昨日はお散歩の代わりに、ベランダでお遊びしました。
←使ったのはコレ
100円均一のお店に売っているシャボン玉のアイテムです。
40cmくらいの長さで、シャボン玉の液の入った筒の中に、楕円の輪が付いている持ち手が入っています。
持ち手を刀のように振り回すと、大きなシャボン玉が幾つもできて、うまく吹いてシャボン玉を作れない子供でも簡単にシャボン玉が作れる優れものです。
さっそく、夢中になって振り回す龍くん。
ブレブレです(汗)
筒のほうを持ちながらの撮影だったので、どの写真もビミョーな映り具合で残念。
でも、本人がとっても楽しそうにシャボン玉を追いかけていたので問題なしかな?
朝夕が涼しくなって、夏の終わりを感じる今日この頃。
最後は花火をして締めにしたいのですが、善教寺さんの盆踊りの際に初めて間近で花火を見て、火花に全速力で突進していった龍くんが、果たして無傷で遊ぶことができるのか・・・。
さぁて、どうしよっかなぁ。
車を運転していると、前を走る大型貨物トラックの荷台に、こんな文字が・・・。
「最大積載量 おやつ400円分」
自分は大きなものを背負っていると気負うこともあるけれど、それは単なる思い込みなのかも。
無意識に肩の荷を重くして、自分の存在意義を確認したり、存在価値を高めようとしているのかも。
気張らず、考え過ぎず、肩の力を抜いて、有るように有るがままを受け入れれば、たいして重いもんではないんだろうなぁ・・・と、思ったりしました。
ちなみに、右に貼ってある【適合車(てきごうしゃ)】というステッカーを、結構長いこと【連合軍(れんごうぐん)】と読んでいました。
多くの大型貨物トラックに貼ってあるので、「随分大きな組織なんだな」と思っていたのを、「バカか、お前は」とバッサリ斬り捨てたのは古い友人。
笑いながら正してくれるは副住職。
飴とムチの2人は、私にとって400円以上のプライスレスな宝です。
昨日、久しぶりにお酒を飲みました。
考えてみると、最後に飲んだのは結婚するずっと前なので、4年半以上ぶりになります。
もともとお酒に強くはない上に、ビールも日本酒も焼酎も洋酒も、変な味がする液体にしか感じない味覚の持ち主なので、飲めるのはジュースのように甘いお酒だけ。
というわけで、飲んだのはコレ ↓
『さらりとした梅酒』 微炭酸で美味でした。
鹿児島出身の副住職は当然強く、住職(父)も飲める口、坊守(母)も量は飲みませんがビールは美味しいと言っています。
残念ながら、私だけはその美味しさが分からず仕舞いです。
さて、お酒というと五戒という戒律にあった不飲酒戒について書いたことがありました。
なので、今回は違う戒について書くことにしましょう。
アメリカの諺に、「嘘は常備薬、真実は劇薬」というものがあるそうです。
人は、いくつもいくつも小さな嘘を重ねて生きています。
例えば、心にもないお世辞や社交辞令も嘘の一つです。
こんなふうに、きっと本人も気づかないうちに、嘘をついているのでしょう。
それは人間関係の潤滑剤のようなもので、本当のことは、時に人を傷つけ、時に自分も傷つくことを知っているからかもしれません。
「他人を非難したり攻撃したりするとき、うそが混じっている間はまだ安全である。
その人の真実の欠点を指摘するとき、それは致命傷になる。」 (『心の処方箋』)
本当のことは、痛かったり、恐かったり、辛かったり、見たくなかったり、本当にいろいろです。
五戒の中の「不妄語戒」という戒は、簡単にいえば嘘をついてはダメっていうこと。
悪意のある嘘なら、戒められても文句は言えませんが、実際にはできそうで、できないものです。
なぜなら人は、無意識に嘘をつくから・・・。
お釈迦さまは嘘をつかないために、語らないという手段をとることもあったといいます。
けれど、私にはできません。
それは自分が傷つきたくないからでもあるし、相手を傷つけたくないからでもあるけれど、本当は真実が恐いから・・・なのかもしれません。
だからといって、開き直るのは筋違い。
嘘をつかずにいられない自分自身と向き合うことが、不妄語戒を守れない者へのせめてもの戒めです。
その上で、不実さえ覆い尽す大きな真実があることに気づけたらいい。
誰にでも、嘘や真実という相対を離れた世界(浄土)があるのだと気づけたらいい。
私はそう思っています。
けれど、嘘にもいろいろあって、つきすぎれば信用されない人間に思われ、本当のことも状況を間違えれば信頼関係を木っ端微塵に粉砕することを忘れてはいけません。
常備薬も毒薬も、薬であることには変わりはない。
用法用量を守り、正しく使いましょう。
ちなみに、お酒を飲んだことは、副住職は知りません。
