今日で今年も終わりです。
そして明日1月1日は、午前9時より本堂にて修正会をお勤めします。
お汁粉のご用意もありますので、ご家族お誘い合わせのうえ、お参りくださいませ。
今日は年末で、明日はお正月。
今日も明日も同じ1日ではあるけれど、そこに確かな違いを感じることで、今までを振り返ったり、前を向いて進んだりできるのだと思います。
そう考えると、今日はとてもとても貴重な1日です。
振り返れば、いろいろあった2011年。
だから、最後もいろいろ書きたくなりますが、一番伝えたいことは感謝なんだということに気がつきました。
幾多とあるブログの中から、この『週刊 最乗寺だより』をご覧下さっているという有り難いご縁に、ただただ喜ぶばかりです。
今年も、私の拙い文章や我見にとらわれた文言をはじめ、能天気な日常をつらつらと書き連ね、私用と化してしまったこのブログをお読みいただき、本当にありがとうございました。
「良いお年を」と言うのも、今年は今日が最後。
そして、明日は「良い年」の始まりです。
どんな年になろうとも、1日1日がかけがえのない尊い1日であるということに気づかせていただいた1年を過ごしてきた私たちにとって、新たな年はかけがえのない「良い年」であることに違いありません。
ですから、どうぞ皆さま、良いお年をお迎え下さいませ。
この1年、本当にありがとうございました。
NHKドラマスペシャル『坂の上の雲』の最終話が、25日の日曜日に放送されました。
リアルタイムだと龍くんに邪魔されてしまうので、録画しておいたのを若住職と観賞しました。
以前に書いたとおり、日露戦争・日本海海戦の迎撃作戦「トーゴー・ターン」で終わった前回の放送。
今回は、その号令から始まり、バルチック艦隊を圧倒的な優位性のもとに撃破する映像が多くを占めました。
この海戦で参謀を務め、物語の中心的な立場にいた秋山真之は、戦闘終了後に自宅に戻った最初の晩、深い胸の内に秘めていた感情を吐露して涙を流します。
「坊主になりたい」
「坊主になって、敵味方も関係なく、命を落としていった者たちを弔いたい」
「あの海の底には、たくさんのロシア人と日本人が沈んでいるんだ」
降伏し、戦闘不可能なロシアの戦艦に乗り込んだ秋山真之が見たのは、日本人である自分と同じ人間が苦しみもがき死んでいくロシア人の姿でした。
「怨親平等」という言葉があります。
怨み憎む者も、愛する親しい者も、隔たれることなく平等であるという意を持つ言葉。
平等とは、仏の前では誰もが同じ命を生きるものであり、同じ救済の願いをかけられているということです。
一般には、敵も味方もなく同じように扱うことであり、怨親問わず一切の犠牲者を同じように供養するという意として使われています。
秋山真之が生まれ育った松山は、この怨親平等の心で多くの人々と接し続けた一遍上人が誕生した土地でもあります。
そして、秋山真之の中にあった怨親平等の心が揺さぶられたことに、違和感もなく自然と受け止められるほどの生々しい戦争の映像が、このドラマにはありました。
しかし、暖かな部屋と、隣に座る人の温もりというものとは程遠い血生臭いリアルな映像の連続が、反対に私の中から戦争へのリアリティを奪っていったようにも思います。
それは何故なのか・・・、そう自分に問うということに価値があるような気がしました。
再放送は30日の午後1:05からです。
千両・万両・南天。
赤い実を見ると、近づくお正月を感じます。
写真の南天は寺報の表紙にしようと思って撮ったもの。
しかし、モノクロの印刷では、赤い実の鮮やかさが全く出ませんでした。
「南天のど飴」でも有名な南天。
赤い実に含まれるドメスチンには鎮咳作用があるそうです。
また、葉っぱは南天葉という生薬で、鎮咳のほか解熱などの作用があるとのこと。
南天というと、「難を転ずる」として縁起物にもなっています。
福寿草とセットにすると、「難を転じて福となす」とも(笑)
しかし、「難」とは何かと自分に問えば、あまりに個人的なことでした。
