1年ぶりに別サイトのコラムの更新をしました。
「7月の読書感想文 『ONE PIECE』」
http://merry-shaka.com/?eid=977
寺報の表紙文がベースになっています。
引用が法然上人からお釈迦さまに変わっていたり、補足が入っていたりと、違いを楽しんでいただけたらと思います。
実は今号の表紙文には、ボツになったものがあります。
最初に『ONE PIECE』について書いた文でしたが、いまいちピンとせず書き直してしまいました。
でも、せっかく書いたので、こちらのほうで公開しようと思います。
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最近、息子が「ONE PIECE(ワンピース)」を読み始めました。
海賊の少年・ルフィが仲間とともに「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」を求め旅する物語で、週刊誌に20年連載されている日本を代表する人気漫画です。
物語の重要な要素の一つである「悪魔の実」。
一口食べると泳げなくなることと引き換えに特殊な能力が備わるというもので、小さい頃にゴムゴムの悪魔の実を食べたルフィは、体を変幻自在に伸縮させる能力を持っています。
他にも炎を操る、描いた絵を実体化させるなど、悪魔の実による能力者が次々に現れます。
夢中で読んでいる息子にどの実を食べたいかを聞くと「ゴロゴロの実がいい」との答えが。
これは雷の能力が備わる実で、雷の速さで移動でき、金属内も伝い動くことができます。
また電気ショックで蘇生も可能という、とても便利そうな能力ですが、物語に出てくるゴロゴロの能力者は2億ボルトの電力で破壊の限りを尽くしました。
破壊の原因は悪魔の実ではありますが、悪魔の実が悪いのかというと、そうではありません。
ただのハサミも紙を切るか、人に向けるかで大きな隔たりがあるように、手に入れた能力をどう使うのか、そこにある意思によって良し悪しが分かれてしまうのです。
過ぎた力によって引き出された欲望が善悪の線引きを歪めてしまうのは物語ではよくあること。
しかし親鸞聖人の「善悪の字しりがおはおおそらごとのかたちなり」との言葉にあるように、海賊に肩入れしながら物語を読む私の善悪も、己の都合に偏った空言でしかないのです。
舵のない私が大海原で遭難しないため、親鸞聖人という航海士が残した指針は、進む航路を今なお、お示し下さっています。
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こんな感じです。
今日は龍くんの学校グッズの買い出しに、ららぽーと横浜へ行ってきました。
広いので歩くだけでも良い運動です。
いつも歩数を稼ごうと、車は目的のお店から一番遠い駐車場に停めています。
さて、ららぽーと内にあるイトーヨーカドーのエスカレーターに乗っていると、「本日は大安です」というのぼりと一緒に赤い下着を身に着けた男性のマネキンが立っているのが見えました。
どういうことか分からないので調べてみると、申年に赤い下着を身に着けると「病が去る」「迷いが去る」という言い伝えがあるそうで、相手にプレゼントするなら申の日の大安や友引・先勝がいいとのこと。
そして、どうやらその申の日の大安が今日だったようです。
二重三重の縁起担ぎにビックリ。
世の中、迷信や縁起担ぎがいろいろあるものですね。
でも、どうやらこういうことは昔からあったようです。
親鸞聖人が残されたご和讃に迷信俗信に惑わされている人々を憐れんで詠まれたものがあります。
悲しきかなや道俗の
良時・吉日えらばしめ
天神地祇(てんじんじぎ)をあがめつつ
卜占祭祀(ぼくせんさいし)つとめとす
「悲しいことに、今時の僧侶や民衆は、何をするにも日の良し悪しを気にしてみたり、天の神・地の神を崇めて、占いやまじないなどにいそしんでいる」
800年前に詠まれたご和讃に説かれていることが、科学の発達した今日でも全く違和感なく受け入れられるところに、人間の根元的な迷いは今も昔も変わらないということを教えてくれています。
どのような巡り合わせにも原因があり、それによって結果が生じます。
例えば「申年に赤いパンツをはくと病気にならない」に因果関係はあるでしょうか?
辞書にも書いてあるのですが、迷信とは因果関係の道理を捻じ曲げてしまうものだと受け止めてください。
大事なのは、惑わされないということです。
これは迷信や占いなどの俗信を全否定するということではありません。
「〇〇しなければ悪い結果になる」「〇〇すると良くない」という迷信や占いに出会った場合でも、そのことに流されない生き方があるということ、気にする必要がなくなるということです。
今すぐ変えるのは難しいかもしれませんが、迷信などによって物事の本質を見失ってしまったことに気づいたとき、「惑わされている」という自覚を持つことが仏の道の第一歩です。
ネタを探しに境内をブラブラしていると、本堂の裏手に立派な蜘蛛の巣がありました。
(下に写真があるので、蜘蛛が苦手な方はここでブラウザバックしてください)
複数の蜘蛛で作られた直径2メートルはありそうな巣。
中央では大きな蜘蛛がお食事中でした。
ここに蓮池があれば、芥川龍之介の『くもの糸』のお釈迦さまの真似事ができたでしょうが、芸術的な蜘蛛の巣を壊すのは嫌なので、蓮池があっても私はカンダタへ糸を垂らすことはないでしょう。
小さい頃『くもの糸』を読んで、細い糸で人を救えるお釈迦様の凄さより、蜘蛛の巣を壊してはいけないという教訓めいたもののほうが印象深かったことを思い出します。
言い換えれば、蜘蛛を助けておけば地獄に落ちても救われるかもしれないという期待があり、よくよく考えれば小さな私は地獄に落ちる自分を想定していたことに驚きます。
我が身を省みればその想定は間違いではないと言えますが、物語の中での細い糸を垂らして人を試すようなお釈迦さまの慈悲の描かれ方は間違いだと今の私は言うでしょう。
「慈悲」という言葉には「憐み」「憐憫」の気持ちが伴うのが日本語での受け止め方のように思います。
けれど、古代インドのサンスクリット語にさかのぼった本来の解釈は、他の生命全てに対して平等の気持ちを持つこと、相手の幸福を望む心、苦しみを取り除いてあげたいという心をいいます。
特に慈悲の慈「マイトリー」は「友情」を意味する「ミトラ」が基にあります。
それは蓮池の描写のように、下から見上げ、上から見下す関係では生じえない。
上も下もなく、同じ目線で、同じものを見て、同じように感じる心を持つということです。
だからこそ、救わずにはいられない。
地獄に落ちる生き方をしていようとも、見捨てることなどできやしない。
同じ目線にたつからこそ、そう願わずにはいられなかった仏さまの本当の「慈悲」からは、切れてしまう糸を垂らされるときにはない暖かさを、感じることができるのではないでしょうか。
というような法話を、今度の土曜日のお経の会(午後2時から)でしようかなと思ったり。
それか落語会つながりで「三枚起請文」のお話をするか悩み中です。