週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
045-941-3541

境内の風景

2010-11-29 00:48:02 | 近況報告

昨日は携帯の写真だったので、今日はデジカメで撮影してみました。







もみじもイチョウも綺麗に紅葉しています。
9時くらいに、お掃除のついでに撮影したのですが、境内には既に三脚を使って本格的に撮影されている方がいらっしゃいました。
四季を通して撮影して下さる方もいて、この境内が人を導くご縁となっている有り難さを、改めて感じている今日この頃です。


閑話休題・イチョウの黄葉

2010-11-28 01:04:31 | 近況報告

境内のイチョウの葉が、鮮やかな黄色に色づいてきました。


   山門前から      裏山へ登る途中から



青空に黄色が映えて、今がちょうど見頃のようです。

思わず見惚れる眺めですが、この葉っぱが全て落ちてきて、それを掃除しなくちゃいけないのかと思うと…毎年のことながら、気も身体も重くなるなぁ。
やはり、心から紅葉を楽しむのは、掃除をしなくていい他所のスポットに行くことでしょうか(笑)

けれど、最乗寺の境内一面に広がる黄色の絨毯は圧巻。
家に居ながら、この光景を眺めることができる私は、幸せ者です。

皆さまもお散歩がてら、最乗寺まで足を伸ばしてご覧になって下さいませ。


お坊さんとして ①

2010-11-27 01:24:59 | 近況報告
先日、築地本願寺にて東青僧(【東京教区青年僧侶協議会】の略)の研修会に参加してきました。

暴れん坊で母親べったりの龍くんを置いて家を出るのは至難のこと。
今回は副住職に仕事の手を休めてもらい、昼寝中の龍くんを預けての外出になりました。

研修会のテーマは≪これからのお坊さんの姿≫。
ご講師は、龍谷大学や中央仏教学院で教鞭をとられている先生でした。

最初に【僧侶とは何か?】という導入があり、浄土真宗では【非僧非俗】という、僧でもなく俗でもない、そこを超えた立場を貫かれた親鸞聖人に倣う位置に私たちはいるということを明らかにされました。

では【僧侶と門徒の違いは何か?】という視点では、袈裟を着るか否かであり、逆に考えれば、それ以外の違いはないという真理を説かれました。
しかし、この真理は先生個人のお考えではなく、親鸞聖人が残された『教行信証』という文献の中で引用された文が元にあります。

お釈迦さまの説かれた仏法が時を経て、スカスカのエッセンスしか残っていない末法の時代においては、頭を剃って袈裟を着た名ばかりの僧侶しかいない。
例えば黄金が最高の宝であっても、それがなければ銀が宝になるし、それもなければ偽物だって宝になる。
同じようにお釈迦さまの説かれた宝のような教えが薄れれば、最後には名ばかりの僧侶も無上の宝になる。 
 (超意訳)

親鸞聖人がご存命の時代は既に末法の世。
更に深刻な末法の現代において、袈裟を身にまとった僧侶がすべき役目(というより、できること)は「仏法は無価(価をつけることができないほど貴い宝)である」ということを世に説いていくことだとのことでした。

「僧侶としてどうなんだ?」
「あんた、それでも坊さんか?」

ご門徒さんを始め、僧侶の行動に疑問を持たれた方が多く口にする言葉です。
それは批判や非難に通じる言葉。
しかし、こういう言葉をいただけるということは、僧侶がまだ期待を持たれている、こうあってほしいという願いがたくされている存在であるということの証である。
僧侶というものが許され、受け入れられている存在であるということの証拠である…そう先生はおっしゃいました。
そして、言われなくなったら終わりだとも…。

汗水流して、必死に田畑を耕し、作物を育てている者が、「自分が苦労をしている時に、あなたは托鉢しているだけで何をしているんだ?」とお釈迦さまに訪ねた。
お釈迦さまはその問いに答えられました、「人の心に種を蒔き、水を与え、育てている」と。

お釈迦さまのみ教えが薄れた末法の世であろうとも、袈裟を着ただけの僧侶であろうとも、すべきことの道筋は残っている…。
今の自分を顧みて、名ばかりの僧侶であることは間違いないが、人の心の中にある【福田】を共に耕し、そこから産まれる幸せを喜ひ合うことができたなら…そう考えながら先生のお話をうかがっていました。

                            (つづく)

きっと 世界は素晴らしい

2010-11-25 01:43:17 | ひとりごと

最近、精神的に「疲れたなぁ」と思うときに聴く音楽がある。


  高橋 優 『素晴らしき日常』  (タイトルをクリックするとYoutubeでPVが見られます)


初めて聴いたとき、なぜが涙が溢れてきた。
あまりに痛々しい歌詞は、心が癒されるというよりも、古傷に爪を立てられているような…。
そういう感覚に陥るほどの、鈍い痛みが伴うものだった。