私の個人的な「難」など、語りようもない2011年が、もうすぐ暮れようとしています。
「難と感じるのは自分にとって都合の悪いことだから」
「自分中心に物事を見ているから、それが難と感じるのです」
「難もまたご縁の一つの形」
「今は難でも、それが福へと転じるご縁に出遇えるのだから、有り難く受け止めましょう」
自分事ならば、こういう言葉で済ますこともできるでしょう。
他人事でも、今までならば言えました。
けれど、他人事を自分事として深く深く考えたとき、このままの言葉を使ってはいけないんだということにようやく気づきました。
それが、2011年の年の瀬に、私が一人思うこと。
さて、今回の目的は本山の聞法会館で開催された・・・
『メリシャカライブ2011』です。
観覧ではなく、スタッフとして参加してきました。
今年で3回目を迎えるメリシャカライブ。
このライブは、浄土真宗本願寺派の若手僧侶が集って開設された「メリシャカ!」というサイトが基盤にあります。
※「メリシャカライブ」と「メリシャカ」の趣旨はこちらをご覧下さい→http://ms-live.net/?cid=4
メリシャカのメンバーは10人。
ちなみに私も一員です。
長崎・山口・広島・京都・富山・石川・神奈川・東京・千葉と、バラバラに散っているメンバーが一同に会するのがライブの当日。
それまではネット会議で情報を共有し、現地スタッフを募集して、本番に備えます。
(もっとも、私はほとんどノータッチなのですが・汗)
子育て真っ只中の私には、到底行けそうにないと諦めていたところ、背中を押してくれたのは若住職でした。
というわけで、3回目にして初参加となったメリシャカライブ。
アーティストの演奏のみならず、読経や法話、会場のお客さんと僧侶とのパネルディスカッションなどなど、大盛り上がりで無事終了しました。
しかし私はスタッフなので、会場内の様子が分からず残念無念。
ただ、会場から出てくる若い女性が、「お坊さんの話、良かったよねぇ」と言い合っていました。
メンバー同士、その言葉を嬉しく聞いていたのですが、後に続いた言葉が「愛って冷めるんだよね」でした(笑)
どんなお話だったのか、その時は分かりませんでしたが、響く言葉というものは人それぞれなんだということが身に染みました。
それでも、彼女たちが響く言葉に出会えたというだけで、主催者サイドとしては嬉しい限りです。
さて、その彼女たちの心を打った僧侶のお話というのがコチラ ↓
最近は結婚式で、愛を言うでしょ。
駄目ですよ~ 愛はね~ 冷めますよ!!
愛でなく、縁でつながらないと、人と人はつながりません。
その人と一緒にいるのも、何かの縁なんです。
その人と会うべくして、今会ってるんだという縁を思って、その人といるのが良いと思いますよ。
確かに・・・、やっぱり「愛」より「縁」のほうが確かですよね。
どんなに急いでいようと、本山への参拝は欠かせません。
まずは、阿弥陀堂から参拝します。
ずっとお参りできなかったという心のつかえがようやく取れ、気持ちを新たにすることができました。
続いて左手にある御影堂へ、渡り廊下を歩いて移ります。
正面から見ると ↓
こちらが親鸞聖人750回大遠忌法要の会場となっています。
中はというと・・・。
法要中ではないので薄暗くなっています。
そして、後ろを振り返って撮った写真がコチラ ↓
すごい椅子の数です。
ここは、外から見ると白く覆われた部分で、法要のために増築された部分の中の様子になります。
団参の際に、最乗寺は抽選の結果、お堂の中で大遠忌法要を参拝することが適いました。
この椅子の数を見ると、そのことがどれだけ幸いであったかということが良く分かりました。
古い建造物特有の重厚感に包まれていると、気持ちも穏やかになり、自然と姿勢も正されます。
阿弥陀堂からは、遠く京都タワーが望めます。 (写真中央に京都タワーがあります)
さて、では今回の日帰り旅の目的地へ急ぎましょう。