世間はGWに突入したようですね。
横浜では余震も落ち着いてきたようなので、少し遠くに足を伸ばす予定の方も増えたのではないでしょうか。
今は何かと自粛ムードと言われてしまいますが、この1月半の間の出来事を思うと、いつ何が起きるか分からない不安から、あまり遠出をしたくないというのが正直なところ。
自粛しているというよりも、心が落ち着かなくて、家から離れたくなかっただけ。
しかし考えてみれば、いつ何か起きるか分からないのは、今に限ったことではないのですよね。
今までだって、いつ何か起きるか分からない状態にありました。
事故に遭うかもしれないし、事件に巻き込まれるかもしれないし、事故や事件を起こす側になるかもしれないし。
そんな状態にあることを気にも留めず、普通に海外にでも行っていたわけです。
それが震災が起きて、自分が不確かで危うい日常を生きていたということを、目に見える不安として感じるようになったということなのでしょう。
今までのすべてが、いつ何か起きるか分からないという要素でできていて、その結果に今の私があるということ。
これからのすべても同じこと。
それが縁ということ。
そう思うと、前に進めそうな気になってくるのですが、葬儀や法事で予定が詰まったGWなので、やっぱり家にいることが決定済み。
皆さんも、遠出がしづらければ、最乗寺の新緑をご覧になって、心を落ち着かせてみてはいかがでしょうか?(笑)
さて、遠出を怖がる私を尻目に、副住職は所用で鹿児島の実家へ帰省していました。
いろいろお土産を携えて帰ってきましたが、中でも一押しがこちら。
唐芋レアケーキ フェスティバロ・ラブリー
飛行機の客室乗務員さんのクチコミで、人気に火がついたお菓子だそうです。
以前、ららぽーと横浜の大丸に店舗がありましたが、残念ながら今は撤退してしまっていてありません。
なので、久しぶりに頂きましたが、やっぱり美味しい♪
遠くに行けなくても、十分幸せです(笑)
昨日は震災の四十九日忌法要が、浄土真宗の本山を始め全国の別院で勤められました。
地震の起きた14時46分に合わせ、梵鐘や喚鐘が鳴らされたそうです。
法要に参列することは叶いませんでしたが、鐘が鳴らされたであろう同時刻に、私と龍くんは静かに手を合わせながら過ごしました。
震災によって亡くなられた方々の9割以上が、地震ではなく津波によって命を落とされたといいます。
ならば49日前のこの時間には、まだ多くの方が生きておられたんだと考えると、手を合わせながら、あまりにも惨い無常の波に襲われた人々の一人一人の人生を思って、涙が零れました。
けれど、いまはただ
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
一昨日のこと、神奈川組の坊守会が善龍寺さんで開かれました。
出席したのは母でしたが、そこで伺った善龍寺の若院さんのお話が素晴らしかったということで、さっそく私に教えてくれました。
この度の東日本大震災に対して、念仏者はどのような行動をとればいいのだろうか。
念仏者の根本には、【智慧】と【慈悲】をもって、物事を見て、行動するということがある。
【智慧】の目で見るとはどういうことか。
今、私たちの目に映るのは、震災や原発事故によって被災した方々の苦しみや悲しみだ。
しかし、その苦しみと悲しみとは別に、年間3万人の自殺者がいて、それに伴う苦しみや悲しみも常に存在している。
そうした現実に対して、私たちは何かを自粛したりしたことがあっただろうか?
毎日目にする死亡事故や殺人事件に対して、寄り添おうと努めたことがあっただろうか?