しかも、私がお酒を飲んでいるところも、見たことがないはずです。
これは嘘ではないのですが、副住職に内緒にしているのは、真っ赤な顔を見られたくないという乙女心からでしょうか・・・これこそ悪い冗談に聞こえてしまいますね(笑)
毎日チェックしている「虚空山 彼岸寺」というHPに、こんな記事が更新されていました。
「曖昧さと明瞭」 (http://www.higan.net/navi/2011/08/post-766.html)
踏み切りにある「エンストしたら このボタンを押してください」という表示に対しての認識の違いについてのお話です。
一人は「走ってくる電車に危険を知らせるボタン」と考え、もう一人は「エンストを直してくれる人が来てくれるボタン」と考えた、ということでした。
正解はもちろん前者の「危険を知らせるボタン」ですが、確かに「エンストしたら このボタンを押してください」という表示には曖昧さがあります。
押したらどうなるのか、その結果が書かれていないのですから。
けれど、「考えなくても分かるでしょ」という一般論をもって、この表示は簡潔に完結しています。
こういった「考えなくても分かるでしょ」という表示に、不親切さを感じる人もいることでしょう。
だからといって、その人が一般的な考え方をしていないというわけでもないはず・・・。
かくいう私も、「考えなくても分かるでしょ」という表示に対して、何も考えなかったために違う結論に至ったまま勘違いをしていたものが多々あります。
その一つがコレ→ 高速道路の非常電話です。
高速道路での非常時に、この電話の受話器を上げると、直通で道路管理事務所に繋がるというものです。
しかし私は、この事実を教習所で初めて知りました。
それまでは、渋滞などで待ち合わせ時間に遅れるときなどの非常事態(笑)に、それを相手に伝えるために使える電話くらいのものとしか考えていなかったのです。(携帯電話の普及率が低かった時代の話なので)
この場合の私の認識が一般的かどうかは別ですが、それでも、人によって非常時の認識は異なりますし、この電話が直通電話であることは、知ろうとしなければ知りえないものでしょう。
「曖昧さ」と、それを「察する」のが日本人とも言われます。
だから、なんでも逐一説明していかなくてはならなくなれば、それはそれで窮屈な思いをすることになるかもしれません。
しかし、踏み切りのボタンも非常電話も、状況を考えれば大変に重要な局面に使うもの。
私のような勘違いをしている人がどれだけいるかは分かりませんが、もう少し世に広めていって欲しいなぁという思いを、自分の無知を棚に上げ、一般的な考え方にしようとしたりしているのですが・・・、やっぱり私が愚かなだけでしょうねぇ。
前の記事にも書きましたが、龍くんの今のお気に入りは地球儀です。
小さな手で地球儀を抱きかかえて来ては、私や坊守(母)に指を差した国の名前を聞いてきます。
龍くんの地球儀 私の地球儀
私も9歳の誕生日に、両親から地球儀をプレゼントしてもらいました。
赤道・緯度・経度・時刻変更線。
9歳の私は、その線が地球に直接引かれていて、目に見えるものだと思っていました。
でも、赤道に赤い線は引かれてないし、緯度も経度も時刻変更線も、肉眼でみえるものではないことを、少しずつ把握していきます。
それでも、国境は肉眼で確認できる線で分断されていると思っていたし、それらが消えたり動いたりするとは、考えてもいませんでした。
けれど実際には、地図上にしか見えないその線のために、多くの人々が争い、命を落とながら、線が書き換えられてきたという歴史があったことを知っていきます。
見上げた空は、どこまでも果てなく続いていて、そこには線など引かれてはいないのに、宇宙から見ているような青い地球を模した地球儀には、数え切れないほどの線が大陸の上に引かれている。
人類の誕生以来、その線の数だけ争いが起き、数え切れないほどの命が消えてきたことに気づいたとき、窓辺に置いた地球儀が悲しい色に染まって見えたことを、今でも鮮明に覚えています。
私の地球儀では、ベルリンの壁はまだ破壊されずに、ドイツは東西に分かれたまま。
ソビエト連邦もまだ崩壊していない世界がここにはあります。
20年以上の時が経ち、その間に線は何度も書き換えられてきました。
それはより良い方向への変革によるものでもあるのでしょう。
けれど、どんな理由によるものであろうとも、それは私たち人間の都合で引かれた線でしかないという事実に変わりはありません。
幾重もの線に分断されようと、地球は一つ。
地球儀を見る上で、それ以上に大切なことはないんだと、龍くんに伝えることができるのは・・・さてさて、いつになることやら(笑)