天野隆司訳のサマセット・モーム作『昔も今も』(ちくま文庫2011年6月刊)を読んだ。こなれた訳文が読みやすくておもしろかったが、主人公のマキアヴェリが、子供がいない商人の若い細君を手に入れるために、財産相続をめぐって策を弄するという筋書きから、私はこの夏にまとめて読んでいたジェイン・オースティンの小説世界を連想した。作者は、当時のイタリアというよりも、自分の住んでいるイギリス社会を投影しているところがあるのではないか。
ところで、先週あたりから話題にしている花田清輝が、ツヴァイクの『ジョセフ・フーシェ』について、手厳しいことを言っている文章を見つけた。私は二十代の頃にこのツヴァイクの小説にいたく感銘を受けた覚えがある。と言うよりも、これを一種の抵抗小説として誤読していた覚えがある。ツヴァイクは、当時の全体主義政党に集っていた政治的人間の姿を浮き彫りにしたのだと私は思った。花田の文章を引こう。
「猫にミルクをやっている大仏次郎の写真などをみると、かれは、まことに心のやさしい人物らしいが、残念ながら、わたしには、平野謙の推奨するかれの『地霊』といったような作品は、ツヴァイクの『ジョセフ・フーシェ』などとなんらえらぶところのない、ダブル・スパイを神秘化した通俗読み物のような気がしてならないのだ。なにもわざわざ『地霊』をもちだすまでもない。伊藤整流の「組織と人間」といったような定式なら、大仏次郎の第一作である『鞍馬天狗』からでも読み取れるであろう。鞍馬天狗が、ひとりぼっちで抵抗しているのは理由のないことではないのだ。ということは、つまり、その方式そのものが、鞍馬天狗とともに、すでに疾の昔からパータン化しているということであって、…(以下略)」
二十代の私は単純にツヴァイクに感心してしまっていたのだから、こういう手厳しく批判する視点は生まれようもなかった。のみならず、私の周辺にはこの小説を地で行くような人物もいないではなかった。私はそれをも面白がっていたのだから、土台がこんなふうに相対化などできようもなかった。
さて、花田の文章の引用を続ける。
「そこへいくと獅子文六はちがう。(略)岩田豊雄の本名で彼のかいた『東は東』という戯曲は、昭和八年の作品であるにもかかわらず、わたしのみるところでは、いまだにわれわれの周囲においては、これを抜く作品は一篇もあらわれていないのだ。」
(全集第十巻所収「実践者の眼」より)
私は獅子文六のこの戯曲を読んだことがないが、これは尋常でない称讃の言葉である。さらに、花田は次のように書く。
「…そういえば、わたしが岩田豊雄の名前をはじめて知ったのは、ピランデルロの芝居の翻訳者としてであった。ピランデルロの芝居の翻訳の後記のなかで、岩田豊雄が、「世には多くのピランデルロ嫌いがある。恰もピランデルロを無責任な手品師か、ダダイストの酔漢の如く心得てる人がないこともない。少くとも自分の見るところはその反対である。(略)少くとも一度はドストエフスキーのように、人生の正不正と人間の悲惨と不幸を、目の玉の飛び出るほど眺めたことのある人であると思う。即ち彼は純粋な技巧派でも芸術派でもなく、寧ろ正銘な人生派の現実主義者として出発点を持ってると考える」といっているのは卓見である。認識者の文学というのは、要するに、そういうものだ。」
以下に花田の一文から『東は東』の内容がうかがわれる岩田豊雄自身の文章を孫引きしてみようと思う。
「当時、私の妻はフランスで死に、大きな打撃を受けたが、それを私は運命的に考え、日本人と外国人の結婚を絶望視した。その頃、誠文堂文庫かなんか、流布本の狂言集を読んでると、日本へきた唐人と日本女の結婚生活の笑いを書いた゛茶三盃゛とかいうのがあり、ひどく身に沁みた。それにヒントを獲て、ああいうものを書いた」と。