多くの人々が直面した震災に心を傾けることは当然のことではあるが、その時だけ自粛するというのは、やはりおかしいことのように思える。
常にある苦しみや悲しみに素通りしていた自分の姿に気づいていくこと。
苦しみや悲しみの大小を勝手に判断していた自分に気づいていくこと。
それは智慧の光に照らし出されることによって、明らかになっていく自分の有り様。
その有り様に気づいたうえで、【慈悲】の心をもって相手の思いを大切にしながら行動を起こしていく。
一方向しか見えない自らの目ではなく、智慧の目を通して物事を見ることによって、慈悲の心が生じてくる。
その心をもって行動しながら、自分は偏っていないかと己に問いかけながら顧みる、それが念仏者として、今あるべき姿である。
とのことでした。
母からの又聞きを再構成したお話なので、もしかしたら若院さんが意図した内容ではなくなってしまったかもしれませんが、それでも「なるほど」「そのとおり」と感じ入ったお話だったので、独自解釈を加えて載せさせていただきました。
坊守会の後は、みなとみらいに移動してお食事だったそうですが、節電のため観覧車のイルミネーションは消え、周りの高層ビルを彩る照明もなかったため、街の印象が随分違って見えたようです。
同じ風景でも違って見える。
明るいことに慣れ、明るいところばかりに目が行く私の目。
無意識の偏りに気づかされ、智慧の目を通して顧みることの大切さを感じるお話となりました。
昨日は羽田に用事があったので、ついでに少し足を伸ばして羽田空港の国際線ターミナルに行ってきました。
空港というより、江戸時代を舞台にしたテーマパークのようなところでした。
規模としては思っていたほど広くはありませんでしたが、外国の方に喜ばれそうな店構えのうえ、八つ橋や羊羹など、よく見かけるお土産物も包装が江戸風にリメイクされていて、日本人の私の目も楽しませてくれました。
しかし、それにしても……。
ガラガラです。
震災の影響というよりも、原発と放射能汚染による諸外国の渡航規制が原因のようです。
空港をぐるりと一周しましたが、外国の方とすれ違うことはありませんでした。
日本全体が非常事態の中にあるという認識。
もう特別不都合を感じることなく日常生活を過ごせるようになってきて、つい忘れてしまいがちになっていましたが、この認識が諸外国の共通意識であることを目の当たりにした光景となりました。
羽田の国際線は、台北や上海、ソウルなど、主にアジアが中心となっています。
私も台湾や韓国に行ったことがありますが、もう今から10年以上も前のこと。
冬の寒さとは別の、冷たい何かを感じた日韓サッカーワールドカップ前の韓国。
温かい笑顔と人柄の奥にある、抗日運動の歴史を持つ台湾。
成田から飛び立った頃に感じた心の隔たりは、羽田に降り立つアジアの観光客の多さに反比例するように、小さくなっていったように思います。
しかし今、日本はその観光客が降り立つことのできない国土へと変貌してしまいました。
けれど、アジアの国々の方の心は変貌していないのだということを、差し出される支援の手の多さを見て感じます。
その手を握り返すとき、果たして自分は恥じることのない振る舞いができていたのか、顧みなくてはなりませんね…政府も東電も、それから私も。
最乗寺の客殿のお座敷です。
窓の外に見えるのは…。
紅葉したタムケヤマ(手向山)という楓(カエデ)です。
新緑の季節なのに紅い葉なんて、なんだか不思議な気持ちになりませんか?
この紅葉する現象は、新緑の時期にカエデ類などで起きるもので、春紅葉(はるもみじ)と言います。
どうやら、光合成が本格化するまでは葉緑素が十分ではないため、緑色が薄く、木が持つ元来の赤や黄色の色素が見えてしまうことによって、紅葉したように見えてしまうのだそうです。
秋の紅葉ならば、これから落葉してしまうところですが、春の紅葉は落ちずに新緑へと変わっていきます。
その様はどちらも美しく、楓特有の気高かさを感じることができます。
残念ながら裏庭にある木なので、通りすがりにご覧いただくことは適いませんが、客殿は法事以外にも、一般の方がご参加いただける【お経の会】や【初参式】などで使用しています。
ご覧になりたい方は、行事に参加していただくと見放題です(笑)
次の【お経の会】は5月14日(土)、午後2時から本堂にて開催いたしますので、皆さまのお越しを心よりお待ちいたしております。
ちなみに、昨日の夕飯もカレーでした…。
※ 追記
春紅葉の写真を更新しました。
2016年4月の光景です。
(http://blog.goo.ne.jp/saijoji/e/01452987b15151385f0ecad703faab8b)