり前〟の心を壊すのではなく、〝あって当たり前〟の心を持っているという自覚を促し、それでもなおその心を捨てることのできない自分に気づかされていく。
そして、その私の、そのままを認め、受け止めてくださるという阿弥陀さまの慈悲を聞いていくということ。
なるほど、なるほど。
私はこれまで、「念仏は殻を纏った自らが崩壊する音である」という言葉を大事にしてきました。
自分を絶対化することの危うさを、指摘してやまないはたらきが念仏であると・・・。
だから、〝あって当たり前〟も自分を絶対化することで生まれる価値観である以上、み教えの前では崩壊するもので、それでもその価値観を完全に捨てることのできない自分であるということに気づかされていく、というふうに受け止めていたのですが・・・・。
阿弥陀さまは隔てなく、壊せない人をも包んでいるのですね。
皆さまにも、いろんなことろで共感していただけたら嬉しく思います。
そして、この抜粋した文章の中に、「ところが」が「とろこが」になっているという誤植を見つけてしまいましたので、そちらも合わせてご確認くださいませ(笑)
春の寺報がなんとか完成しました。
左上で押さえている指は若住職のもの。
刷り上ったばかりで、端がペラっとめくれてしまうため、撮影にご協力願いました(笑)
明日にも発送作業に取り掛かり、4月の永代経法要のご案内とともに皆さまの元へとお届けいたします。
今月は文章を書く作業が重なって、正直しんどかったのですが、これでようやく区切りをつけることができました。
あー、やっと終わった!
当分何にも考えたくなーい!!
似て非なるもの。
例えば、「鰻と穴子」とか、「素麺と冷麦」とか、「埴輪と土偶」とか。
例えば、「ドラゴンとゴンドラ」とか、「ひまつぶしとひつまぶし」とか。
見た目が似てても全く別物だったり、字面が似てても全く別物だったりと、探してみれば結構あるものです。
そして、そのどれもが間違ってしまったときには笑い話になったりする部類のもの。
しかし私には、似てても違うということを意識し、その違いを心にかけている言葉があります。
それは「批判と非難」です。
普段はあんまり違いを意識しない、この二つの言葉。
私も似たような意味であろうと思い込み、混同しながら使っていましたが、あるとき指摘を受けて目が覚めました。
「あなたの言っていることは、批判じゃなくて非難しているだけ」と。
「批判」とは、「物事に検討を加えて、判定・評価すること」
または「人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること」。
対して「非難」とは、「人の欠点や過失などを取り上げて責めること」。
客観的に見れば、国会の代表質問などは「批判」ではなく、「非難」の応酬です。
欠点を指摘して正すべきであると主張はするけど、論じるのではなく責めるだけ。
責めるだけでは相手の尊厳は保たれず、その結果として正すべきことも正せなかった出来事が、歴史の図書館に溢れています。
だからといって、「批判」を奨励しているわけではありませんが、意味だけを考えれば、「批判」はより良い方向へと進んでいくための前向きな意志と姿勢が感じられます。
でも、忘れてはいけません。
自分が物事を判定・評価し、誤りや欠点を指摘し、正すべきであると論じるだけの、確かな価値観を持っているか省みるということを・・・。
揺るぎない信念のもとの「批判」であろうと、揺るぎないが故に見えなくなってくるものがあります。
「批判」と「非難」は、「似て非なるもの」。
「似て非なるもの」は、「似非(えせ)」とも言います。
「似非」とは「似てはいるが本物ではない、にせものである」という意味です。
私の信念が「にせもの」とならぬよう、常に仏法という「真実」に照らし出された我が身の有り様を省みていかなくてはならないということを、考えるご縁をいただいた一日でした。