こうして抜き書きをしながら、そういえば日産とルノーの話題で持ちきりのいま、今日のこの一文のコンステレーションの度合に少し驚いている。獅子文六、どこかでリバイバルしないかな。
ところで、先週あたりから話題にしている花田清輝が、ツヴァイクの『ジョセフ・フーシェ』について、手厳しいことを言っている文章を見つけた。私は二十代の頃にこのツヴァイクの小説にいたく感銘を受けた覚えがある。と言うよりも、これを一種の抵抗小説として誤読していた覚えがある。ツヴァイクは、当時の全体主義政党に集っていた政治的人間の姿を浮き彫りにしたのだと私は思った。花田の文章を引こう。
「猫にミルクをやっている大仏次郎の写真などをみると、かれは、まことに心のやさしい人物らしいが、残念ながら、わたしには、平野謙の推奨するかれの『地霊』といったような作品は、ツヴァイクの『ジョセフ・フーシェ』などとなんらえらぶところのない、ダブル・スパイを神秘化した通俗読み物のような気がしてならないのだ。なにもわざわざ『地霊』をもちだすまでもない。伊藤整流の「組織と人間」といったような定式なら、大仏次郎の第一作である『鞍馬天狗』からでも読み取れるであろう。鞍馬天狗が、ひとりぼっちで抵抗しているのは理由のないことではないのだ。ということは、つまり、その方式そのものが、鞍馬天狗とともに、すでに疾の昔からパータン化しているということであって、…(以下略)」
二十代の私は単純にツヴァイクに感心してしまっていたのだから、こういう手厳しく批判する視点は生まれようもなかった。のみならず、私の周辺にはこの小説を地で行くような人物もいないではなかった。私はそれをも面白がっていたのだから、土台がこんなふうに相対化などできようもなかった。
さて、花田の文章の引用を続ける。
「そこへいくと獅子文六はちがう。(略)岩田豊雄の本名で彼のかいた『東は東』という戯曲は、昭和八年の作品であるにもかかわらず、わたしのみるところでは、いまだにわれわれの周囲においては、これを抜く作品は一篇もあらわれていないのだ。」
(全集第十巻所収「実践者の眼」より)
私は獅子文六のこの戯曲を読んだことがないが、これは尋常でない称讃の言葉である。さらに、花田は次のように書く。
「…そういえば、わたしが岩田豊雄の名前をはじめて知ったのは、ピランデルロの芝居の翻訳者としてであった。ピランデルロの芝居の翻訳の後記のなかで、岩田豊雄が、「世には多くのピランデルロ嫌いがある。恰もピランデルロを無責任な手品師か、ダダイストの酔漢の如く心得てる人がないこともない。少くとも自分の見るところはその反対である。(略)少くとも一度はドストエフスキーのように、人生の正不正と人間の悲惨と不幸を、目の玉の飛び出るほど眺めたことのある人であると思う。即ち彼は純粋な技巧派でも芸術派でもなく、寧ろ正銘な人生派の現実主義者として出発点を持ってると考える」といっているのは卓見である。認識者の文学というのは、要するに、そういうものだ。」
以下に花田の一文から『東は東』の内容がうかがわれる岩田豊雄自身の文章を孫引きしてみようと思う。
「当時、私の妻はフランスで死に、大きな打撃を受けたが、それを私は運命的に考え、日本人と外国人の結婚を絶望視した。その頃、誠文堂文庫かなんか、流布本の狂言集を読んでると、日本へきた唐人と日本女の結婚生活の笑いを書いた゛茶三盃゛とかいうのがあり、ひどく身に沁みた。それにヒントを獲て、ああいうものを書いた」と。
こうして抜き書きをしながら、そういえば日産とルノーの話題で持ちきりのいま、今日のこの一文のコンステレーションの度合に少し驚いている。獅子文六、どこかでリバイバルしないかな。
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