    麗しき国に生まれ育ってしまったために
   どれもこれもあって当たり前の日々を生きて
   完璧なものだけを欲しがっていった始末に
   完璧じゃない人間を遠ざける人々


育児と家事と法話や寺報やコラムの作成に追われ、精神的にも肉体的にもボロボロのとき。
それでも完璧にこなさなければならないと、自分を追い詰め、更に心を荒ませる。

そんなときにこの曲に出逢う。
そして、張り詰めていた心の糸が切れたのだろう。
ただ泣けた。

完璧であろうとしても完璧になりえない自分がいて。
その自分が、完璧であれと、相手へ強要する。

相手の不完全さを許せない潔癖さと、完璧であろうとする向上心を持たない者への冷ややかな軽視。
それらを併せ持つ不完全な自分が、「我が子」という1人の人間を育てていることへの不信感が急に襲ってきたのも事実。

「こういう人間になってほしい」

息子に願うことなら、たくさんある。
でも、私の願う理想の人間像になるためには、身も心もボロボロになるほどの経験と痛みを伴う過程を経てしか、なりえないということに気づけたから。
一つ一つの経験と痛みを、時間をかけて自分の糧にしていってもらえたらいい…それくらいの願いだけにしようかと思ってみる。

きっと息子も、私と同じように、完璧からは程遠い人間になるだろう。
不完全であろうとも、不完全であることを開き直るのではないのなら。
それでいい…それがいいんだ。


    そこから覗いている景色は天国にも地獄にも変えられるよ
   まだ笑うことができるかい?
   まだ歩くことはできるかい?
   その通じ合っているような気がする人を連れて
   愛し合う人の間から生まれてきた
   僕らの明日が待ってる
   きっと 世界は素晴らしい


まだ笑うことも、まだ歩くこともできるはず。
だからきっと、世界は素晴らしい。


掃除の季節

2010-11-22 01:00:55 | ひとりごと

落ち葉と追いかけっこの季節になりました。

午前と午後、竹箒や熊手やブロア(噴き出す風で落ち葉を集める掃除機具)を使って、境内のお掃除をしているのですが、後ろを振り返るともう落ち葉が…。
墓地は隣の林が切り拓かれたことで風当たりが強くなり、掃いた落ち葉が吹き付ける風に舞い上がって、なかなか上手く集らず…。

けれど、眺めはとっても良くなったので、思わず掃除の手を休めて携帯のカメラでパチリ。



墓地の頂上からの展望です。
遠くに武蔵小杉辺りの高層マンションが見えました。

有り難いことに、私は子供の頃から境内の動植物の移り変わりで、季節の移ろいを感じてきました。
桜の花に春を感じ、蝉の鳴き声に夏を感じ、銀杏の落下に秋を感じ、落葉した寒々しいイチョウの木に冬を感じる。
今もまた、落ち葉を掃きながら深まる秋と、冬の訪れを感じています。

しかし、ある布教師さんがこんな話をされたことを思い出しました。

私たちは桜の花を見て春が来たと思う。
同じように、蝉が鳴いたから夏が来たと思い、紅葉を見て秋が来たと思う。
だが、桜が咲くから春になるのではない。
蝉が鳴くから夏になるのでも、紅葉したから秋になるのでもない。

桜の花が咲くのは、春になったから咲くのである。
まず、春という季節となり、その結果に桜の花が開くのだ。

それは阿弥陀さまの私たちを救わんと立てた誓願にも言えること。
私たちが「どうか助けて下さい」と手を合わせて願ったから、阿弥陀さまが私たちを助けようと誓願を立てて、立ち上がって下さったわけではない。
「助けて下さい」と私たちが願うその前に、阿弥陀さまは私たちを救うために、どうすればよいのかをお考えになり、そうして誓願を立てられ、全ての生きとし生けるものを救いとって下さる摂取不捨の仏となられたのだ。

だからこそ、私たちが手を合わせ称えるお念仏は、「助けて下さい」と願うものではなく、「ありがとうございます」という感謝のお念仏になるのである。

私たちは、目に見えるものから状況を辿ることが常ではあります。
季節の移ろいを、動植物や自然現象をなくして感じることは難しい。
けれど、感じることはできなくても、そこにある自然の摂理を忘れてはならないのでしょう。

私もまた、見ることはできない摂理の中で生きる者。
そして、見ることはできない阿弥陀さまの救いの中に生きる者。
ホウキを握るこの手のひらは、欲望の成就を願うためにあるのではなく、秋になり紅葉し、落ちる木の葉を掃除できる今日という日を生かされていることを喜ぶためにある…。

そう思うと、なぜか不思議と手を合わせたくなる。
これが阿弥陀さまの「はたらき」をいただいているということなのかもしれない…そんな心温まること考えていても、落ち葉は一向に片付かないという現実が、今は少しばかり憎たらしい。